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「イブン・ハイサム」の版間の差分

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光学と和音、静力学について
 
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[[File:Alhazen, the Persian.gif|thumb|right|200px|イブン・アル=ハイサム(イラン高校の教科書に掲載されていた絵)]]
[[ファイル:Ibn al-Haytham.jpg|サムネイル|イブン・ハイサムのイメージ像]]
'''イブン・アル=ハイサム'''(Ibn al-Haitham、本名アブー・アリー・アル=ハサン・イブン・アル=ハサン・イブアルイサム {{lang|ar|Abū ‘Alī al-Haṣan ibn al-Haṣan ibn al-Haytham}}、{{lang-ar| أبو علي الحسن بن الحسن بن الهيثم}} )は、イスラム圏の[[数学]]、[[天文学]]、[[物理学]]、[[医学]]、[[哲学]]、[[音楽学]]<ref>[[湯浅赳男]]『面白いほどよくわかる 世界の哲学・思想のすべて』[[日本文芸社]]、平成17年2月1日改訂第1版、ISBN:4-537-11501-7、p162</ref>([[965年]] - [[1040年]])。[[イラク]]の都市[[バスラ]]出身であったことから'''アル=バスリー'''(al-Basri)とも呼ばれていた。西洋では'''アルハゼン'''、'''アルハーゼン'''(Alhacen 、Alhazen)の名で知られていた
'''イブン・ハイサム'''(<span lang="ar" dir="rtl">ابن الهيثم</span>, Ibn al-Haytham もしくは Ibn al-Haitham, '''イブン・アル=ハム''', [[ラテ語|ラテ名]]: '''アルハゼン''')は、イスラム圏の[[数学]]、[[天文学]]、[[物理学]]、[[医学]]、[[哲学]]、[[音楽学]]<ref>[[湯浅赳男]]『面白いほどよくわかる 世界の哲学・思想のすべて』[[日本文芸社]]、平成17年2月1日改訂第1版、ISBN:4-537-11501-7、p162</ref>([[965年]] - [[1040年]])。


イブン・ハイサムは[[光学]]の諸原理の発見と科学実験手法の発展に対し、近代科学へ重要な貢献をした人物である。また彼が残した光学に関する書物、[[レンズ]]や[[鏡]]を使った[[屈折]]や[[反射]]の実験などから「光学の父」ともみなされている。[[]]にある[[クレーター]]「アルハゼンクレーター」 (Alhazen crater) は彼の栄誉を称えて名づけられている
イブン・ハイサムは[[光学]]の諸原理の発見と科学実験手法の発展に対し、近代科学へ重要な貢献をした人物である。また彼が残した光学に関する書物、[[レンズ]]や[[鏡]]を使った[[屈折]]や[[反射]]の実験などから「'''光学の父'''」ともみなされている。[[アルハゼンの定理]]」や[[月のクレーター]]「{{仮リンク|アルハゼン (クレーター)|en|Alhazen (crater)|label=アルハゼン}}」は彼にちなむ
== 名前 ==
フルネームは'''アブー・アリー・アル=ハサン・イブン・アル=ハサン・イブン・アル=ハイサム'''(Abū ‘Alī al-Ḥasan ibn al-Ḥasan ibn al-Haytham, <span lang="ar" dir="rtl">أبو علي الحسن بن الحسن بن الهيثم</span>)で、直訳は「アリーの父こと、アル=ハイサムの息子(≒アル=ハイサム家の者)であるアル=ハサンの息子たるアル=ハサン」。

日本語では「'''イブン・アル=ハイサム'''」または定冠詞アル=を省いた「'''イブン・ハイサム'''」表記が多く見られる。

西洋ではファーストネームであるアル=ハサンのラテン語風発音である'''アルハゼン'''、'''アルハーゼン'''(Alhacen 、Alhazen)の名で知られていた。ただし本名に関しては異説があり、アル=ハサンではなくムハンマドとも言われている<ref name=":0">{{Cite web |title=ابن الهَيْثَم |url=https://islamic-content.com/person/9685 |website=islamic-content.com |access-date=2022-08-31 |language=ar-SA}}</ref>。

[[イラク]]の都市[[バスラ]]出身であったことから「アル=バスリー」(al-Baṣrī, البصري, 「バスラ出身の(人)」の意)とも呼ばれていた。

なお「イブン・アル=ハイサム」は学者本人のファーストネームやその父の名前だと言われている「アル=ハサン」ではなくアラブ世界で多用される出自表示方法で、名字に相当する部分を「イブン・アル=ハイサム」という形式で表現しているもの。「アル=ハイサムの息子」という直訳になるがここではイブンは実父以外の先祖の名前が入る事例であり、アル=ハイサムは実父ではなく数代前の祖先の名前<ref name=":0" />で、「アル=ハイサム家(出身者)」といった意味で使われる家名・名字相当部分となっている。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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イブン・ハイサムは光学理論の研究、および科学研究の実践や手法に関して重大な貢献をした、史上最も偉大な科学者の一人である。
イブン・ハイサムは光学理論の研究、および科学研究の実践や手法に関して重大な貢献をした、史上最も偉大な科学者の一人である。


イブン・ハイサムの伝記には不明な部分が多い<ref>Smith, A. Mark, ed. and trans. 2001のintroductionなどを参照</ref>。彼はアッバース朝時代の965年に[[バスラ]]で生まれた。父親は官吏を務めており、息子に地元バスラにて十分な教育を受けさせた<ref name=":2">{{Cite web |title=بحث عن ابن الهيثم |url=https://mawdoo3.com/بحث_عن_ابن_الهيثم |website=موضوع |access-date=2023-01-08 |language=ar}}</ref>という。
彼は965年に[[バスラ]]で生まれた。彼は[[バグダード]]で科学を学び、おそらく[[エジプト]]の[[カイロ]]で没したと考えられている。


彼は[[バグダード]]で学業を修了しバスラで[[カーディー]](裁判官)となったが、当時吹き荒れていた宗教対立・抗争の嵐の中で職を辞し学者の道へと転向。資料によっては父方おじから医学を学び<ref>{{Cite web |title=ص83 - كتاب الأعلام للزركلي - الاهوازي - المكتبة الشاملة |url=https://shamela.ws/book/12286/5206 |website=shamela.ws |access-date=2023-07-26}}</ref>医師兼官吏として宮廷で仕官していた<ref>{{Cite web |title=ص123 - كتاب شمس الله تشرق على الغرب فضل العرب على أوروبا - الابن الثاني لموسى الفلكي - المكتبة الشاملة |url=https://shamela.ws/book/148532/118 |website=shamela.ws |access-date=2023-07-26}}</ref>ともされている。
イブン・ハイサムの科学者としての経歴は高く評価されていた。このため彼は、学芸を保護する一方冷酷な奇人としても知られたエジプトの[[ファーティマ朝]]の第6代[[カリフ]]・[[ハーキム]]によってカイロに招かれ、[[ナイル川]]の洪水を治める研究をするよう指示された。しかし現地調査の結果、ナイルの洪水を完全に止めることは非現実的だと分かった彼は、正直に結果を語った場合のハーキムの怒りを恐れ、気が狂った振りをした。このためハーキムが[[1021年]]に没するまで彼は外出禁止の刑を与えられていたが、この時期に彼は重要な数学論文を多く書いている。彼は後にイスラーム支配下の[[スペイン]]に旅し、科学の研究のための十分な時間を得て、光学、数学、物理学、[[薬学]]などを研究しつつ、その結果のみならずそれらの学問の研究手法をも本に残した。彼の『Kitab al-Manazir』(光学の書、[[1015年]] - [[1021年]])は特に重要な著書であり、[[12世紀]]か[[13世紀]]にはヨーロッパで[[ラテン語]]に翻訳されている。


