「ノート:サマタ瞑想」の版間の差分
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::資料に書いてあればよいというものでもなく、Booklet 19、慶應義塾大学アート・センターなどは、[[Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意]]の「彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです」に反します。他の資料も仏教学的に不十分であり、サマタ瞑想の言及もないようです。 |
::資料に書いてあればよいというものでもなく、Booklet 19、慶應義塾大学アート・センターなどは、[[Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意]]の「彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです」に反します。他の資料も仏教学的に不十分であり、サマタ瞑想の言及もないようです。 |
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::1月17日より、22日経過し、強固な理由なく改名されたことが判明しました。今になって文献を調査するということであれば、今明らかである止に改名し、サマタ瞑想の語彙の調査を行っていた後で出典を明確に提示くださればと思います。いかがでしょうか。--[[利用者:タバコはマーダー|タバコはマーダー]]([[利用者‐会話:タバコはマーダー|会話]]) 2017年2月8日 (水) 05:09 (UTC) |
::1月17日より、22日経過し、強固な理由なく改名されたことが判明しました。今になって文献を調査するということであれば、今明らかである止に改名し、サマタ瞑想の語彙の調査を行っていた後で出典を明確に提示くださればと思います。いかがでしょうか。--[[利用者:タバコはマーダー|タバコはマーダー]]([[利用者‐会話:タバコはマーダー|会話]]) 2017年2月8日 (水) 05:09 (UTC) |
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:::{{コ}}>''ヴィパッサナーについての議論ではありません。'' |
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:::いいえ、ヴィパッサナーも関わる議論です。「サマタ瞑想」を「止」に改名するならば、同じ理屈で「ヴィパッサナー瞑想」を「観」に改名することになるからです。 |
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:::慶應義塾大学アート・センターは''表記、呼称はウィリアム・ハートの『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法 』(1999年11月)に依拠している。''としていますが、もう一度ごらんになって下さい。 |
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:::>''事実認識がおかしい点として「大乗仏教の一般書(法話)」というのがありますが、講演会の書籍版とかそういうものではないですね。'' |
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:::「ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく」とタルタン・トゥルク「静寂と明晰―チベット仏教ゾクチェン修習次第」が専門書とのことですが、その根拠と線引きはどこにあるのでしょうか?基準とされているガイドラインなどあればご教授くださいませ |
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:::>''強固な理由なく改名されたことが判明しました。'' |
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:::これは強固な理由を提示した上で正規の改名手順を踏まずに行われた最初の改名に当てはまると思います。タバコはマーダー氏はなぜ最初にご自分がノートにおいてなんの提案も行わずに改名を強行したことを否定なさるのですか?--[[利用者:Ryo 625|Ryo 625]]([[利用者‐会話:Ryo 625|会話]]) 2017年7月8日 (土) 07:50 (UTC) |
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==CD版という出典の除去== |
==CD版という出典の除去== |
2017年7月8日 (土) 07:51時点における版
改名
上座部仏教でサマタ瞑想と呼ぶというように書いてあったり、ヴィパッサナー瞑想の呼称が、特定の観点であるはずが観点を省略しており、上座部仏教はもちろん、それ以外の仏教学の専門書とも言及が異なっており改定が必要でした。
特別:投稿記録/Dhamma氏が、サティ (仏教)、 サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想と記事を作成され2007年から活動停止状態ですが、仏教記事は漢字が多いですけど、記事の止観、あとは仏教#止観・瞑想ですね、このあたりとも整合性がおかしいので、ここサマタ瞑想に関しては出典もないスタブであることもあって修正が簡単ですので、伴って改名します。
もちろん、Wikipedia:ページの改名のガイドラインには「明らかに記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」には直ちに改名できるということとなっておりますし、上座部、大乗、チベットの仏教の専門書、また中村元などの仏教大辞典、そうした信頼できる情報源において一般的ではないので。
- 総合仏教大辞典編集委員会『総合佛教大辞典』法蔵館、2005年。ISBN 4-8318-7070-6。
