「新宿ジョイシネマ」の版間の差分
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* [http://www.humax-cinema.co.jp/index.html ヒューマックスシネマ] - 経営会社の公式ウェブサイト |
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* [http://www.cinema-st.com/road/r025.html 新宿ジョイシネマ1・2・3] - 港町キネマ通り |
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* [http://web.archive.org/web/20090415165721/http://www.humax-cinema.co.jp/cinema/top_shinjyuku.html 新宿ジョイシネマ] - [[ヒューマックスシネマ]]([[インターネット |
* [http://web.archive.org/web/20090415165721/http://www.humax-cinema.co.jp/cinema/top_shinjyuku.html 新宿ジョイシネマ] - [[ヒューマックスシネマ]]([[インターネットアーカイブ]]、2009年4月15日付) |
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2017年9月4日 (月) 22:38時点における版
種類 | 事業場 |
---|---|
市場情報 | 消滅 |
本社所在地 |
日本 東京都新宿区歌舞伎町1丁目21番7号 |
設立 | 1947年12月 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画興行 |
代表者 |
林以文 林瑞峰 |
主要株主 |
地球会館 ヒューマックス ヒューマックスピクチャーズ ヒューマックスシネマ |
外部リンク | humax-cinema.co.jp/cinema/top_shinjyuku.html |
特記事項:2009年5月31日 閉館 |
新宿ジョイシネマ(しんじゅくジョイシネマ)は、かつて東京都新宿区歌舞伎町に存在した映画館である[1][2][3][4]。1947年(昭和22年)12月、のちの「地球会館」の場所に開館した新宿地球座(しんじゅくちきゅうざ)が原点であり、追って開館した新宿名画座(しんじゅくめいがざ)、「地球会館」の新築・落成とともに新設された新宿座(しんじゅくざ)とともに、1995年(平成7年)に「新宿ジョイシネマ」と館名を統一した[1][2][3][5]。「新宿ジョイシネマ」は第一義的には1984年(昭和59年)に新宿座を改称した際の単一館名であったが、その後、ヒューマックスピクチャーズ(現在のヒューマックスシネマ)が歌舞伎町にもつ5スクリーン(のち3スクリーン)を指す総合的な館名となった[2][3]。
本項では「新宿地球座」開館から「新宿ジョイシネマ1・2・3」閉館まで(1947年12月 - 2009年5月31日)を扱う。
沿革
- 1947年12月 - 林以文が新宿・歌舞伎町に新宿地球座を開館[2][3]
- 1948年5月 - 林以文が惠通企業株式会社(現在の株式会社ヒューマックス)を設立[2]
- 1953年1月2日 - 新宿劇場開館(1970年閉館)[3]
- 1956年3月 - 新宿名画座(のちの新宿ジョイシネマ3)開館[3][6]
- 1958年6月 - 林以文が株式会社地球会館を設立[2]
- 同年12月 - 「地球会館」新築・落成、新宿座が開館、新宿地球座が再開館(のちの新宿ジョイシネマ1・2)[2]
- 1971年10月 - 閉館した新宿劇場跡地に「新宿ジョイパックビル」(現在の「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」)が落成[2]
- 1983年 - 新宿地球座が歌舞伎町松竹と改称
- 1984年 - 新宿座が新宿ジョイシネマと改称
- 1987年5月 - 新宿名画座が新宿シネパトスと改称[7]
- 1995年7月 - 新宿ジョイシネマ1・2・3・4・5へと館名を統一、「新宿ジョイパックビル」の歌舞伎町シネマ1・2(1985年開館)を3・4に改称[7]
- 1997年11月 - 新宿ジョイシネマ3・4を閉館、新宿ジョイシネマ5を3と改称
- 2009年5月31日 - 新宿ジョイシネマ1・2・3すべて閉館[3]