イラクもしくはシャーム(現在のシリア近辺)にいた頃にナイル川止水堰構想を伝え聞いたファーティマ朝カリフのハーキムにより[[エジプト]]の[[カイロ]]へ招聘され移住。同地でそのまま暮らし1040年に死去、埋葬されたものと見られる。
彼の著書数は判明している限り200程度になるが、そのうち現存しているものはごく少ない。彼の記念碑的主著、『光学の書』すらラテン語訳しか残っていない。しかし中世を通じ、彼の天文学などの著書はラテン語、[[ヘブライ語]]、その他多くの言語に訳された。


=== ファーティマ朝カリフによるエジプト招聘 ===
[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の『光学』など、[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]の光学・天文学研究を推し進め批判的に研究し、科学に新たな時代を築いたイブン・ハイサムの影響や功績は欧米や中東で高く評価されている。彼の肖像は[[2003年]]、イラクの10,000ディナール紙幣に登場したほか、[[テヘラン]]に本部を置くイラン原子力庁にあるイラン最大の[[レーザー]]研究施設にも彼の名が冠されている。月のアルハゼン・クレーターのほか、[[小惑星]]59239([[アルハゼン (小惑星)|アルハゼン]])も彼を記念して名づけられた。
後世の伝記によれば、学芸を保護する一方冷酷な奇人としても知られたエジプトの[[ファーティマ朝]]の第6代[[カリフ]]・[[ハーキム]]によってカイロに招かれた。イブン・ハイサムが毎年氾濫を起こす[[ナイル川]]治水実現に結びつく科学的見解ー[[アスワン]]に堰を作ればナイル川の流量を調節し、氾濫期か渇水期かにかかわらず水を供給できるようになるーを明らかにしたと伝え聞いたハーキムの強い希望によるものだった<ref name=":1">{{Cite web |title=ابن الهيثم .. أظهر الجنون ليسلم من ظلم الحاكم |url=https://www.aleqt.com/2015/03/03/article_936621.html |website=صحيفة الاقتصادية |date=2015-03-03 |access-date=2023-01-08 |language=ar}}</ref>という。


ハーキムはカイロ郊外の(アル=)ハンダクと呼ばれた地でイブン・ハイサムを迎え、彼のために用意した住居まで同行。生活や警護などの援助を提供<ref>{{Cite web |title=ابن الهيثم.. أول من درس عدسة العين |url=https://www.aljazeera.net/health/2016/8/15/%d8%a7%d8%a8%d9%86-%d8%a7%d9%84%d9%87%d9%8a%d8%ab%d9%85-%d8%a3%d9%88%d9%84-%d9%85%d9%86-%d8%af%d8%b1%d8%b3-%d8%b9%d8%af%d8%b3%d8%a9-%d8%a7%d9%84%d8%b9%d9%8a%d9%86 |website=www.aljazeera.net |access-date=2023-01-08 |language=ar}}</ref>し、公的な地位も与えた<ref>{{Cite web |title=لماذا ادعى الحسن ابن الهيثم الجنون فى مصر.. تعرف على القصة |url=https://www.youm7.com/story/2018/3/6/لماذا-ادعى-الحسن-ابن-الهيثم-الجنون-فى-مصر-تعرف-على/3681640 |website=اليوم السابع |date=2018-03-06 |access-date=2023-01-08 |language=ar}}</ref>。
== イブン・ハイサムの行った研究 ==
彼の研究は、数多くの[[実験]]を行い、そこから[[帰納]]法的な[[推論]]を用いて理論を打ち立てたことが特徴である。


カリフの意向を聞いたイブン・ハイサムは技術者らとナイル川を遡上しながら見て回ることにしたが、現地調査の結果自身が立てた治水構想を実現に移すことは不可能であると判断。古代エジプトに建設された数々の遺跡とその技術力、滝があるアスワン付近の難しい地形、祖国を流れるティグリス川・ユーフラテス川とは異なる荒々しいナイル川の実際の流れを目にして、自分がエジプトの地を踏まないまま机上で生み出した推論と当時の技術力ではナイル川を治めるには足りなかったと悟ったからだとも伝えられ<ref name=":1" />ている。
彼は光がさまざまな[[媒質]]を通る際の進行方向の変化について徹底的な実験を行い、[[屈折]]に関する法則を発見した。彼はまた、光を構成するさまざまな色を分解する最初の実験も行ったほか、[[日没]]の際の日光の色についても研究した。彼は、[[影]]、[[日食]]、[[虹]]など幅広い物理現象に対してもこれらを解明する理論を立て、日の出・日没時に[[水平線]]上にある[[太陽]]がなぜ見かけ上大きくなったように見えるかの正確な解説も行ったほか、光の物理的性質についても思索を重ねた。


治水事業を約束した形で出立したもののそれが無理だったと悟ったイブン・ハイサムは、アスワンから戻った後にハーキムに謝罪<ref name=":3">{{Cite web |title=قصة فشل "ابن الهيثم" في إقامة السدود بمصر - |url=https://www.aspdkw.com/قصة-فشل-ابن-الهيثم-في-إقامة-السدود-بمص/ |website=التقدم العلمي للنشر والتوزيع |date=2018-10-12 |access-date=2023-01-09 |language=ar |first=Faisal |last=Almahdi}}</ref>。ハーキムは自身の理論に不備があったことを正直に認めた<ref>{{Cite web |title=ابن الهيثم - مفكرون |url=https://mufakeroon.com//p/ابن-الهيثم |website=mufakeroon.com |access-date=2023-01-09 |language=ar}}</ref>イブン・ハイサムをその場で処刑したり国外追放したりすることはせず、謝罪を受け入れ実現が不可能である理由にも納得したように見受けられ、それなりの公職を改めて与えた。これについてはイブン・ハイサムが他国の為政者によってその才能を活用されることを防ぎ手元に置いておく目論見もあったのではないかと論じる説、シーア派であるファーティマ朝支配下にあるカイロが過ごしやすかったためイブン・ハイサム自身がそのまま逗留することを選んだのではないかといった見方もあるという<ref name=":3" />。
彼は人間の[[目|眼]]の各部分についても最初の正確な描写を行い、[[視覚]]のプロセスに科学的説明を与え、[[双眼視]](立体視)の仕組みについても解明を試みた。彼は[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]や[[ユークリッド]]らによる[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]の科学研究を多くの面で引き継いだが、眼から発する放射物によって物が見えるという先人たちの理論<ref>[[プラトン]]『[[ティマイオス]]』[[田之頭安彦]]訳、[[岩波書店]]、[[1975年]][[9月13日]]、45/46; 同訳書p195も参照のこと</ref>とは反対の立場に立ち、物の放つ光を受けて眼の中に像が結ばれると考えた。物の放つ光は眼の中を頂点とする[[円錐]]形をなす、という推論は後の[[遠近法]]の原理を先取りしたものである。また、視覚は[[脳]]の中で認識されると考え、人間の[[認識]]・[[記憶]]・[[感覚]]・[[感情]]などに関しても論考した。