- (編集)中村元、田村芳朗、末木文美士、福永光司、今野達『岩波仏教辞典』(第2版)岩波書店、2002年。ISBN 4-00-080205-4。
- 中村元『佛教語大辞典』東京書籍、1975年。
- ラリー・ローゼンバーグ 著、井上ウィマラ 訳『呼吸による癒し』春秋社、2001年。ISBN 4-393-36406-6。
- ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 著、菅沼晃 訳『ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく』春秋社、2001年。ISBN 978-4-393-13335-4。
- ラマミパム、(解説)タルタン・トゥルク 著、林久義 訳『静寂と明晰―チベット仏教ゾクチェン修習次第』ダルマワークス、1992年。ISBN 4-7952-8281-1。
すべて、止:シャマタとか止:サマタというような書き方で、カタカナ部分には表記ゆれがあり、止観の漢字も示されますし「瞑想」とはつきません。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月15日 (日) 11:16 (UTC)
- とりあえず上座部仏教の信頼できる出典がほとんどないので、「止」への改名は取消させてもらいます。(止という記事名は一般的すぎるとも思います)。改名提案の手続きを踏んでからの改名が穏当かと存じます。--Ryo 625(会話) 2017年1月17日 (火) 16:28 (UTC)
- (追記)私は特に「止」への改名には反対ではないので、ページ名は「止_(仏教)」でいいと思います。(改名提案ではありませんよ、念の為)--Ryo 625(会話) 2017年1月17日 (火) 16:46 (UTC)
- 既にご説明した通り、Wikipedia:ページの改名のガイドラインにおいて、ただち改名を行えるケースは、「明らかに記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」です。記事名のガイドラインでは日本語の正式名称を使うとか、信頼できる情報源において認知度が高いとかの基準があります。
- 「サマタ瞑想」への改名は手順を経る必要があるかと思います。
- 上に挙げた以外に、『上座仏教事典』p280に「止観」の項があり、サマタ止、ヴィパッサナー観と漢字が併記されていますし、瞑想とは書かれません。漢字表記は他の仏教辞典、上座部系の一般寄りの上で挙げた『呼吸による癒し』や、他にも『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』とも整合して確認はとれます。逆に、サマタ瞑想という表現は一般書に書かれている程度だと思うので、うまく確認がとれません。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月18日 (水) 11:38 (UTC)
- まあ、Ryo 625氏の止への改名には反対ではないの通り、ページ名については漢字表記するということで合意が得られているようであり、その前提には、仏教系の記事の日本語の正式名称が慣行(禅定、禅、精進、慚、愧、恨、覆、悩、嫉)だということがあると思います。明らかに、記事名に違和感があるということだと思うんですが。
- そういう場合には、「明らかに記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」には直ちに改名できるというのが、Wikipedia:ページの改名のガイドラインですので、そのガイドラインのご理解が欠けていのではないかと思われます。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月18日 (水) 12:42 (UTC)
- まず改名提案を行う際の手順をご覧ください。また、記事名をつけるときには基準がありますが、具体的にどれを満たしていなかったのか教えてください。言葉が足りませんでしたが、ページ名については「止_(仏教)」と後ろに「_(仏教)」を付けることが望ましいと思っているので、条件付き賛成です。--Ryo 625(会話) 2017年1月18日 (水) 14:15 (UTC)
- この3つ上↑の、「まあ、Ryo 625氏の」で始まる段落って、タバコはマーダーさんの書き込みなのでは(参照)? Ryo 625さんの署名が付いているのは誤りではないですか?--Leonidjp(会話) 2017年1月18日 (水) 15:02 (UTC)
- 署名については、当方の文の後ろにRyo 625氏の署名が来ていたので訂正しておきました。ご指摘ありがとうございます。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月18日 (水) 17:57 (UTC)
- その「改名提案を行う際の手順」には、直ちに改名を行ってもいいケースがあり、それ以外の場合に改名提案するとあるのでRyo 625氏の方が読まれていないため、ガイドラインに理解がないものと思われます。最初の発言で説明済みではありますが、参照いただけてないものと思われます。
- 具体的に記事名のつけ方の、どれを満たしていないのかについて、最初の発言で既に「信頼できる情報源において一般的ではないので」と書いていますし、「止観、あとは仏教#止観・瞑想との整合性もおかしい」とも書いているので、認知度が高い・首尾一貫に該当しますね。「仏教記事は漢字が多い」とも言及しており、日本語の正式名称というのもあります。出典として仏教辞典だけでも『総合佛教大辞典』『岩波仏教辞典』『佛教語大辞典』を挙げさらに『上座仏教事典』を確認していますし、サマタ瞑想が主たる記事名となるように多数派であることが示されるような出典は全く示されていないので、例えば10個くらいの仏教辞典とかですね、むしろサマタ瞑想という記事名に戻すことに対しては改名提案が必要でしょう。情報源についてもWikipedia:信頼できる情報源から説明する必要がありますでしょうか?
