「枝川弘」の版間の差分
46行目: | 46行目: | ||
| 備考 = |
| 備考 = |
||
}} |
}} |
||
'''枝川 弘'''(えだがわ ひろむ、[[1916年]][[11月20日]] - [[2010年]][[7月10日]])は、[[日本の映画監督一覧|日本の映画監督]]である<ref name="47news">[http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010072001000861.html 枝川弘氏死去 映画監督]、[[47NEWS]]、2010年7月20日付、2012年4月26日閲覧。</ref><ref name="bunka">[[#外部リンク|''枝川弘'']]、日本映画情報システム、[[文化庁]]、2012年4月26日閲覧。</ref><ref name="jmdb">[[#外部リンク|''枝川弘'']]、[[日本映画データベース]]、2012年4月26日閲覧。</ref><ref name="kinejun">[[#外部リンク|''枝川弘'']]、[[キネマ旬報映画データベース]]、2012年4月26日閲覧。</ref><ref name="musa">[[#外部リンク|''枝川弘'']]、映像作品データベース、[[武蔵野美術大学]]、2012年4月26日閲覧。</ref><ref name="dgj">[http://wayback.archive.org/web/*/http://www.dgj.or.jp/members/detail.php?id=86&sig=926437da8298d5ca3c5bc5665dba9dca 枝川弘]、[[日本映画監督協会]]、2010年7月30日付、[[インターネット |
'''枝川 弘'''(えだがわ ひろむ、[[1916年]][[11月20日]] - [[2010年]][[7月10日]])は、[[日本の映画監督一覧|日本の映画監督]]である<ref name="47news">[http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010072001000861.html 枝川弘氏死去 映画監督]、[[47NEWS]]、2010年7月20日付、2012年4月26日閲覧。</ref><ref name="bunka">[[#外部リンク|''枝川弘'']]、日本映画情報システム、[[文化庁]]、2012年4月26日閲覧。</ref><ref name="jmdb">[[#外部リンク|''枝川弘'']]、[[日本映画データベース]]、2012年4月26日閲覧。</ref><ref name="kinejun">[[#外部リンク|''枝川弘'']]、[[キネマ旬報映画データベース]]、2012年4月26日閲覧。</ref><ref name="musa">[[#外部リンク|''枝川弘'']]、映像作品データベース、[[武蔵野美術大学]]、2012年4月26日閲覧。</ref><ref name="dgj">[http://wayback.archive.org/web/*/http://www.dgj.or.jp/members/detail.php?id=86&sig=926437da8298d5ca3c5bc5665dba9dca 枝川弘]、[[日本映画監督協会]]、2010年7月30日付、[[インターネットアーカイブ]]、2012年4月26日閲覧。</ref>。現代劇を専門とし、1963年以降に手がけた[[テレビ映画]]『[[図々しい奴]]』『[[おくさまは18歳]]』『[[アイアンキング]]』の監督として知られる<ref name="47news" />。 |
||
== 人物・来歴 == |
== 人物・来歴 == |
2017年9月4日 (月) 22:35時点における版
えだがわ ひろむ 枝川 弘 | |
---|---|
生年月日 | 1916年11月20日 |
没年月日 | 2010年7月10日(93歳没) |
出生地 | 日本 大阪府 |
死没地 | 日本 東京都三鷹市 |
職業 | 映画監督 |
ジャンル | 劇場用映画、テレビ映画 |
活動期間 | 1950年 - 1980年 |
配偶者 | 志賀眞津子 |
主な作品 | |
劇場用映画 『恋と金』[1] 『サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ』 テレビ映画 『図々しい奴』 『おくさまは18歳』 『アイアンキング』 |
枝川 弘(えだがわ ひろむ、1916年11月20日 - 2010年7月10日)は、日本の映画監督である[1][2][3][4][5][6]。現代劇を専門とし、1963年以降に手がけたテレビ映画『図々しい奴』『おくさまは18歳』『アイアンキング』の監督として知られる[1]。