ハーキムの真意は了解とは程遠いのではないかと考えたイブン・ハイサムはカリフの気まぐれと翻意によって殺害されることを恐れ<ref>{{Cite web |title=ابن الهيثم .. عبقري في ثوب الجنون (في ذكرى مرور 992 سنة على وفاته) |url=https://islamonline.net/archive/ابن-الهيثم-عبقري-في-ثوب-الجنون/ |website=إسلام أون لاين |access-date=2023-01-08 |language=ar}}</ref>、自らが置かれた不安定な状況と慣れない官吏職から唯一逃れられる方法としてイスラーム法上責任を問われず死刑から免れることのできる狂人になったかのようにふるまうことを選択した。
[[アリストテレス]]は針穴から暗い部屋に投射される光について言及したが、イブン・ハイサムは同じ原理から[[カメラ・オブスクラ]]を発案した。こうした光学の理論と実践に関する幅広い研究のおかげで、彼は'''近代光学の父'''とみなされている。


狂気を装ったものの結局は公職を剥奪。財産や書籍などの所持品も没収<ref>{{Cite web |title=سدّ الحسن بن الهيثم |url=https://www.alkhaleej.ae/2021-01-20/%D8%B3%D8%AF%D9%91-%D8%A7%D9%84%D8%AD%D8%B3%D9%86-%D8%A8%D9%86-%D8%A7%D9%84%D9%87%D9%8A%D8%AB%D9%85/%D8%B4%D9%8A%D8%A1-%D9%85%D8%A7/%D8%A7%D9%84%D8%B1%D8%A3%D9%8A-%D8%B2%D9%88%D8%A7%D9%8A%D8%A7 |website=صحيفة الخليج |access-date=2023-01-08 |language=ar}}</ref>され、ハーキムが[[1021年]]に謎の死を遂げるまで自宅軟禁生活を送った<ref name=":2" />。ハーキムによって監視の使用人をつけられていたことから狂人になったふりはハーキムが死去するまでの約10年間にわたって続けざるを得ず、カリフ死去後にようやく正気に戻ったふりができるようになり学究生活を公然と行うようになった。
彼の主著『Kitab al-Manazir』(光学の書)([[:en:Book of Optics|en]])のラテン語訳は西洋科学に多大な影響を与えた。中世の大科学者[[ロジャー・ベーコン]]はアルハゼンの名に言及しており、[[ヨハネス・ケプラー]]も彼の影響を受けている。また科学研究の手法の発展にも影響を与えた。彼の[[反射光学]]([[:en:Catoptrics|catoptrics]])に関する研究は球面鏡や放物線状の鏡を使い[[球面収差]]を集中的に調べたものだった。彼はまた、屈折と光の[[入射角]]の比率は一定ではないという重要な観測を行い、[[レンズ]]がものを拡大して見せる仕組みを研究した。彼の反射光学研究は「アルハーゼンの問題」([[アルハゼンの定理]])という重要な数学上の問いを含んでいた。<!--原文 It comprises drawing lines from two points in the plane of a circle meeting at a point on the circumference and making equal angles with the normal at that point. This leads to an equation of the fourth degree. 以下拙訳-->これは円形の平面において二つの点から引いた線が円周上のある点で合わさり、その点での垂直線によって等しい角度をなす場合を求めるものだった。これは[[四次方程式]]に道を開いた。


軟禁されていた自宅からアズハルモスクのそばに転居。アズハル学院で講義を行い複数の学者らが彼の元で巣立っていった。また生活が楽でなかったことからエウクレイデスやプトレマイオス(著『アルマゲスト』)といった書籍の写本・翻訳などを行うなどして生計を立て<ref>{{Cite web |title=ص124 - كتاب مجلة الرسالة - الحسن بن الهيثم - المكتبة الشاملة |url=https://shamela.ws/book/29674/24401 |website=shamela.ws |access-date=2023-07-26}}</ref>ながら研究に没頭したという。
『光学の書』では、イブン・ハイサムは[[大気]]の密度とそれが[[標高]]に関係していることについて議論している。また大気中での光の屈折についても研究している。彼は日の出前の[[薄明]]や日没後の[[薄暮]]は、太陽が[[水平線]]の下19度の位置にある部分から上で起こる事を発見し、これに基づき大気の高さを計測しようとした。彼はまた物質同士の[[引力]]の理論についても論じ、[[加速度]]の大きさは[[重力]]に関係があることに気付いていたと思われる。その他、彼は動物の[[進化]]についても論じている。


外出禁止期間中に研究のための十分な時間を得て、光学、数学、物理学、薬学、および学問の分類や研究手法に関する多くの書物を著すに至った。『光学の書』もその中の一つであった。
彼の、後世の数学や物理学に対する功績は幅広い。数学では、[[代数学]]と[[幾何学]]の間につながりを作ったことで、[[解析幾何学]]の基礎を築いた。物理学では、彼は物の動きの研究を行い、運動は外からの力で止められるか運動の方向を変えられない限り永久に続くと主張した。これは後に[[ガリレオ・ガリレイ]]らが提唱し[[アイザック・ニュートン]]がまとめた[[運動の第1法則]]を先取りしたものだった。

=== 著作・成果 ===
後世に作成された彼の著作のリストをつきあせると、200弱のタイトルを数えることができ、そのうち60程度がアラビア語の写本又は断片で現存している。
その中で『<span lang="ar" dir="rtl">كِتَابُ الْمَنَاظِرِ</span>』(転写:Kitāb al-Manāẓir, キターブ・アル=マナーズィル, 実際の発音:kitābu-l-manāẓir, キターブ・ル=マナーズィル, 邦題:光学の書、[[1015年]] - [[1021年]])は特に重要な著書であり、[[12世紀]] の末から[[13世紀]]の中頃までの間に恐らくはスペインで[[ラテン語]]に翻訳され、[[ヘブライ語]]、およびイタリア語に訳された。
『光学の書』を併せて計3つの著作がラテン語訳された
<ref>残りの2つは天文学書『世界の配置』(Configuration of the World)と光学書『放物線鏡による集光』(On parabolic burning mirrors, Liber de speculis comburentibus)。Smith, 2001のIntroduction,1.Ibnal-Haytham: A Biobibliographic Sketch および http://www.jphogendijk.nl/ih/ibnalhaytham.html を参照</ref>。