- 記事名を「止」でなく「止 (仏教)」にした方がいいのではないのかということについては、しなくていいです。Wikipedia:曖昧さ回避#曖昧さ回避が必要なものを現時点で満たしていないです。それは、少なくとも止に移動してから議論してください。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月18日 (水) 17:57 (UTC)
- まず整理するとただちに改名してもよい場合というのは、「明らかに、ページ名に誤字・脱字があるとき」、「明らかに、ページ名が記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」だけですね。「止観」と首尾一貫していないというのは、なぜ「止観」が基準なのか理解できません。私は「ヴィパッサナー瞑想」とは首尾一貫していると思います。ある基準を用いれば、他の基準と首尾一貫しないということが起きることは明白です。ここで異論が生まれる余地があり、ただちに改名してよいことになりません。この記事名について、話合いが必要であり、ノートによる議論が必要なのは、今現に議論していることが証明しているでありましょう。記事名を止に移動してから議論というのは貴方の都合であって、ウィキペディアにおいて必要な手順ではないと思います。--Ryo 625(会話) 2017年1月19日 (木) 00:02 (UTC)
- Wikipedia:信頼できる情報源には、「学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます」とか、「二次資料を要約した」三次資料について説明されています。
- 中村元のような中心的な仏教研究者による 『岩波仏教辞典』、総合仏教大辞典編集委員会 の『総合佛教大辞典』、パーリ学仏教文化学会の『上座仏教事典』といった書籍では専門家集団ですし、出版社も定評のある出版社であったりします。記事名についてこうした出典によって最も著名であり、こうした本の中で項目名となっている止観、止、観を記事名にすることが中心となるでしょう。改名提案を飛ばしてよいケースとして改名しました。
- 後に、「地橋秀雄『ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の違い(CD版) 』株式会社デン峰出版」といった出典が追加されていますが、どう考えて一個人の資料であり、狭小な観点であり、こうしたものを寄せ集めても、他の呼称があるという以上にはならず、複数の佛教辞典という出典をくつがえすものではないはずです。
- 不注意によって差し戻され。後に挙げられた出典も狭小な観点の出典であり、Wikipedia:中立的な観点に反するような狭小な観点の誇張であって議論が生じる余地がないものだと考えらます。
- 結論として「止」への改名には反対ではないとのことですし、不要な議論が不注意によって引き起こされているものと考えられます。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月19日 (木) 04:29 (UTC)
- 「地橋秀雄『ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の違い(CD版) 』株式会社デン峰出版」、「サマタ瞑想」への移動から22時間半後に追加されたこの出典には、総合的な明らかさがないはずです。
- 信頼できる情報源において最も一般的に使われており、その記事の内容を表すのに最も著名であると考えられるもの。(記事名ガイドライン)
- 曖昧でない - その記事の内容を曖昧さなく見分けるのに必要な程度に的確な名称であること。(記事名ガイドライン)
- 最初の発言「上座部、大乗、チベットの仏教の専門書、また中村元などの仏教大辞典、そうした信頼できる情報源において」「すべて、止:シャマタとか止:サマタというような書き方で、カタカナ部分には表記ゆれがあり、止観の漢字も示されますし瞑想とはつきません」
- 首尾一貫している - 他の似たような記事においても、同じように使われているもの。(記事名ガイドライン)
- 日本語での正式名称(記事名ガイドライン)
- 最初の発言「仏教記事は漢字が多いですけど、記事の止観、あとは仏教#止観・瞑想ですね、このあたりとも整合性がおかしいので」
- 私は総合的な明らかさをもって「サマタ瞑想」を「止」へと改名し、それが明らかさなく「止」から「サマタ瞑想」へと誤って改名されたということです。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月19日 (木) 05:15 (UTC)
- 「地橋秀雄『ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の違い(CD版) 』株式会社デン峰出版」、「サマタ瞑想」への移動から22時間半後に追加されたこの出典には、総合的な明らかさがないはずです。
