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'''オリュンピアス'''(ギリシャ語:Ὀλυμπιάς、[[紀元前375年]] - [[紀元前316年]])は、[[イピロス|エロス]]王[[ネオプトレモス1世]]の娘、[[マケドニア王国|マケドニア]]王[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]の4番目の妻であり、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス3世(大王)]]の母である。狂乱的な蛇崇拝の[[ディオニューソス]]信仰の熱烈な信者であり、1世紀の伝記作家[[プルタルコス]]は、オリュンピアスが蛇と寝ていた可能性を示唆している<ref>森谷、p. 56</ref>

'''オリュンピアス'''(ギリシャ語:Ὀλυμπιάς、[[紀元前375年]] - [[紀元前316年]])は、[[イピロス|エペイロス]]王[[ネオプトレモス1世]]の娘、[[マケドニア王国|マケドニア]]王[[ピリッポス2世]]の4番目の妻であり、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス3世(大王)]]の母である。狂乱的な蛇崇拝の[[ディオニューソス]]信仰の熱烈な信者であり、1世紀の伝記作家[[プルタルコス]]は、オリュンピアスが蛇と寝ていた可能性を示唆している。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
オリュンピアスはピリッポス2世との間に、息子アレクサンドロス3世と娘クレオパトラ(叔父エペイロス王アレクサンドロス1世と結婚)の2子をもうけたが、夫ピリッポス2世と不和となり、追放された。後にアレクサンドロスのとりなしによりピリッポスと和解し、ペラに帰還する<ref>ブリアン、p. 25</ref><ref name=B162>ブリアン、p. 162</ref>。アレクサンドロスが死去した紀元前323年に再びエペイロスに追放されたものの、紀元前317年にマケドニアに戻りアレクサンドロス3世の息子[[アレクサンドロス4世]]の後見となり、アレクサンドロス4世の共同統治者であった[[ピリッポス3世]]を暗殺した<ref name=B162 />。しかし、翌紀元前316年、[[カッサンドロス]]の命を受けた兵士らにより殺害された<ref>ブリアン、p. 165</ref>。
オリュンピアスはピリッポス2世との間に、息子アレクサンドロス3世と娘クレオパトラ(叔父[[ピロス王]][[アレクサンドロス1世 (エピロス王)|アレクサンドロス1世]]と結婚)の2子をもうけたが、夫ピリッポス2世と不和となり、追放された。後にアレクサンドロスのとりなしによりピリッポスと和解し、ペラに帰還する<ref>ブリアン、p. 25</ref><ref name=B162>ブリアン、p. 162</ref>。アレクサンドロスが死去した紀元前323年に再びエロスに追放されたものの、紀元前317年にマケドニアに戻りアレクサンドロス3世の息子[[アレクサンドロス4世]]の後見となり、アレクサンドロス4世の共同統治者であった[[ピリッポス3世]]を暗殺した<ref name=B162 />。しかし、翌紀元前316年、[[カッサンドロス]]の命を受けた兵士らにより殺害された<ref>ブリアン、p. 165</ref>。


== 名前について ==
== 名前について ==
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オリュンピアスは、[[イピロス|エペイロス]]における古代ギリシア系氏族[[:En:Molossians|モロッソイ]]の王[[ネオプトレモス1世]]の娘で、エペイロス王アレクサンドロス1世
オリュンピアスは、[[イピロス|エロス]]における古代ギリシア系氏族{{仮リンク|モロッソイ|en|Molossians}}の王[[ネオプトレモス1世]]の娘で、エロス王[[アレクサンドロス1世 (エピロス王)|アレクサンドロス1世]]の姉妹である。オリュンピアスの一族は、[[アキレウス]]の息子[[ネオプトレモス]]の後裔でアイアキダイ([[アイアコス]]の末裔)であるとされ、エピロスで尊敬を集めていた。[[プルタルコス]]『倫理論集(モラリア)』での言及によると、彼女はもともとはポリュクセナと名づけられたらしい<ref>森谷、p. 22</ref>。その後マケドニア王[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]との婚姻にあたりミュルタレに名を変えた<ref>森谷、p. 33 - 34</ref>。この改名はとある[[密儀宗教]]への入信儀式の一幕だった。
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「オリュンピアス」はいまに知られる彼女の4つの名のうち3番目にあたる。この名はおそらく、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]]の出産と同時に、紀元前356年の[[古代オリンピック|オリュンピア競技会]]でピリッポスの所有する競走馬が優勝したとの報がもたらされた(プルタルコス『アレクサンドロス伝』3.8)ことから選ばれたのだろう。彼女の最後の名はストラトニケである。この名は紀元前317年に[[マケドニア王国|マケドニア]]王妃[[エウリュディケ2世]]に勝利した際に与えられた[[:En:Epithet|添え名]]だと思われる。
「オリュンピアス」はいまに知られる彼女の4つの名のうち3番目にあたる。この名はおそらく、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]]の出産と同時に、紀元前356年の[[古代オリンピック|オリュンピア競技会]]でピリッポスの所有する競走馬が優勝したとの報がもたらされた(プルタルコス『アレクサンドロス伝』3.8)ことから選ばれたのだろう<ref>森谷、p.
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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* ピエール・ブリアン 『アレクザンダー大王 未完の世界帝国』 創元社、1991年
* ピエール・ブリアン 『アレクザンダー大王 未完の世界帝国』 創元社、1991年
* [[森谷公俊]] 『王妃オリュンピアス-アレクサンドロス大王の母』 ちくま新書、1998年