[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の『光学』『アルマゲスト』など、[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]の光学・天文学・数学を批判的に継承し、画期的な成果を上げた。

=== 彼の名前を冠した施設など ===
彼の肖像は[[2003年]]、イラクの10,000[[イラク・ディナール|ディナール]]紙幣に登場したほか、[[テヘラン]]に本部を置く{{仮リンク|イラン原子力庁|en|Atomic Energy Organization of Iran}}にあるイラン最大の[[レーザー]]研究施設にも彼の名が冠されている。[[月のクレーター]]「{{仮リンク|アルハゼン (クレーター)|en|Alhazen (crater)|label=アルハゼン}}」のほか、[[小惑星]]59239「[[アルハゼン (小惑星)|アルハゼン]]」も彼を記念して名づけられた。

== 業績 ==
古代ギリシア的な自然に対するアプローチには、自然学によるものと数学的な諸学によるものがあった。後者は狭義の数学(幾何学、算術、代数)の他に天文学、[[光学]](視学)、[[和声]]学、[[静力学]](釣り合いの学)などを含んでいた。

イブン・ハイサムは後者の専門家で、狭義の数学のほか、光学(視学)、天文学、静力学(釣り合いの学)において大きな業績があった。特に、光学における業績で名高い。

自然学と数学的な諸学のアプローチは、対象は同じでも基本的には別のものとされた。例えば「天文学は天体の運行の幾何学的な側面に関する理論であって、その原因や本性については語らない」などとされた。イブン・ハイサムは高度な数学を駆使する一方、自然学的な問題意識も重視した。

=== 光学 ===
イブン・ハイサムは、古代以来バラバラに行われてきた光や視覚に関する研究を綜合し、深め、後世の光学の研究に決定的な影響を与えた<ref group="注">本節の記述は、断りのないかぎり、Smith 2001のintroduction, Lindberg 1976. 及び Raynoud 2016のintroduction及び Chapter 3による。なお、イブン・ハイサムまでの前史においては、古代末期やイスラム期の進展(6世紀の[[ヨハネス・ピロポノス]]や9世紀の[[キンディー]]など)も無視できない。</ref>。特に視覚が光によって引き起こされることを明らかにし、新たな解析手法(点解析{{Efn2|英語では the punctiform analysis<ref>Smith 2001及びLindberg 1976</ref> または the point analysis<ref>Raynoud, 2016</ref> とされる。}}を開発したことは大きな貢献であった。また、実験を効果的に多用した。屈折光学に関しては、近代以前では、数少ない包括的で信頼できる典拠の一つであった。

==== 古代の光と視覚の研究 ====
[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]において、光学(optica, 視学)は、[[ユークリッド]]や[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]らによって高度な幾何学的な理論となっていたが、主たる目的は視覚の説明であった。反射鏡で太陽光を一点に集める研究(焦鏡、[[ディオクレス]]([[:en:Diocles (mathematician)|英語版]])、[[トラレスのアンテミオス]])もあったが、それらは別の学問とされた。虹、暈などの[[大気光学現象]]は、気象学で扱われ、数学的な学問の専門家による研究は残っていない。

また、視覚の原因に於いては、光は主要な原因とはされなかった。まず、[[ユークリッド]]や[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]らの光学家は、眼から放出される「視線」が対象に到達して成立するとした([[外送理論]]([[:en:Emission theory (vision)|英語版]]))。ついで医学者[[ガレノス]]は、視覚論に眼や神経、脳の解剖学と生理学を始めて本格的に取り入れたが、彼の視覚論もまた、ある種の外送理論だった{{Efn2|これらの視線の理論の背景としては、プラトンやストア派の影響が考えられる<ref>Smith 2001, Rusell 1996などを参照。</ref>。プラトンの視線の理論については『[[ティマイオス]]』に詳しい<ref>『ティマイオス』[[田之頭安彦]]訳、[[岩波書店]]、[[1975年]][[9月13日]]、p195</ref>。}}。このほか、プラトンやストア派の哲学者たちを含め、外送理論が圧倒的な多数派であった。

一方、アリストテレスは「色」が空気などの媒体を介して感覚器眼に流入することで成立するとし<ref group="注">『[[霊魂論]]』『[[感覚と感覚されるものについて]]』など。ただしガレノスとは異なり、眼や神経の構造やそこにおける具体的なプロセスには触れない。</ref>、視線の理論を批判した。例えば「星にまで瞬時に届く視線を考えねばならないのは不自然」といった議論は、素朴ながら分かりやすい<ref>アリストテレス『感覚と感覚されるものについて』</ref>。また、古代において、初めてまとまった感覚の理論を展開し、プトレマイオスやガレノスにも影響を与えた。だが、視覚論についてはあまり賛同者はいなかった。なお、アリストテレスにおいては、「光」とは発光体の作用によって空気などの媒質が活性化された状況のことを指す<ref group="注">ただし、古代後期から末期にかけて、[[アフロディシアスのアレクサンドロス|アフロディシアスのアレキサンドロス]]や[[ヨハネス・ピロポノス|ピロポノス]]らの注釈家たちは、光源の作用はまず近辺の空気に作用し、ついで隣接する空気に作用し。。と直線状に効果が伝播するとした。この伝播はまず光源から視覚対象へ、ついで視覚対象から眼に至る。この経路は光学家の「視線」と同じコースを逆に辿るとして、光学家の理論とアリストテレス的な視覚論を折衷した。このほか、原子論者も独自の視覚論を立てており、主流とはならなかったものの、古代の著作家が視覚論を列挙する際には、外送理論と並んでしばしば言及されている。</ref>。

==== 視覚と光の関係 ====
イブン・ハイサムは古代の幾何学的な視覚論、とりわけ[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]『光学』を大いに利用しているが、「視線」の物理的な不自然さについては、[[アリストテレス]]の見解に同意した。しかしアリストテレスの視覚論にも与せず、光が物体の「色」を眼に届けるという、新たな理論を打ち出した{{Efn2|イブン・ハイサムの考えでは、「色は光とは別のものであって、各々の物体の性質の一つである」とされ、「光と合わさって物体から眼に伝搬する。また、光源が発する一次光(primary light)が不透明な物体に照射されると、一度すべて吸収され、あらたに二次光(secondary light)が生じる」とされた。「一次光と二次光は違ったもの」とされたので、反射や屈折などの法則はすべて各々別に確認されている<ref name="名前なし">Sabra, 2003</ref>。なお、現在では、色は光の性質である波長の反映であり、また一次光と二次光の区別は存在しない。}}。古代の主要な視覚論では、光は補助的な役割しか与えられなかったが、これによって光が視学で主要な場所を占めることになった。また、彼は、光線が視線と概ね同じ経路を逆向きに進むと結論し、古代の幾何学的な視覚論の成果を取り込むことができた。