- まず整理するとただちに改名してもよい場合というのは、「明らかに、ページ名に誤字・脱字があるとき」、「明らかに、ページ名が記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」だけですね。「止観」と首尾一貫していないというのは、なぜ「止観」が基準なのか理解できません。私は「ヴィパッサナー瞑想」とは首尾一貫していると思います。ある基準を用いれば、他の基準と首尾一貫しないということが起きることは明白です。ここで異論が生まれる余地があり、ただちに改名してよいことになりません。この記事名について、話合いが必要であり、ノートによる議論が必要なのは、今現に議論していることが証明しているでありましょう。記事名を止に移動してから議論というのは貴方の都合であって、ウィキペディアにおいて必要な手順ではないと思います。--Ryo 625(会話) 2017年1月19日 (木) 00:02 (UTC)
- まず改名提案を行う際の手順をご覧ください。また、記事名をつけるときには基準がありますが、具体的にどれを満たしていなかったのか教えてください。言葉が足りませんでしたが、ページ名については「止_(仏教)」と後ろに「_(仏教)」を付けることが望ましいと思っているので、条件付き賛成です。--Ryo 625(会話) 2017年1月18日 (水) 14:15 (UTC)
- (追記)私は特に「止」への改名には反対ではないので、ページ名は「止_(仏教)」でいいと思います。(改名提案ではありませんよ、念の為)--Ryo 625(会話) 2017年1月17日 (火) 16:46 (UTC)
記事名を「止」にしてはどうかという告知が貼られていますが、不要な議論ですの除去します。
- 「サマタ瞑想」から「止」への改名は、複数の仏教辞典を含む文献によって確認しもっとも著名な記事名として、明らかさをもって改名することができます。Wikipedia:ページの改名のガイドラインにおいて、「明らかに記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」にはただちに改名が行えます。
- 「止」から「サマタ瞑想」への改名は、誤解によって行われ、改名から22時間半後に、「地橋秀雄『ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の違い(CD版) 』、株式会社デン峰出版」のみが示されており、「サマタ瞑想」の名がもっとも著名であり記事名としてふさわしいと明らかに言うことができなかったということです。さらに追加して1日経とうとしていますが、詳しい説明が行われずサマタ瞑想への改名がふさわしいと明らかに言うことはできなかったということです。このような改名では、先に改名提案を行う必要があります。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月19日 (木) 16:49 (UTC)
- 反対 まず、改名が差し戻されたことを認めてください。明らかに沿っていないということはありません。タバコ氏が挙げた理由には説得力が乏しいと思われます。まず、根拠が辞典のみに限られていることと、他の示された出典が大乗仏教の一般書(法話)というのは問題です。付け加えるなら、「止(サマタ)」、「止(シャマタ)」など表記ゆれがあるから、「止」の部分だけを記事名にしようと仰ってるのはやはり正しいとも思えません。「止」への変更には反対の立場に変えさせて頂きます。--Ryo 625(会話) 2017年1月19日 (木) 21:40 (UTC)
- >>すべて、止:シャマタとか止:サマタというような書き方で
- (タバコはマーダーさんに質問):このノートページの一番冒頭にある、タバコはマーダーさんの書き込みについて、確認のためにおたずねします。
- 質問1:その書き込み(2017年1月15日 (日) 11:16 (UTC))でタバコはマーダーさんは6点の書籍を資料として挙げたうえで、それら資料においては「すべて、止:シャマタとか止:サマタというような書き方」だとおっしゃっていますが、この「止:シャマタとか止:サマタというような書き方」というのは、この6点の資料のうちの前半3点にあたる辞典においては「止」が見出し語として載っていて、「サマタ/シャマタ/サマタ瞑想/シャマタ瞑想」は見出し語としては載っていないという意味ですか?
- 質問2および依頼:挙げておられる6点の資料のうち後半3点は辞典ではないようなので、この3点においては「止:シャマタとか止:サマタというような書き方」というのは、各々の本における「辞典の見出し語としての掲載の有無」を意味しているのではないですね? もしそうなら、これら3点の本で具体的にどういう書き方がされているのかを、省略や要約無しで正確に引用して頂けませんか? 個々の本における記述箇所をすべて引用する必要はもちろんなく、タバコはマーダーさんが「止」への改名のための最も強力な根拠として用いることができると考えている記述を含む段落を、この3点の本それぞれから1個ずつ程度引用する、というようなことをして頂けませんか?