- 2011年1月 - 「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」(かつての地球会館)の大改修工事を完成[2]
データ
- 所在地
- 新宿座・新宿地球座:東京都新宿区歌舞伎町753番地 地球会館 地階・4階
- ジョイシネマ1・2:東京都新宿区歌舞伎町1丁目21番7号 地球会館(現在の「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」)地階・4階(のち3階)[4]
- ジョイシネマ3・4:東京都新宿区歌舞伎町1丁目20番1号 新宿ジョイパックビル(現在の「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」)2階
- 新宿名画座 : 東京都新宿区歌舞伎町511番地 中台工業ビル 1階
- ジョイシネマ5→3:東京都新宿区歌舞伎町1丁目27番5号 中台工業ビル(現在の中台ビル)1階[4]
- 新宿座・新宿地球座:東京都新宿区歌舞伎町753番地 地球会館 地階・4階
- 観客定員数
概要
第二次世界大戦後、かつて東京府立第五高等女学校(移転して現在の東京都立富士高等学校)のあった歌舞伎町の地区を開発することになり、林以文が1947年(昭和22年)12月、歌舞伎町753番地に新宿地球座を新築・開館した[2][5][8]。同地区の開発はなかなか進まず、地球座の開館は同地への進出第1号であり、周囲に施設が揃い始めるのは数年後のことであった[5][8]。林は翌1948年(昭和23年)5月、惠通企業株式会社を設立[2]、地球座では外国映画(洋画)を上映して『地球座ニュース』を発行し、地球座は軌道に乗った[8]。1951年(昭和26年)には、東京急行電鉄が東京スケートリンク、同年11月には東亜興行が新宿オデヲン座を開業し、さらに2年後の1953年(昭和28年)1月2日には、歌舞伎町879番地に林が新宿劇場を新築・開館したが、まだ新宿コマ劇場の位置は野原であった[2][5][9]。
1956年(昭和31年)3月、李合珠の経営する中台工業(現在のエイチアイインターナショナル)が地球座の西側、歌舞伎町511番地に「中台工業ビル」を新築・開業、その際に惠通企業は同ビル1階に入居して映画館を開き、新宿名画座として開館した[3][5][6]。同館は、基本的に日本映画の旧作を上映する劇場であった[5]。1958年(昭和33年)6月、惠通企業は傘下に株式会社地球会館を設立、同年12月には、新宿地球座の位置に「地球会館」を新築・落成、地下に新宿座が開館、4階に新宿地球座が再開館した[2][5]。新宿座が日本映画、新宿地球座が外国映画というすみわけであった[1][5]。開館当時の地球会館は、2つの映画館のほか2階にコンサートホール、7階に「キャバレームーランルージュ」があり、総合娯楽ビルディングであった[5]。1959年(昭和34年)当時の惠通グループのこれら映画館の経営母体は、新宿座・新宿地球座が株式会社地球会館、新宿名画座が惠通企業、新宿劇場が林の個人経営であった[5]。
1971年(昭和46年)には、新宿劇場を閉館した跡地に「新宿ジョイパックビル」(現在の「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」)を建設、同年10月に落成、ボウリング場「新宿コパボウル」、ゲームセンター「プレイランドカーニバル」、ディスコ「プレイハウス」などがある総合レジャービルとなったが、当初、映画館は存在しなかった[2][8]。ジョイパックシネマ(現在のヒューマックスシネマ)が同ビル2階に歌舞伎町シネマ1・2を1984年(昭和59年)に新設[10]、これがのちに「新宿ジョイシネマ3・4」になった。同じころ、同年には新宿座が新宿ジョイシネマと改称、前年の1983年(昭和58年)には新宿地球座が歌舞伎町松竹と改称、1987年(昭和62年)には、新宿名画座が新宿シネパトスと改称した。同年7月、恵通企業株式会社が株式会社ヒューマックスへと社名変更、グループ名をヒューマックスグループと改称した[2]。
テレビディレクターの岡田倫太郎は早稲田大学在学中の1991年(平成3年)頃に当館でアルバイトをしていたことがあり、当時上映していた『ダークマン』や『ヒルコ 妖怪ハンター』などといった作品の宣伝を当館入口付近で行っていた[11]。
1995年(平成7年)7月には、これら新宿ジョイシネマ(地球会館地下、かつての新宿座)、歌舞伎町松竹(地球会館4階、かつての地球座)、歌舞伎町シネマ1・2(新宿ジョイパックビル)、新宿シネパトス(中台工業ビル1階、かつての新宿名画座)をそれぞれ順番に新宿ジョイシネマ1・2・3・4・5へと館名を統一した[3][7]。1997年(平成9年)11月、新宿ジョイパックビルにあった新宿ジョイシネマ3・4を閉館、中台工業ビルの新宿ジョイシネマ5を同3と改称した。1998年(平成10年)6月13日、『追跡者』公開のタイミングで改装を行い、新宿ジョイシネマ2は、従来の4階入口のフラット構造から3階に入口を移動してスタジアム構造に変えた[1]。