また、光は視線と異なって煙や埃で経路を浮かび上がらせることができ、その性質を実験で多角的に調べることができた。例えば、外送理論への反論で、複数の視線が空気中で交錯した場合の効果を問題視する議論があった。光についても、似たような問題が考えられる。そこでイブン・ハイサムは、ロウソクから発せられる光を壁に開けた小さな穴で交じらわせたのちスクリーンに投影し、ロウソクが二本でも像は乱れないことを示した。そして、光が光源から四方に均等に放出されて直進するとして実験結果を説明した。これはカメラ・オブスクラの特殊な場合である。

視覚を光で説明した結果、古代の視覚論では問題にされなかった、眼における像の形成の問題が浮上した。光は独自の法則に従って直進するだけであるので、眼に入って適切な像を結ぶかどうかは全く自明ではない。

イブン・ハイサムは当時の[[ガレノス]]流の解剖学を参考にしてこの問題に取り組んだ。しかし、当時の眼の構造論は、この目的には全く不十分であった<ref group="注">[[フナイン・イブン・イスハーク]]の『眼科学についての十章』([[:en:Book of the Ten Treatises of the Eye|英語版]])などに依拠していると思われる。フナインの同書は水晶体を眼球の中央に据えた。これはガレノスが水晶体に視覚の機能の中核を担わせたからであり、眼の断面図と正面図を一枚の図で表すためにも都合がよかった。また、白内障が水晶体と角膜の間にある白濁と考えられたため、その外科手術の経験からも水晶体の位置はやや奥にあるとされていた。ただし、眼の様々な部分の形状や配列順序の記述はおおむね正しい。最終的に水晶体の位置が修正されるのは[[16世紀]]末で、ケプラーはこの成果を利用している。</ref>。彼の理論では、水晶体に光を屈折させるほかに水晶体の表面に垂直な光線のみを選ぶ役割を果たさせた。また、水晶体から網膜までのプロセスは、純粋に光学的な現象とはされなかった。正立像に準拠したことを含め、古代の視覚論の基本的な構造を保つ結果となった。

しかし、問題設定や分析の手法、特に点状解析は[[ヨハネス・ケプラー]]以降の視覚論でも継承される<ref>Russell 1996</ref>。また、眼に入射した光が屈折を経てから感知されることを証明するなど、鋭い見識を発揮しているところもある。証明の一環として、古代の視線の理論では説明できない現象を巧みな実験で示しており、彼はこの発見を視線の理論に対する、自らの理論の優位の根拠とした<ref name="名前なし"/>

==== 実験的手法 ====
イブン・ハイサムとそれ以前の光学研究の相違点の一つには、実験の効果的な多用がある。『光学の書』に記述される実験の数は[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]のそれよりも圧倒的に数が多く、ほぼ全ての重要な論点について一々実験的な証明を付けている。実験は、光の性質に関する、自然学的な議論を避けるための手段として多用された形跡がある。それゆえに論証のためのレトリックに過ぎず、実際には実験を実行していないのではないか、という疑念はある。例えば、後に述べる屈折の実験は、様々な困難が指摘されており、どこまで実際に実行したか疑問を持たれている。だが、提示されている実験の結果は、全て健全な結果を示しており、全てが思考実験であったとは考えられない。また、彼の実験的手法と近代的な実験科学の関係については様々な議論がある<ref group="注">Kheirandish, 2009の導入部分には、例えば、近代における「探求的な実験」は中世にはなく「検証的な実験」だけがあるといった主張が紹介されている。また、『光学の書』などにおいて、実験の数値的なデータが示されていることがないこと、用いられた機器が簡素であること(壁に穴をあけた暗い部屋など)であることは同書の翻訳Smith, 2001などで確認できる。さらにSmith, 2001のintroductionでは実験が圧倒的に数が多くかつ効果的に用いられていることを認めながら、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]『光学』ですでに実験が用いられていることを指摘。一方、Raynoud 2016では、『食の形について』の分析から、イブン・ハイサムの手法が近代的な実験科学の手法が満たすべき様々な基準をみたしているとする。またSabra 1994やRaynoud 2016は用語の分析から、プトレマイオスの天文学における、データによる仮説の検証の影響を主張している。</ref>。

==== 点状解析 ====
彼の理論的な分析で鍵になったのは点状解析(point analysis) で、これは発光体やそれに照らされた物体の表面の各点から全方向に一様に光が放出され、眼の受光部の各点で感知されるとする。また、明るさは光線の密度に比例するとするとする<ref group="注">この手法は元々は9世紀の「アラブの哲学者」[[キンディー]]が視線の理論の改良のために開発したもので、イブン・ハイサムはそれを新たな光の理論に合わせて改変した上で洗練した。</ref>。

この理論の一つの著しい成果は[[カメラ・オブスクラ]](ピンホールカメラ)ある<ref group="注">最も古いこの現象の記述は古代中国の『[[墨子]]』に見える。簡潔な文章の中に像の反転など重要なポイントを的確に指摘している。</ref>。古代から、穴の形が映される像にほとんど影響しないことが難問としてして指摘されていたが{{Efn2|[[アリストテレス]]の名を冠した古代の『[[問題集 (アリストテレス)|問題集]]』には木の葉の隙間から洩れた光の像が穴の形に従わずに太陽の形になり、日食時にはその欠ける様も反映されることを指摘している。また、網篭の四角形の隙間から洩れる光の像が丸みを帯びることも指摘している。共に穴の形と映される像の関係についての問題である<ref>Raynaud, 2016 などを参照。</ref>。同書では月の場合は満ち欠けが象に反映されないとしている。なお、穴が点で近似できるほど小さいカメラ・オブスクラについては、ラテン語訳された『光学の書』にもやや詳しく述べられており、アリストテレスの名を冠した『問題集』などとともに欧州での研究の出発点になっている。}}、それに明快な答えを出したのがイブン・ハイサムの『日食の形について』という論考である<ref group="注">穴が円形の場合については詳しく述べ、それ以外の形の穴の場合は同様の解析が可能であることと結論だけを述べている。この詳細も含めて詳しく明らかにしているのは、後に述べるal-Farisiである。彼は実験においても飛ぶ鳥を映しだすなどより進歩している。</ref>。本書が伝わらなかった欧州では、この問題の扱いについて当初は迷走し{{Efn2|13世紀の後半、[[ロジャー・ベーコン]]ら欧州の錚々たる光学家たちがこの問題について迷走した<ref>Lindberg 1968を参照。</ref>。Pechamは彼の手になる光学書で「光は丸くなる傾向がある」などとし、カメラ・オブスクラの現象と光の直進性が両立しうるか疑問を呈した。}}、イブン・ハイサムの水準に到達したのは、16〜17世期のケプラーや[[マウリョリコ]]であった{{Efn2|なお、イスラム世界においては、14世紀初頭にal-Fārisī([[:en:Kamāl al-Dīn al-Fārisī|英語版]])がイブン・ハイサムの研究を実験・理論双方において深めている。欧州においても14世紀にポーランドのEgidius of Baisiuとフランス南部のユダヤ人学者[[ゲルソニデス]]が正しい方向に向かった理論的な考察をしており<ref>ゲルソニデスについては Goldstein B.R. (1985) The Astronomy of Levi ben Gerson (1288–1344). A Critical Edition of Chapters 1–20 with Translation and Commentary. Springer に詳しい。</ref>、後者はそれを太陽の視半径の観測に応用していた。ただし、それらもまだ不完全な点が多々あり、また広く知られることはなかった<ref>Raynaud 2016 参照。</ref>。}}。