- >>上に挙げた以外に、『上座仏教事典』p280に「止観」の項があり、サマタ止、ヴィパッサナー観と漢字が併記されていますし、瞑想とは書かれません。
- 質問3:この『上座仏教事典』には「サマタ/シャマタ/サマタ瞑想/シャマタ瞑想」は見出し語としては載っていないということを、タバコはマーダーさんはご確認済みでいらっしゃるということですか?--Leonidjp(会話) 2017年1月20日 (金) 01:50 (UTC)出典
大量となるのでインデント戻します。そもそも、サマタ瞑想が記事名とふさわしいと明らかに思えるような証拠が全く示されていない状態で、説明を行うのはアンフェアですが、明らかさを高めたいとも思います。誤認されておりますが、Ryo 625氏は明らかさなくそして改名提案なく移動したのですから、その明らかな説明を行うか、改名提案を行ってください。「表記ゆれがあるから記事名として不適切」とも言っておりません。
- 総合仏教大辞典編集委員会『総合佛教大辞典』法蔵館、2005年。ISBN 4-8318-7070-6。
- 「観」p209「止観」p518の項目があります。「観」では「観は止(梵シャマタ)に対する語」のように説明され、「止と観」と説明されます。「止観」では「止はシャマタ、観はヴィパシュヤナーの訳で」と始まります。法藏館は定評のある仏教出版社で、解説(PDF)によれば、高い評価を受けた佛教大辞典の改定版だということで、編集委員会が編集しております。
- (編集)中村元、田村芳朗、末木文美士、福永光司、今野達『岩波仏教辞典』(第2版)岩波書店、2002年。ISBN 4-00-080205-4。
- 「止観」p413では、『荘子』での「止と観」の用例から始まります。「śamatha(止)とvipaśyanā(観)」と原語が示され後は止で説明されます。「サマタ」の表記はありません。「観察」p171では、[S]vipaśyanāと表記が続き、観と同じで止(śamatha、奢摩他)に対する語だと続きます。岩波書店の各種名著古典を出版する岩波文庫からは仏教古典も出版されていますし、中村氏に限っても複数出されております。
- 中村元『佛教語大辞典』東京書籍、1975年。
- 「止」p506では「観に対し併せて止観」と説明され、原語は[S]śamathaのようにあるのでサンスクリット語はこのように示されます。同じページに「止観」の項でも同様に「止」として説明があります。「サマタ」の表記はありません。東京書籍は、仏教専門ではないですが、例えば『原典で読む原始仏教の世界』4-487-79535-4 のように参考文献を備え複数著者からなる仏教専門書を出版している出版社です。
- パーリ学仏教文化学会上座仏教事典編集委員会『上座仏教事典』めこん、2016年。ISBN 978-4-8396-0299-4。
- 「止観」p280の項目で、「サマタ(samatha止)とヴィパッサナー(vipassanā観)」と原語が先で説明が始まりますが、当然「止観」が項目名です。めこんという出版社はアジア系の本を出版しているとのことですが、この場合にはむしろパーリ学仏教文化学会という学術団体が著者です。
- 『ブリタニカ国際百科事典』
- 止は止観を参照ですね。止観、「止 śamatha と 観 vipaśyanā」ではじまりますね。『日本大百科全書』も「止(シャマータśamatha)と観(ビパシャーナvipayana)」と説明されますね。
ウィキペディアも百科事典なので、これら仏教辞典や日本大百科全書に沿うというのは方向性ですし、何度も申し上げている通り、信頼できる情報源においてもっとも著名だと考えられる記事名であり、Wikipedia:記事名の付け方#正式名称の日本語の正式名称であり、「止」だということですね。「サマタ瞑想」はこれらの項の説明の中にもありません。「サマタ/シャマタ/サマタ瞑想/シャマタ瞑想」の項目はありません。「サマタ瞑想」という表現は一部著者が行っていることはあるでしょうが、最も著名であり、日本語の正式名称だとできるようなコンセンサスは確認できないため、少なくとも別名の位置づけにあります。「集中の瞑想」と書く人もいますし、あるいはタバタと表記することもあるかもしれませんが、記事名としてはガイドラインに反します。
事実認識がおかしい点として「大乗仏教の一般書(法話)」というのがありますが、講演会の書籍版とかそういうものではないですね。
- ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 著、菅沼晃 訳『ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく』春秋社、2001年。ISBN 978-4-393-13335-4。
- 常に「平静さ(止)」と説明されており、索引に「止 śamatha」とあります。これは「まえがき」にある通り、ダライ・ラマ14世が仏教の概略を示すために書いたもので、上座部仏教による注釈も書いてあるということです。評価の高い仏教の専門家が書いた仏教の専門書です。
- ラマミパム、(解説)タルタン・トゥルク 著、林久義 訳『静寂と明晰―チベット仏教ゾクチェン修習次第』ダルマワークス、1992年。ISBN 4-7952-8281-1。