2003年(平成15年)、ヒューマックスグループでは同劇場に関わる変更が行われた[2]。同年2月に、株式会社ヒューマックステクノロジーを株式会社ヒューマックスシネマに社名変更し、その会社へ、同年3月、株式会社ヒューマックスピクチャーズの全事業部門を営業譲渡した[2]。これにより、同劇場の経営母体は、株式会社ヒューマックスピクチャーズから株式会社ヒューマックスシネマに移った。
2009年(平成21年)5月31日、「新宿ジョイシネマ1・2・3」はすべてを閉館、ヒューマックスグループは歌舞伎町における映画興行から完全に撤退した[1][3]。最終日の上映作はシネマ1が『ラストサムライ』、シネマ2が『GOEMON』、シネマ3が『60歳のラブレター』だった[12]。
その後の跡地は、2011年(平成23年)1月に「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」(かつての地球会館)の大改修工事が完成し[2]、「新宿ジョイシネマ1」の跡地はライブハウス「新宿BLAZE」、「新宿ジョイシネマ2」の跡地は「ホテルウィングインターナショナル新宿」の下層階[13]、新宿ジョイパックビルにあった「新宿ジョイシネマ3・4」の跡地は、「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」の2階、「まんが喫茶ゲラゲラ新宿コマ劇前店」[14]、最終的に「新宿ジョイシネマ3」となった「新宿ジョイシネマ5」(かつての新宿シネパトスおよび新宿名画座)は、「麺匠竹虎新宿店」である[15]。
参考文献
- 『華僑 - 商才民族の素顔と実力』、日本経済新聞社、日本経済新聞出版社、1981年7月 ISBN 4532092388
- 『映画年鑑 1985』、時事映画通信社、1985年
- 『キネマ旬報』2009年6月下旬号通巻1535号、キネマ旬報社、2009年6月5日
- 『映画館のある風景 昭和30年代盛り場風土記・関東篇』、キネマ旬報社、2010年3月26日 ISBN 4873763258
脚注
- ^ a b c d e f g h 新宿ジョイシネマ1・2・3、港町キネマ通り、2013年7月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “沿革”. ヒューマックス. 2013年7月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 歌舞伎町に風穴あくか 新宿ジョイシネマ閉館 コマ跡地も白紙、東京新聞、2009年5月30日付、2013年7月18日閲覧。
- ^ a b c d e f 新宿ジョイシネマ アクセス、ヒューマックスシネマ、2013年7月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m キネ旬[2010], p.52, 56-59.
- ^ a b “会社沿革”. エイチアイインターナショナル. 2013年7月18日閲覧。
- ^ a b c キネ旬[2009], p.149.
- ^ a b c d 日経[1981], p.184.
- ^ “会社概要”. 東亜興行. 2013年7月17日閲覧。
- ^ 年鑑[1985], p.10.
- ^ “新宿ジョイシネマが閉館!!”. rino-diary テレビディレクター岡田倫太郎です。 (2009年6月20日). 2013年11月17日閲覧。
- ^ “新宿ジョイシネマ閉館で考える“シネコン時代の今後””. ニュースウォーカー. KADOKAWA (2009年6月1日). 2014年11月12日閲覧。
- ^ “ヒューマックスパビリオン新宿アネックス”. ビル・店舗紹介. ヒューマックス. 2013年7月18日閲覧。
- ^ “ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町”. ビル・店舗紹介. ヒューマックス. 2013年7月18日閲覧。
- ^ “麺匠竹虎新宿店”. 麺匠竹虎. 2013年7月18日閲覧。
関連項目
外部リンク
- ヒューマックスシネマ - 経営会社の公式ウェブサイト
- 新宿ジョイシネマ1・2・3 - 港町キネマ通り
- 新宿ジョイシネマ - ヒューマックスシネマ(インターネットアーカイブ、2009年4月15日付)