==== 反射と屈折 ====
古代の幾何学的な視覚の理論の重要な話題に、反射や屈折による像の反転や変形の問題があった。これらの問題において、イブン・ハイサムは幾何学者としての手腕を余すことなく発揮している。

まず反射光学([[:en:Catoptrics|catoptrics]])では、球面鏡での反射に関する「アルハーゼンの問題」<ref group="注">この呼び名は17世紀欧州に由来する。現在は最初に問題を提出したプトレマイオスの名も併せて冠することがある。</ref>([[:en:Alhazen's problem]]、[[アルハゼンの定理]])の円錐曲線を用いた解の構成方法を与え{{Efn2|Smithも指摘しているように、本問題のレビューの多くが混乱している<ref>Smith,2008 を参照。</ref>。}}、この解を用いて球面鏡、円筒鏡および円錐鏡による像を解析した。なお、イブン・ハイサム自身は代数学と幾何的に未知な量を求める問題を別の分野の学問と考えており、この問題は純粋に幾何学的に扱っている。この「アルハーゼンの問題」は17世紀欧州の数学者たちの興味を引き、[[クリスティアーン・ホイヘンス|ホイヘンス]]が非常にエレガントな別解を与えている{{Efn2|本問題の代数的な側面は、現代でも趣味的で周辺的ななテーマとしてではあるが、一定の興味を引いている<ref>Smith,2018および[[:en:Alhazen's problem]]などを参照。</ref>。}}。

屈折光学に於いては、入射角と屈折角の間に成り立つ定性的な関係や不等式をいくつか提示し、それらに基づいて巧妙に球面レンズによる像の拡大や収差などの、光の経路の幾何学的な性質を詳しく論じている<ref>Rashed, 1996</ref>。これらの洗練された理論は、のちにTheodoric of Freiberg([[:en:Theodoric of Freiberg|英語版]])やal-Fārisī([[:en:Kamāl al-Dīn al-Fārisī|英語版]])の虹の研究の土台になる。

屈折の法則の実験的な研究は、彼の主要な業績として紹介されることがある。しかし、彼の実験のスキームには様々な難点が指摘されており、十分な精度は得られなかったと思われ、実際には実施しなかったとする見解もある{{Efn2|Smith自身はこの実験は行われなかったと推測している<ref>Smith, 2010, vol.1 pp. liii-lvi を参照。</ref>。}}。『光学の書』には、実験の結果の記載はなく、理論で用いている関係式や数値は、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]『光学』の屈折についての数表と整合的である。ただし、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の実験が本質的に視線の屈折を対象にしているのに対して、イブン・ハイサムは光線の入射角や屈折角の直接の計測を意図している点は新しい。なお、プトレマイオスの数表は現代の屈折の理論の良好な近似になっており、イブン・ハイサムの用いた関係式や結論も概ね正しい。

また、イブン・ハイサムの屈折光学は、近代以前に於いては突出していることは事実である。古代でも中世でも、彼以前は、[[イブン・サフル]]([[:en:iIbn Sahl (mathematician)|英語版]])を例外として、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]『光学』はあまり用いられず、屈折と反射の概念上の区別すら曖昧で、混乱した記述が多くなされていた。彼の『光学の書』は、屈折光学の信頼できる希少な典拠であった。

地平線近辺で天体が拡大されて見える「月の錯視」を地表面近くの水蒸気を多く含んだ大気による屈折と、心理学的な効果の双方で説明しようとした{{Efn2|彼のこれらの説明は今は誤りであることが示されている<ref>Smith 2010, vol. 2の注193と194を参照。</ref>。}}。

==== 扱われた問題の範囲 ====
『光学の書』で扱われた題材は、概ね古代の光学(幾何学的な視覚論、視学)の範囲を超えない。実際、眼の構造論を除けば、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]『光学』と構成を含め、大きく重なる。反射や屈折の問題に於いても、最後は視覚への影響が問題とされる。

それら以外の問題、例えば鏡やレンズによる集光<ref group="注">それらの中で『放物線鏡による集光』はラテン語訳され広く読まれた。これは紀元前2-3世紀の数学者Dioclesの放物線鏡に関する『集光鏡について』の写本において、証明が完全に欠落していたのを補ったものである。また『球面レンズによる集光』は後に述べるal-Farisiによって発展され、虹の研究に生かされた</ref>、そして、[[アリストテレス]]『気象論』以来、主に気象論の対象だった[[虹]]、[[暈]]について、各々論考を著している{{Efn2|『虹と暈について』において、雲全体が一つの球面鏡を成すとして光の反射の法則を用いて虹の形状を説明した<ref>Sabra, 1983, vol 2., page xlvi</ref>。勿論この理論は今日において正しくない。}}。なお、日の出前の[[薄明]]や日没後の[[薄暮]]から大気の高さを推測した書『Liber de crepusculis』は彼の名でラテン世界に流通し、今でもイブン・ハイサムに帰する記述があるが、これは12世紀のスペインのイスラム圏の天文学者・数学者 Ibn Muʿādh al-Jayyānī([[:en:Ibn Muʿādh al-Jayyānī]])の著作である<ref>Smith,2001などを参照。また、 Goldstein, B. (1977). Ibn Muddādh's Treatise On Twilight and the Height of the Atmosphere. Archive for History of Exact Sciences, 17(2), 97-118も参照。</ref>。

このように、イブン・ハイサムの研究はそれまで別個に扱われてきた光や視覚に拘わる様々なテーマを網羅しており、単なる視覚論から脱却した新たな光学の出発を予感させる<ref name="名前なし-2">Rashed, 2016</ref>。一方、古代の「光学」に属しないテーマは、一部の例外(光の性質を扱う第一巻三章など)を除いて、『光学の書』以外の著作でカバーしていることは注意すべきである{{Efn2|Sabra, 1989による。ただし、Rashedは『光学の書』の反射や屈折を扱った部分のかなりの部分が、問題の記述こそ形式的に視覚をもちだすものの、実質的には光そのものの研究であるとしている<ref name="名前なし-2"/>。}}。