人物・来歴
1916年(大正5年)11月20日、大阪府に生まれる[4][6]。
1939年(昭和14年)、日本大学法文学部芸術学科(現在の日本大学藝術学部)を卒業し、日活多摩川撮影所に入社する[6]。1940年(昭和15年)には軍隊に徴収され、1945年(昭和20年)に復員、同撮影所の後進である大映(現在の角川大映撮影所)に復職した[6]。同撮影所では、田中重雄に師事した[6]。
1950年(昭和25年)4月9日に公開された、今村貞夫のラジオ映画が製作した『人喰い熊』を監督している[2][3][4]。当時の評判はあまり芳しくはなかった[7]。
その後、大映東京撮影所で、同い年の鈴木英夫の助監督をもっぱら務め、1951年(昭和26年)3月3日公開の『恋の阿蘭陀坂』ではチーフ助監督を務めている[8]。1954年(昭和29年)4月14日、満37歳のときに『五ツ木の子守唄』で再び監督としてデビューを果たしている[2][3][4][6]。
1962年(昭和37年)12月26日、満46歳のときに公開された『団地夫人』が、枝川にとって、大映東京撮影所が製作した最後の劇場用映画となり[3]、翌年1963年(昭和38年)には、大映テレビ室(現在の大映テレビ)が製作する『図々しい奴』を始めとするテレビ映画に専念する[3][9]。
1964年(昭和39年)、大映を退社する[6]。満49歳を迎える1965年(昭和40年)からは、大映テレビ室のみならず、国際放映、日活、宣弘社、C.A.Lといった製作会社で現代劇を中心に手がけた[9]。同年には、テアトル・プロダクション(現在のメディアボックス)が製作し松竹が配給した『呼んでるぜあの風が』で、劇場用映画に復帰している[2][3][4]。
1975年(昭和50年)12月25日、満59歳のときに女優の志賀眞津子(当時50歳)と結婚する。
満63歳を迎える1979年(昭和54年)10月30日から1980年(昭和55年)3月15日にかけて、テレビ朝日で放映された『けっぱれ!大ちゃん』が、最後の連続テレビ映画として記録されている。
2010年(平成22年)7月10日午前9時5分、東京都三鷹市内の病院で死去した[1]。満93歳没。
フィルモグラフィ
劇場用映画
- 『人喰い熊』 : 製作ラジオ映画、配給東京映画配給、1950年4月9日公開
- 『恋の阿蘭陀坂』 : 監督鈴木英夫、1951年3月3日公開 - 助監督
- 『歌う女剣劇』 : 監督西村元男、製作大映東京撮影所、1953年4月29日公開 - 脚本
- 『五ツ木の子守唄』 : 製作大映東京撮影所、1954年4月14日公開
- 『母時鳥』 : 製作大映東京撮影所、1954年7月4日公開
- 『荒城の月』 : 製作大映東京撮影所、1954年11月3日公開
- 『春の渦巻』 : 製作大映東京撮影所、1954年12月29日公開
- 『暁の合唱』 : 製作大映東京撮影所、1955年3月18日公開
- 『講道館四天王』 : 製作大映東京撮影所、1955年7月3日公開
- 『見合い旅行』 : 製作大映東京撮影所、1955年11月15日公開
- 『恋と金』 : 製作大映東京撮影所、1956年1月22日公開
- 『無法者の島』 : 製作大映東京撮影所、1956年6月1日公開
- 『第三非常線』 : 製作大映東京撮影所、1956年12月5日公開
- 『朝の口笛』 : 製作大映東京撮影所、1957年3月13日公開
- 『哀愁列車』 : 製作大映東京撮影所、1957年5月13日公開
- 『誓いてし』 : 製作大映東京撮影所、1957年9月14日公開
- 『駐在所日記』 : 製作大映東京撮影所、1957年11月5日公開
- 『新婚七つの楽しみ』 : 製作大映東京撮影所、1958年1月9日公開
- 『南氏大いに惑う』 : 製作大映東京撮影所、1958年5月19日公開
- 『嵐の講道館』 : 製作大映東京撮影所、1958年8月12日公開
- 『別れたっていいじゃないか』 : 製作大映東京撮影所、1958年10月15日公開
- 『濡れた瞳』 : 製作大映東京撮影所、1959年1月9日公開
- 『薔薇の木にバラの花咲く』 : 製作大映東京撮影所、1959年3月11日公開
- 『私の選んだ人』 : 製作大映東京撮影所、1959年5月13日公開
- 『嫌い嫌い嫌い』 : 製作大映東京撮影所、1960年2月24日公開
- 『時の氏神 新夫婦読本』 : 製作大映東京撮影所、1960年10月18日公開
- 『母桜』 : 製作大映東京撮影所、1960年11月16日公開
- 『新夫婦読本 恋愛病患者』 : 製作大映東京撮影所、1961年2月15日公開
- 『投資令嬢』 : 製作大映東京撮影所、1961年5月10日公開