- まえがきのようなp1に、「シャマタ・ヴィパシュヤナー(止観)」、p20は同じ、次に登場するのはp34「静寂の深み(止/śamatha)」。これは密教経典の訳と解説ですね。
- ラリー・ローゼンバーグ 著、井上ウィマラ 訳『呼吸による癒し』春秋社、2001年。ISBN 4-393-36406-6。
- これも法話はなくて『安那般那念』に基づく書ということでこの経典に絡めた本であり、p4の通り、「ヴィパッサナー瞑想センター」で「サマタ/ヴィパッサナー」を修行していた時に役に立ったのでこの経典に絡めて書いたことがわかります。
- マハーシ長老 著、ウ・ウィジャナンダー 訳『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』国際語学社、1996年、80-81、158、164-165頁。ISBN 4-87731-024-X。
- 上座部仏教書ですが、用語説明は書名通り「ウィパサナー」(ヴィではなく)を除き漢字で、信とか業とかそういう感じですね。止はなくて、「編者あとがき」p146に「仏教の瞑想には止と観がある」と書いてあります。
従って、最も著名な日本語の正式名称は「止」であり、パーリ語・サンスクリット語や、特定の著者の観点を記事名とする必要はありません。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月20日 (金) 06:57 (UTC)
- >>そもそも、サマタ瞑想が記事名とふさわしいと明らかに思えるような証拠が全く示されていない状態で、説明を行うのはアンフェアですが、明らかさを高めたいとも思います。
- コメント引用のご記入、おつかれさまでした。最初のお書き込みで短く記入なさっていた「すべて、止:シャマタとか止:サマタというような書き方」という要約の不明瞭さが晴れました。
- >>「サマタ/シャマタ/サマタ瞑想/シャマタ瞑想」の項目はありません。
- 「項目はありません」というのは「見出し語としては載っていない」という意味だと解釈することにします(この解釈が間違っていれば、間違いだと仰って下さい)。
- >>「サマタ瞑想」という表現は一部著者が行っていることはあるでしょうが
- タバコはマーダーさんが挙げた、辞典・事典以外の本の著者(ラマミパム、ラリー・ローゼンバーグ)も「サマタ/シャマタ」と書く場合は有るということが分かりました。
- >>日本語の正式名称だとできるようなコンセンサス
- 「日本語の正式名称だとできるようなコンセンサス」にあたるものは、やはり、「信頼できる情報源」である仏教分野の辞典(事典)に見出し語として載ることを指しますか? ほかにこの「コンセンサス」にあたるものをタバコはマーダーさんが思いついておられるなら教えて頂けますか?--Leonidjp(会話) 2017年1月20日 (金) 08:20 (UTC)
- 見出し語と項目名はだいたい同じようなものを指しているでしょう。サマタ瞑想という項目名ないし見出し語はないということです。
- Wikipedia:信頼できる情報源には、「ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したものです。学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます」「彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です」とあります。
- コンセンサスは合意のことですが、辞典にて編集委員会等が見出し語として選定し訳語を統一したこと、ないし他の辞典以外の出典にて括弧内外で記していることをもって、正式な日本語、ないし日本語の専門用語として、了解があるものと解されます。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月20日 (金) 15:03 (UTC)
- 横から失礼します。以前「サマタ」と「ヴィパッサナー」に改名しようと思って忘れていたのですが、ヴィパッサナー瞑想をちょっと加筆した時に読んだ文献では、論文や専門家が「サマタ」「ヴィパッサナー」の表記で、一般人向けの雑誌などで「サマタ瞑想」「ヴィパッサナー瞑想」が多かった感じでした。「止」「観」だと、記事が見つけにくいんじゃないでしょうか。--ジャム・パンナ(会話) 2017年2月4日 (土) 12:38 (UTC)
- 学術的な概念でもあるので、一般雑誌では信頼できる情報源かどうかについて疑問があります。記事名のガイドラインにおける、信頼できる情報源に最も使われている、日本語の正式名称が止観かと思います。出典を挙げております。
- 記事中にも『印度學佛教學研究』から4文献挙げています。
- Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の評価の「編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限りより信頼でき、よりすぐれていると一般に認められているものの中から、出典を幅広く選ぶようにして下さい。信頼できる情報源であるかぎり出典は一つである必要はなく、複数挙げられていることがむしろ好ましいです。学術的な主題についてはたいていの分野で、その分野の学術雑誌に見られるような査読と評価についての制度を持っています」
- Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意の「彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです」とあります。--タバコはマーダー(会話) 2017年2月7日 (火) 08:08 (UTC)
- ジャム・パンナ氏の指摘を受けて、CiNiiで調べてみました。医学的な観点から注目され、サマタと対である「ヴィパッサナー」で検索してみました。ヴィパッサナーはサマタと並べて語られるので、本項の議論と大きく関連すると思います。ヴィパッサナーの議論では直接の例証になるでしょう。無料で誰でもアクセス可能なものには以下のものがあるようです。
- 佐々木慈瞳『ヴィパッサナー瞑想の実践による自己認知・他者認知と対人関係様式の変容プロセス -ブッダの説く「而二不二」の実践として-』[1]
- この論文では「ヴィパッサナー瞑想」のみ
- 熊倉敬聡『瞑想、あるいは感覚の変容について』[2]
- 「ヴィパッサナー瞑想」、「ヴィパッサナー」とがほぼ区別なく使用されている。「サマタ」、「サマーディ」が使用されている。表記、呼称はウィリアム・ハートの『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法 』(1999年11月)に依拠している。
- 高瀬弘樹、田中慶太、石津智大 [他] 『脳磁図による瞑想時の脳活動に関する予備的研究 』[3]
- 「止瞑想」、「観瞑想」と、伝統的漢訳語に「瞑想」を付加している。観については最初に「観(ヴィパッサナー)」と記述。
- 國吉知子『調整的音楽療法(RMT)の実践と展望-マインドフルネスとの関連性- 』[4]
- マインドフルネス(ヴィパッサナー)、サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想、「マインドフルネスとは「気づき」を意味し、パーリ語の「sati」の訳である」(念についての説明なし)
- 古田瑞穂『こころと身体のフィットネストレーニング : 気づきと調整の技法に着目して』[5]
- 「ヴィパッサナー」表記
- ミス、抜けなどがあればご指摘ください。--Ryo 625(会話) 2017年2月7日 (火) 09:47 (UTC)
- ヴィパッサナーについての議論ではありません。ノート:ヴィパッサナー瞑想の議論はまったくありません。止を上回る形で情報源が明らかでないということであれば、Wikipedia:記事名の付け方#正式名称の通り、日本語の正式名称である止でいいと思います。なぜ、日本語の正式名称であると判明している以外の記事名にするのかというガイドライン的な根拠も示されていませんし。
- 資料に書いてあればよいというものでもなく、Booklet 19、慶應義塾大学アート・センターなどは、Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意の「彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです」に反します。他の資料も仏教学的に不十分であり、サマタ瞑想の言及もないようです。
- 1月17日より、22日経過し、強固な理由なく改名されたことが判明しました。今になって文献を調査するということであれば、今明らかである止に改名し、サマタ瞑想の語彙の調査を行っていた後で出典を明確に提示くださればと思います。いかがでしょうか。--タバコはマーダー(会話) 2017年2月8日 (水) 05:09 (UTC)
- >ヴィパッサナーについての議論ではありません。
- いいえ、ヴィパッサナーも関わる議論です。「サマタ瞑想」を「止」に改名するならば、同じ理屈で「ヴィパッサナー瞑想」を「観」に改名することになるからです。
- 慶應義塾大学アート・センターは表記、呼称はウィリアム・ハートの『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法 』(1999年11月)に依拠している。としていますが、もう一度ごらんになって下さい。
- >事実認識がおかしい点として「大乗仏教の一般書(法話)」というのがありますが、講演会の書籍版とかそういうものではないですね。
- 「ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく」とタルタン・トゥルク「静寂と明晰―チベット仏教ゾクチェン修習次第」が専門書とのことですが、その根拠と線引きはどこにあるのでしょうか?基準とされているガイドラインなどあればご教授くださいませ
- >強固な理由なく改名されたことが判明しました。
- これは強固な理由を提示した上で正規の改名手順を踏まずに行われた最初の改名に当てはまると思います。タバコはマーダー氏はなぜ最初にご自分がノートにおいてなんの提案も行わずに改名を強行したことを否定なさるのですか?--Ryo 625(会話) 2017年7月8日 (土) 07:50 (UTC)
CD版という出典の除去
- 地橋秀雄『ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の違い(CD版) 』株式会社デン峰出版