==== 影響 ====
イブン・ハイサムののち、暫くの間はその光学研究を継承するものはあまり現れなかった。特に東方イスラム世界においては言及自体が稀で{{Efn2|スペインの西方イスラム世界では多少様子が異なる<ref>Sabra 2008.</ref>。}}、14世紀初頭になって初めてal-Fārisī([[:en:Kamāl al-Dīn al-Fārisī|英語版]])が『光学の書』に着目する。彼は注釈書Kitab Tanqih al-Manazir (The Revision of the Optics)を著し、イブン・ハイサムの光学関連の著作も「一連のテーマである」として添付した。「光」を主軸とした学問としての「光学」が明瞭に意識されていることがわかる<ref>Sabra, 1989</ref>。またal-Fārisī自身の独創的な研究も含めた。特に、その虹の研究は、イブン・ハイサムの屈折光学を発展させたもので、デカルト以前ではもっとも優れたていた<ref>Sabra, 1989, Rashed 1996</ref>。このal-Fārisīの著作はイスラム圏における光学の標準的な書物となったが、その後、同書を超える成果は現れなかった。

一方ラテン西欧では、al-Fārisīに先立って『光学の書』({{仮リンク|光学の書|en|Book of Optics}})は13世紀の中頃から深く研究されるはじめる。中世の大科学者[[ロジャー・ベーコン]]の光学研究は同書の強い影響下にあり、[[ウィテロ]], Pecham([[:en:John Peckham|英語版]]),[[フライベルクのデートリッヒ]]([[:en:Theodoric of Freiberg|英語版]])といった光学理論家らが後に続いた。1250-1400年までの間には多くの写本がつくられた形跡があり、この間、14世紀には俗語であるイタリア語にも翻訳され、絵画理論家たちにも利用された。その後、本書から発展した光学書が流布したこともあり下火になるが、1572年に出版されたRisner ([[:en:Friedrich Risner]])の『Opticae Thesaurus』に改訳が収録され<ref group="注">他にウィテロのPerspectiva, Ibn Muʿādh al-JayyānīのLiber de crepusculis が収録されている。</ref>、これが広く流布することになる。

16世紀の終わりには、解剖学の進歩や数学的な知識の深化に支えられ、[[ヨハネス・ケプラー]]によってイブン・ハイサムの視覚論は大幅に書き換えられる。しかし、そもそも眼を光学機器として見る必要性の認識や、各点から全方位に射出される光を追いかけるという解析は、元々はイブン・ハイサム由来である<ref>Smith, 2001</ref>。その後光学は新たな段階に入るが、[[ルネ・デカルト|デカルト]]においても若干の影響がみられる。
===静力学および動力学 ===
現存はしないものの、イブン・ハイサムは静力学の書を著しており、11-12世紀の[[アブドゥッラフマーン・ハーズィニー|ハーズィニー]]の 『釣り合いの書』{{transl|ar|Kitāb mīzān al-ḥikma}} に内容の紹介がある。ただし、このレビューは、[[アブー・サフル・アル=クーヒー]]の理論とイブン・ハイサムの理論を一体のものとして紹介しており、両者の差異はこれからは明らかではない。

このハーズィニーの要約によれば、物体が地球の中心(当時においては宇宙の中心)に向かう傾向性である[[重さ]](thiql)を、秤ではかることが出来て場所に依存せずに決まる量waznから区別した。この「重さ」は物体の場所に依存する。例えば、梃の支点においては「重さ」は無く、支点からの距離に比例して増加する(これは梃の原理と整合する)。これを地球の中心を梃の支点に見立てるアナロジーから、「重さ」は地球の中心からの距離に依存するとした。この理論では、地球の中心では「重さ」は無くなる<ref>Abattouy, 2002, Rozhanskaya, M, 1996</ref>。

また、彼の『光学の書』では、光の反射や屈折を投射体の運動との比喩で説明している。その際、球体と壁の衝突をやや細かく分析しているが、運動を壁に垂直な方向と水平な方向に分けて各々分析したあとに重ね合わせる議論の流れは、近代的な雰囲気が漂う<ref>Smith, 2001, Sabra,1989</ref>。まず、壁に垂直な成分は、壁に直角に球体を落としたりぶつけた場合と同様の運動になり、衝突の前後で速さは不変で向きが反転する。壁に平行な成分は、何も妨げのない運動と同じで、直進を続ける。これらの合成として、球体の反発が説明れる。ただし、以上は球体の重量を無視した分析であるとし、実際には重さの効果で上記の進路からそれるとする。この分析をもって、近代力学の諸概念を先取りしていたかのような解説がされることもあるが、彼の議論は概ね中世的な[[インペトゥスの理論]]([[:en:Theory of impetus|英語版]])の枠内で理解できるものである。

このように光の反射や屈折を投射体の運動とのアナロジーで説明する理論は、『光学の書』に影響を受けた欧州中世の光学研究家が熱心に取り組んだところであり、[[ルネ・デカルト]]や[[アイザック・ニュートン]]の反射や屈折の力学的な説明もそのような伝統の中で理解することができる。

===天文学===
天文学の著作としては、『世界の配置』(“Configuration of the World”)と『プトレマイオスへの懐疑』(Doubts on Ptolemy)が重要である。

前者は当時の[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]的な天文学のモデルに基づいて、天球の三次元的な構造を描き出したもので、数学はおろか数値すらもほとんど現れず、非常に初等的に書かれている。[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]は円運動の組み合わせで惑星の複雑な運動を近似して見せたが、本書では、[[アリストテレス]]的な考えに基づき、それらの円に透明な硬い球体という、物理的な実体を与えている。ヘブライ語やラテン語に訳され、両者ともよく読まれたが、特に前者は広く読まれた。

後者は、プトレマイオスの3つの著作『[[アルマゲスト]]』『惑星仮説』『光学』の問題点を列挙したものである。『惑星仮説』への批判は、主に『[[アルマゲスト]]』との齟齬に関する点である。『[[アルマゲスト]]』批判では、理論の中で重要な役割を果たしている[[エカント]]やprosneusis、[[黄道座標|黄緯]]のモデルへの批判を述べた部分が歴史上重要である。これらの数学的なモデルが、硬い球体の等速回転という物理的な描像に馴染まないことが批判の根拠である。

[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]理論の問題点は、『[[アルマゲスト]]』でも一部告白されており、古代末期から中世にかけて、様々な批判があった。イブン・ハイサムの議論は、特に新規な点はなかったが、本書を含めた一連の著作で問題を包括的にそして徹底的に掘り下げたため、よく取り上げられた。この後、東方イスラム世界においてはマラーガ学派の革新的な数理天文学が生まれ、またスペインの西方イスラム世界に於いては[[イブン・ルシュド]]や[[アルペトラギウス|アル・ビトゥルージ]]らが独自の天文学改革を志向した。このどちらにおいても、イブン・ハイサムの著作は参照されている。西方イスラム世界のこの議論は[[イブン・ルシュド]]のアリストテレスの著作への注釈を介してラテン欧州にも広く知られ、コペルニクスも言及している。一方、マラーガ学派の数理モデルとコペルニクスのそれは様々な類似が指摘される<ref>Saliba, George Islamic Science and the Making of the European Renaissance, MIT Press, 2007 </ref>。