- 『七人のあらくれ』 : 製作大映東京撮影所、1961年11月29日公開
- 『サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ』 : 製作大映東京撮影所、1962年5月12日公開
- 『団地夫人』 : 製作大映東京撮影所、1962年12月26日公開
- 『呼んでるぜあの風が』 : 製作テアトル・プロダクション、配給松竹、1965年6月12日公開
テレビ映画
「単発」と明記されているもの以外は連続テレビ映画であり、その一部あるいは全部を監督している[9]。
- 『図々しい奴』 : 製作大映テレビ室/TBS、1963年6月3日 - 同年9月9日放映
- 『そろりと参ろう』 : 製作大映テレビ室/TBS、1963年12月16日 - 1964年3月9日放映
- 『国際事件記者』 : 製作国際放映、1965年3月10日 - 同年7月28日放映
- 『がいな奴』 : 製作フジテレビジョン、1965年10月7日 - 1966年4月7日放映
- 『山のかなたに』 : 製作日活/NTV、1966年1月17日 - 同年4月11日放映
- 『ただいま見習中』 : 製作フジテレビジョン、1966年9月11日放映(単発)
- 『渥美清の泣いてたまるか』 : 製作TBS/国際放映、1966年4月17日 - 1968年3月31日放映
- 『エプロン父さん』 : 製作TBS、1968年10月6日 - 1969年3月30日放映
- 『胡椒息子』 : 製作TBS、1969年7月7日 - 同年10月27日放映
- 『ただいま同居中』 : 製作大映テレビ室/TBS、1970年1月6日 - 同年6月30日放映
- 『恋人はLサイズ』 : 製作大映テレビ室/フジテレビジョン、1970年5月7日 - 同年9月24日放映
- 『おくさまは18歳』 : 製作大映テレビ室/TBS、1970年9月29日 - 1971年9月28日放映
- 愛の劇場『北信濃絶唱』 : 製作大映テレビ室/TBS、1972年1月4日 - 同年3月3日放映
- タケダアワー『アイアンキング』 : 製作TBS/宣弘社、1972年10月8日 - 1973年4月8日放映
- 『走れ!ケー100』 : 製作TBS/C.A.L、1973年4月13日 - 1974年3月29日放映
- 『若い!先生』 : 製作TBS/国際放映、1974年5月13日 - 同年11月4日放映
- 『玄海の女』 : 製作フジテレビジョン、1975年3月31日 - 同年6月27日放映
- ライオン奥様劇場『異母兄弟』 : 製作フジテレビジョン、1975年11月17日 - 1976年1月2日放映
- 『天下一大物伝』 : 製作国際放映/東京12チャンネル、1976年10月5日 - 1977年3月29日放映
- 土曜ワイド劇場『死の大滑降』 : 製作大映テレビ室/テレビ朝日、1978年3月4日放映(単発)
- 『けっぱれ!大ちゃん』 : 製作国際放映/テレビ朝日、1979年10月30日 - 1980年3月15日放映
- 『心の忘れ物カメオ』 : 製作モラロジ—研究所、1979年11月完成
脚注
- ^ a b c d 枝川弘氏死去 映画監督、47NEWS、2010年7月20日付、2012年4月26日閲覧。
- ^ a b c d e 枝川弘、日本映画情報システム、文化庁、2012年4月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g 枝川弘、日本映画データベース、2012年4月26日閲覧。
- ^ a b c d e f 枝川弘、キネマ旬報映画データベース、2012年4月26日閲覧。
- ^ 枝川弘、映像作品データベース、武蔵野美術大学、2012年4月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g 枝川弘、日本映画監督協会、2010年7月30日付、インターネットアーカイブ、2012年4月26日閲覧。
- ^ 『映画年鑑 1952』、p.78.
- ^ 鈴木英夫〈その6〉対談:鈴木英夫×木村威夫、木全公彦、マーメイドフィルム、2012年4月25日閲覧。
- ^ a b c d 枝川弘、テレビドラマデータベース、2012年4月26日閲覧。
参考文献
- 『映画年鑑 1952』、時事映画通信社、1952年
関連項目
外部リンク
- Hiromu Edagawa - IMDb
- 枝川弘 - 日本映画情報システム (文化庁)
- 枝川弘 - 映連データベース (日本映画製作者連盟)
- 枝川弘 - 日本映画データベース
- 枝川弘 - キネマ旬報映画データベース
- 枝川弘 - allcinema ONLINE
- 枝川弘 - 映像作品データベース (武蔵野美術大学)
- 枝川弘 - テレビドラマデータベース