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オリュンピアス
Ὀλυμπιάς
マケドニア王妃

出生 紀元前375年
エピロス
死去 紀元前316年
マケドニア王国
配偶者 マケドニアピリッポス2世
子女 アレクサンドロス3世
クレオパトラ
父親 エピロス王ネオプトレモス1世
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オリュンピアス(ギリシャ語:Ὀλυμπιάς、紀元前375年 - 紀元前316年)は、エピロスネオプトレモス1世の娘、マケドニアピリッポス2世の4番目の妻であり、アレクサンドロス3世(大王)の母である。狂乱的な蛇崇拝のディオニューソス信仰の熱烈な信者であり、1世紀の伝記作家プルタルコスは、オリュンピアスが蛇と寝ていた可能性を示唆している[1]

生涯

[編集]

オリュンピアスはピリッポス2世との間に、息子アレクサンドロス3世と娘クレオパトラ(叔父エピロス王アレクサンドロス1世と結婚)の2子をもうけたが、夫ピリッポス2世と不和となり、追放された。後にアレクサンドロスのとりなしによりピリッポスと和解し、ペラに帰還する[2][3]。アレクサンドロスが死去した紀元前323年に再びエピロスに追放されたものの、紀元前317年にマケドニアに戻りアレクサンドロス3世の息子アレクサンドロス4世の後見となり、アレクサンドロス4世の共同統治者であったピリッポス3世を暗殺した[3]。しかし、翌紀元前316年、カッサンドロスの命を受けた兵士らにより殺害された[4]

名前について

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オリュンピアスを誘惑するゼウスジュリオ・ロマーノによるフレスコ画パラッツォ・デル・テ

オリュンピアスは、エピロスにおける古代ギリシア系氏族モロッソイ英語版の王ネオプトレモス1世の娘で、エピロス王アレクサンドロス1世の姉妹である。オリュンピアスの一族は、アキレウスの息子ネオプトレモスの後裔でアイアキダイ(アイアコスの末裔)であるとされ、エピロスで尊敬を集めていた。プルタルコス『倫理論集(モラリア)』での言及によると、彼女はもともとはポリュクセナと名づけられたらしい[5]。その後マケドニア王ピリッポス2世との婚姻にあたりミュルタレに名を変えた[6]。この改名はとある密儀宗教への入信儀式の一幕だった。

「オリュンピアス」はいまに知られる彼女の4つの名のうち3番目にあたる。この名はおそらく、アレクサンドロスの出産と同時に、紀元前356年のオリュンピア競技会でピリッポスの所有する競走馬が優勝したとの報がもたらされた(プルタルコス『アレクサンドロス伝』3.8)ことから選ばれたのだろう[7]。彼女の最後の名はストラトニケである。この名は紀元前317年にマケドニア王妃エウリュディケ2世に勝利した際に与えられた添え名だと思われる[8]

脚注

[編集]
  1. ^ 森谷、p. 56
  2. ^ ブリアン、p. 25
  3. ^ a b ブリアン、p. 162
  4. ^ ブリアン、p. 165
  5. ^ 森谷、p. 22
  6. ^ 森谷、p. 33 - 34
  7. ^ 森谷、p. 52
  8. ^ 森谷、p. 190

参考文献

[編集]
  • ピエール・ブリアン 『アレクザンダー大王 未完の世界帝国』 創元社、1991年
  • 森谷公俊 『王妃オリュンピアス-アレクサンドロス大王の母』 ちくま新書、1998年