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引退後は、正式なドイツサッカー協会の監督ライセンスを獲得しないまま指導者への道を進み始めるが(本人はライセンスは自分には必要無いと発言)、初の雇い先となった3部のクラブ([[レーゲンスブルク]])にて1年で解任された。その後は[[TuSコブレンツ]]でコーチを、[[SVアイントラハト・トリーア]]で監督を歴任しているが、メディアを通しての様々な過激な発言により各地で問題を起こしているトラブルメーカーでもある。
引退後は、正式なドイツサッカー協会の監督ライセンスを獲得しないまま指導者への道を進み始めるが(本人はライセンスは自分には必要無いと発言)、初の雇い先となった3部のクラブ([[レーゲンスブルク]])にて1年で解任された。その後は[[TuSコブレンツ]]でコーチを、[[SVアイントラハト・トリーア]]で監督を歴任しているが、メディアを通しての様々な過激な発言により各地で問題を起こしているトラブルメーカーでもある。

2017年8月29日 (火) 10:24時点における版

マリオ・バスラー
名前
愛称 スーパーマリオ
ラテン文字 Mario BASLER
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1968-12-18) 1968年12月18日(56歳)
出身地 ノイシュタット
身長 186cm
体重 80kg
選手情報
ポジション MF (OH)
ユース
1974-1984 ドイツの旗 VfLノイシュタット
1984-1987 ドイツの旗 カイザースラウテルン
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1987-1989 ドイツの旗 カイザースラウテルン 1 (0)
1989-1991 ドイツの旗 ロット・ヴァイス・エッセン 54 (6)
1991-1993 ドイツの旗 ヘルタ・ベルリン 74 (17)
1993-1996 ドイツの旗 ヴェルダー・ブレーメン 92 (36)
1996-1999 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 78 (18)
1999-2003 ドイツの旗 カイザースラウテルン 91 (8)
2003-2004 カタールの旗 アル・ラーヤン 15 (2)
2006-2010 ドイツの旗 ATSVヴァッテンハイム
2011 ドイツの旗 BCAオーヴァーハウゼン 1 (0)
2013 ドイツの旗 TuSリュジンゲン 7 (0)
代表歴
1994–1998[1] ドイツの旗 ドイツ 30 (2)
監督歴
2004-2005 ドイツの旗 ヤーン・レーゲンスブルク
2008-2010 ドイツの旗 アイントラハト・トリーア
2010-2011 ドイツの旗 ヴァッカー・ブルクハウゼン
2011-2012 ドイツの旗 ロートヴァイス・オーバーハウゼン
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

マリオ・バスラーMario Basler1968年12月18日 - )は、ドイツノイシュタット出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションは攻撃的ミッドフィルダー。愛称はファーストネームに準えた「スーパーマリオ」。

略歴

強烈なシュート、スピードのあるドリブルを持ち、1994年ワールドカップ・アメリカ大会UEFA欧州選手権1996にもドイツ代表として出場した。

ヴェルダー・ブレーメン時代の1995年にはブンデスリーガの得点王にも輝いた。

バイエルン・ミュンヘンに所属していた1998-99シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグで決勝まで進出。決勝戦では自身のフリーキックで名手ピーター・シュマイケルの逆を突くゴールを決めるが、ロスタイムに逆転されチャンピオンズリーグ制覇を逃した(カンプ・ノウの奇跡)。

引退後は、正式なドイツサッカー協会の監督ライセンスを獲得しないまま指導者への道を進み始めるが(本人はライセンスは自分には必要無いと発言)、初の雇い先となった3部のクラブ(レーゲンスブルク)にて1年で解任された。その後はTuSコブレンツでコーチを、SVアイントラハト・トリーアで監督を歴任しているが、メディアを通しての様々な過激な発言により各地で問題を起こしているトラブルメーカーでもある。

エピソード

  • ビール好きで知られ、またインタビュー好きでもある。ただピッチの外では過激な発言も多く問題児と知られ、トラブルが絶えなかった。
  • 現役時代から極度のヘビースモーカーで、「機内で喫煙が許可されないのなら国外遠征には帯同しない」と発言し、物議を醸したこともあった。

脚注

外部リンク