ですが、株式会社デン峰出版というのが、地橋秀雄の作品しか出していないようで、「信用できる第三者的立場の出版社から公表」とはいい難いため、扱いは自主公表物に準じてくると思いますが、Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源によって、自己公表された情報源は、情報源として受け入れられません。その際にもう一つの基準となってくる著名な専門研究者か否かについても、Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意がありますから、地橋秀雄氏の場合には、学位・僧位等々の権威付けが公開されていないのであれば、優れた資料だと思ったとしても自己公表物はWikipediaでは人物の記事以外では使えないでしょう。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月21日 (土) 15:39 (UTC)
- 「以前に信用できる第三者的立場の出版社から公表されてい」るため、該当しないと思います。
- (例:『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』(2006年)春秋社、『実践 ブッダの瞑想法』(2008年)春秋社、『「心の疲れ」が消えていく瞑想のフシギな力。』(2015年)三笠書房)。
- ですが、「一般的に自己公表された情報源については、ほかの情報源が評価したりコメントしたりするまで待つのが望ましいです。」とあるので他の出典に差し替えますね。一度、誤まってリバートしてしまったことを謝罪します。--2017年1月24日 (火) 17:27 (UTC)Ryo 625(会話)
- その著作の止観の合冊(七巻・八巻合冊)では「ヴィパッサナー(観)」とはありますが。全文に目を通してはいませんが、サマタについては瞑想であると紹介した後突然「サマタ瞑想」と使い始めています。一部の著者の表現法であるということは確認できますが、観を日本語における仏教語として括弧で漢字で表現していることを併せると、「サマタ瞑想」が日本語のもっとも著名な記事名として用いられているという確認には不十分でしょう。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月27日 (金) 10:55 (UTC)
- サマタ瞑想という言葉に要出典テンプレートが貼ってあったので、出典をつけたのですが。--Ryo 625(会話) 2017年1月27日 (金) 14:10 (UTC)
- その著作の止観の合冊(七巻・八巻合冊)では「ヴィパッサナー(観)」とはありますが。全文に目を通してはいませんが、サマタについては瞑想であると紹介した後突然「サマタ瞑想」と使い始めています。一部の著者の表現法であるということは確認できますが、観を日本語における仏教語として括弧で漢字で表現していることを併せると、「サマタ瞑想」が日本語のもっとも著名な記事名として用いられているという確認には不十分でしょう。--タバコはマーダー(会話) 2017年1月27日 (金) 10:55 (UTC)
中立的な観点の度外視
Ryo 625氏におかれましては過去に議論がありますが引き続き、Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:信頼できる情報源に無理解な部分があるのではと思われます。サンガを中心とした観点に歪曲されて定義されております。そもそもサマタ瞑想と止の記事は同一の内容となりかねないか、サマタ瞑想は特定の文献でしか載っていないので統合をする必要があるほど内容が増加しない可能性が高い、このような狭小な観点で歪曲するのはおかしいでしょう。
- マハーシ長老 『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』 ウ・ウィジャナンダー訳、国際語学社、1996年、80-81、158、164-165。ISBN 4-87731-024-X。
- マハーシ・サヤドー 『ヴィパッサナー瞑想』 星飛雄馬訳、サンガ〈サンガ文庫〉、2017年、148頁。
上の2つは同じ著作の訳書ですが、後者はサンガ出版です。前者の語録にはsamathaがないことから、星飛雄馬の観点である可能性が高いでしょう。前者は、止の訳語があることから、一般的には「止」と訳されることに一致することは過去に示しましたところです。「サマタ瞑想」といった言葉は、「止」に比較して定訳ではないことが確認できるため、いずれかを強調することで中立的な観点は歪曲されます。
出典を挙げましたが、サンガの中心人物のアルボムッレ・スマナサーラについては、著作中でも一般向けでなさそうな専門書寄りのアビダンマ講義シリーズにて、定訳を使っていません。
- 『アビダンマ講義シリーズ第七巻』では、「サマタ(samatha)」を瞑想であると紹介した後に「サマタ瞑想」と呼び始めている。
- 『アビダンマ講義シリーズ第二巻』では、「サマタ(サマーディ)瞑想」逆に「サマーディ(サマタ)瞑想」といった表記が混在している。
既に議論した通り、samathaの定訳は止です。--タバコはマーダー(会話) 2017年6月24日 (土) 12:37 (UTC)