「浄光寺 (常陸太田市)」の版間の差分
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[[正中 (元号)|正中]]2年([[1325年]])に、[[常陸国]]の有力[[御家人]]、[[佐竹氏]]8代当主の[[佐竹貞義]]によって母の追善供養のために創建されたと伝えられている。[[開山 (仏教)|開山]]は、翌年に[[清浄光寺]]を建立する[[遊行]]4代他阿[[呑海]]上人と言う<ref>『常陸太田市史 通史編上』常陸太田市、1984年</ref>。[[太田城 (常陸国)|太田城]]南端の台地上にある。 |
[[正中 (元号)|正中]]2年([[1325年]])に、[[常陸国]]の有力[[御家人]]、[[佐竹氏]]8代当主の[[佐竹貞義]]によって母の追善供養のために創建されたと伝えられている。[[開山 (仏教)|開山]]は、翌年に[[清浄光寺]]を建立する[[遊行]]4代他阿[[呑海]]上人と言う<ref>『常陸太田市史 通史編上』常陸太田市、1984年</ref>。[[太田城 (常陸国)|太田城]]南端の台地上にある。 |
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17代[[佐竹義篤]]、20代[[佐竹義昭]]らの墓所があったが、[[慶長]]7年に佐竹氏が[[久保田藩]]に[[移封]]されると、全て持ち去られた<ref>{{PDF|[https://web.archive.org/web/20140112074933/http://www.kanko-hitachiota.com/wp/hitachiota/files/2011/12/3ec1345f8b25ae0e83c94de55f84d576.pdf ひたちおおた観光・物産ガイド]}}(2014年1月12日時点の[[インターネット |
17代[[佐竹義篤]]、20代[[佐竹義昭]]らの墓所があったが、[[慶長]]7年に佐竹氏が[[久保田藩]]に[[移封]]されると、全て持ち去られた<ref>{{PDF|[https://web.archive.org/web/20140112074933/http://www.kanko-hitachiota.com/wp/hitachiota/files/2011/12/3ec1345f8b25ae0e83c94de55f84d576.pdf ひたちおおた観光・物産ガイド]}}(2014年1月12日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。この他に[[川野辺氏|川野辺朝隆]]の墓もあったと言うが <ref>大内政之介『新編金砂戦国史』筑波書林、1993年</ref>、現在は不明。 |
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[[元治]]元年([[1864年]])に起こった[[天狗党の乱]]では、[[二本松藩]]の[[陣屋]]となった。 |
[[元治]]元年([[1864年]])に起こった[[天狗党の乱]]では、[[二本松藩]]の[[陣屋]]となった。 |
2017年9月5日 (火) 05:02時点における版
浄光寺 | |
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所在地 | 茨城県常陸太田市塙町2273番地 |
位置 | 北緯36度32分27.6秒 東経140度31分29.8秒 / 北緯36.541000度 東経140.524944度座標: 北緯36度32分27.6秒 東経140度31分29.8秒 / 北緯36.541000度 東経140.524944度 |
山号 | 引接山 |
院号 | 大善院 |
宗旨 | 時宗 |
宗派 | 時宗遊行派 |
本尊 | 木造阿弥陀如来座像 |
創建年 | 正中2年(1325年) |
開山 | 他阿呑海 |
開基 | 佐竹貞義 |
法人番号 | 3050005008205 |
浄光寺(じょうこうじ)は、茨城県常陸太田市にある仏教寺院。時宗。
概略
正中2年(1325年)に、常陸国の有力御家人、佐竹氏8代当主の佐竹貞義によって母の追善供養のために創建されたと伝えられている。開山は、翌年に清浄光寺を建立する遊行4代他阿呑海上人と言う[1]。太田城南端の台地上にある。
17代佐竹義篤、20代佐竹義昭らの墓所があったが、慶長7年に佐竹氏が久保田藩に移封されると、全て持ち去られた[2]。この他に川野辺朝隆の墓もあったと言うが [3]、現在は不明。
元治元年(1864年)に起こった天狗党の乱では、二本松藩の陣屋となった。
境内とその周辺
交通アクセス
東日本旅客鉄道水郡線常陸太田駅から徒歩15分、または茨城交通路線バスで西2丁目バス停下車、すぐ。