「ハイコ・ヘルリッヒ」の版間の差分
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2017年8月29日 (火) 10:44時点における版
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Heiko Herrlich | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1971年12月3日(53歳) | |||||
出身地 | マンハイム | |||||
身長 | 186cm | |||||
体重 | 83kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1989-1993 | バイエル・レバークーゼン | 75 | (6) | |||
1993-1995 | ボルシアMG | 55 | (28) | |||
1995-2004 | ボルシア・ドルトムント | 128 | (42) | |||
通算 | 258 | (75) | ||||
代表歴 | ||||||
1990-1993 | ドイツU-21 | 20 | (17) | |||
1995 | ドイツ | 5 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
2005-2007 | ボルシア・ドルトムント U-19 | |||||
2007-2008 | ドイツU-17 | |||||
2008-2009 | ドイツU-19 | |||||
2009-2010 | VfLボーフム | |||||
2011-2012 | SpVggウンターハヒンク | |||||
2013-2015 | バイエルン・ミュンヘン U-17 | |||||
2015-2017 | SSVヤーン・レーゲンスブルク | |||||
2017- | バイエル・レバークーゼン | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ハイコ・ヘルリッヒ(Heiko Herrlich, 1971年12月3日 - )は、ドイツ・マンハイム出身のサッカー指導者。元サッカー選手。元ドイツ代表。ポジションはフォワード。現在はブンデスリーガのバイエル・レバークーゼンの監督を務めている。
キャリア
SCフライブルクのユースを経て1989年にバイエル・レバークーゼンにてキャリアデビューを果たす。U-21代表に選ばれるなど、将来を嘱望されていた。しかし、ウルフ・キルステン、アンドレアス・トームの影に隠れて不遇の時を過ごす。
1993-1994シーズンより活躍の場を求め、ボルシア・メンヒェングラートバッハに移籍し、8ゴールを挙げる。翌1994-1995シーズンフィオレンティーナから移籍してきたシュテファン・エッフェンベルク、スウェーデン代表のマルティン・ダーリンらと強力なアタック陣を形成。ヘルリッヒは闘志溢れるプレーと強烈なヘディング、的確なポジショニングと正確なシュートで20ゴールを挙げる大活躍をし、ヴェルダー・ブレーメンのマリオ・バスラーと共に得点王に輝く。それまで中位に低迷していたチームをブンデスリーガ5位に躍進させ、DFBポカールにおいても決勝のVfLヴォルフスブルク戦においてゴールを挙げるなど優勝の原動力に。代表デビューも果たし、充実のシーズンを送る。若かりし日のルディ・フェラーを彷彿させ、まだ23歳と若かったヘルリッヒはボルシア・メンヒェングラートバッハの未来を担うと思われていた。
しかし、1995-1996シーズン開幕前にカール=ハインツ・リードレら相次ぐフォワード陣の怪我に泣かされていたボルシア・ドルトムントへ1100万マルクの移籍金(当時のドイツ国内史上最高額の移籍金)で移籍。しかし、この移籍に難色を示していたボルシア・メンヒェングラートバッハとボルシア・ドルトムントの間で法廷闘争にまで発展し、事態を重く見たDFBや当時の代表監督ベルティ・フォクツまで介入する騒動となる。 ボルシア・ドルトムント移籍後は、引退まで9シーズンに渡り42ゴールを挙げ、1997年にはUEFAチャンピオンズ・リーグ優勝、2度のブンデスリーガ優勝などのタイトルを獲得する。しかし、2000年には試合中に視覚障害を訴え、精査の結果、悪性の脳腫瘍が発覚。放射線治療を受け、2001年に復帰を果たす。しかし、かつてのフォームには戻ることはできず、怪我の影響もあり2004年に現役を引退した。
監督
2005年にコーチングライセンスを取得。U-17ドイツ代表を2007年FIFA U-17ワールドカップ準決勝進出に導いた。2008年よりU-19代表の監督に就任。2009年10月DFBとの契約を解除し、マルセル・コラー前監督の後任として、VfLボーフムの監督に就任。しかし、チームを完全に立て直すことは出来ず、2010年4月に途中解任となる。
2017年6月9日、バイエル・レバークーゼンの監督に就任した。
タイトル
- DFBポカール 1993, 1995
- ブンデスリーガ 1996, 2002
- UEFAチャンピオンズ・リーグ 1997
- インターコンチネンタル・カップ 1997
- ブンデスリーガ得点王 1995