また、光学と天文学の中間にあたる著作として『月の模様について』『天の川について』といった論考がある。
アリストテレス的な宇宙観によれば、天体の組成は均一でその形状は完全な球であるとされる。これに一見して矛盾するように思われるのが、均質な球であるべき月の滲みのような模様であり、また不定形に見える天の川であった。

当時、月の模様に関しては、①地球との中間点にある何者かである②月の表面が鏡のように地表面の何かを映している、といったアリストテレス説擁護があったが、『月の模様について』で彼は、光学研究に基づいた知見を援用してそれらを論駁し、月そのものが不均一であるとしている<ref>鈴木 1992</ref>。

また、天の川についてはアリストテレスは、大気上層部の現象だとしている。これに対しては古代の[[ヨハネス・ピロポノス]]などから「気象現象にしては形が一定すぎる」といった反論があったが、データに基づいた緻密な検討はなかった。『天の川について』では、プトレマイオスと自らの観測データを併せて用いて、天の川の視差(場所による見える角度のずれ)を吟味し、月よりも(おそらくは非常に)遠くにあるとしている<ref>Eckart 2018</ref>。

=== 数学 ===
数学においては、主に幾何学の分野に功績を残し、代数学にはあまり関与していない。特に、アポロニウスやアルキメデスの仕事を発展させ、円錐曲線論および図形の面積や立体の体積の求積<ref>Rashed, R., 2013</ref>において重要な業績をのこしている。

=== ナイル川治水構想 ===
イブン・ハイサムが実現不可能だと悟り狂気を装う原因となった堰の建設計画だが、現代のエジプトではこのナイル治水構想が[[アスワン・ハイ・ダム]]計画に通じるアイデアだったと評価<ref name=":1" />されている。イブン・ハイサムが現場を視察していない段階で堰を作るべき場所として目星をつけた地域はアスワン・ハイ・ダムの場所とほぼ一致しており、彼の洞察力と知識の確かさを裏付けるものだという。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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=== より詳しい文献 ===
=== より詳しい文献 ===
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* 鈴木孝典, 月の模様に関するアラビアの論考 : イブン・アル=ハイサムの『月の模様について』, 東海大学紀要. 開発工学部 創刊号, 27-44, 1992-03-30


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* [http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Al-Haytham.html O'Connor, John J.; Edmund F. Robertson "Ibn al-Haitham". MacTutor History of Mathematics archive.]
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* http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/Mathematicians/Al-Haytham.html
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* [http://encarta.msn.com/encyclopedia_761579452/Alhazen.html Alhazen article on Encarta]
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* [http://scienceworld.wolfram.com/biography/Alhazen.html Eric W. Weisstein, Alhazen (ca. 965-1039) at ScienceWorld.]
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* [http://www.unesco.org/science/infocus_full_oct_05.shtml#1 The Miracle of Light - a UNESCO article on Ibn Haitham]
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* [https://www.jphogendijk.nl/ibnalhaytham.html 現存するイブン・ハイサムの著作]


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2024年8月17日 (土) 16:29時点における最新版

イブン・ハイサムのイメージ像

イブン・ハイサムابن الهيثم, Ibn al-Haytham もしくは Ibn al-Haitham, イブン・アル=ハイサム, ラテン名: アルハゼン)は、イスラム圏の数学者天文学者物理学者医学者哲学者音楽学者[1]965年 - 1040年)。

イブン・ハイサムは光学の諸原理の発見と科学実験手法の発展に対し、近代科学へ重要な貢献をした人物である。また彼が残した光学に関する書物、レンズを使った屈折反射の実験などから「光学の父」ともみなされている。「アルハゼンの定理」や月のクレーターアルハゼン英語版」は彼にちなむ。

名前

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フルネームはアブー・アリー・アル=ハサン・イブン・アル=ハサン・イブン・アル=ハイサム(Abū ‘Alī al-Ḥasan ibn al-Ḥasan ibn al-Haytham, أبو علي الحسن بن الحسن بن الهيثم)で、直訳は「アリーの父こと、アル=ハイサムの息子(≒アル=ハイサム家の者)であるアル=ハサンの息子たるアル=ハサン」。

日本語では「イブン・アル=ハイサム」または定冠詞アル=を省いた「イブン・ハイサム」表記が多く見られる。

西洋ではファーストネームであるアル=ハサンのラテン語風発音であるアルハゼンアルハーゼン(Alhacen 、Alhazen)の名で知られていた。ただし本名に関しては異説があり、アル=ハサンではなくムハンマドとも言われている[2]

イラクの都市バスラ出身であったことから「アル=バスリー」(al-Baṣrī, البصري, 「バスラ出身の(人)」の意)とも呼ばれていた。

なお「イブン・アル=ハイサム」は学者本人のファーストネームやその父の名前だと言われている「アル=ハサン」ではなくアラブ世界で多用される出自表示方法で、名字に相当する部分を「イブン・アル=ハイサム」という形式で表現しているもの。「アル=ハイサムの息子」という直訳になるがここではイブンは実父以外の先祖の名前が入る事例であり、アル=ハイサムは実父ではなく数代前の祖先の名前[2]で、「アル=ハイサム家(出身者)」といった意味で使われる家名・名字相当部分となっている。

生涯

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1572年にラテン語に翻訳されたイブン・ハイサム(アルハゼン)の書 Thesaurus opticus (光学の書)の表紙。太陽光を集めてシラクサ沖の軍艦を燃やすアルキメデスの装置が描かれている

イブン・ハイサムは光学理論の研究、および科学研究の実践や手法に関して重大な貢献をした、史上最も偉大な科学者の一人である。

イブン・ハイサムの伝記には不明な部分が多い[3]。彼はアッバース朝時代の965年にバスラで生まれた。父親は官吏を務めており、息子に地元バスラにて十分な教育を受けさせた[4]という。

彼はバグダードで学業を修了しバスラでカーディー(裁判官)となったが、当時吹き荒れていた宗教対立・抗争の嵐の中で職を辞し学者の道へと転向。資料によっては父方おじから医学を学び[5]医師兼官吏として宮廷で仕官していた[6]ともされている。

イラクもしくはシャーム(現在のシリア近辺)にいた頃にナイル川止水堰構想を伝え聞いたファーティマ朝カリフのハーキムによりエジプトカイロへ招聘され移住。同地でそのまま暮らし1040年に死去、埋葬されたものと見られる。

ファーティマ朝カリフによるエジプト招聘

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後世の伝記によれば、学芸を保護する一方冷酷な奇人としても知られたエジプトのファーティマ朝の第6代カリフハーキムによってカイロに招かれた。イブン・ハイサムが毎年氾濫を起こすナイル川治水実現に結びつく科学的見解ーアスワンに堰を作ればナイル川の流量を調節し、氾濫期か渇水期かにかかわらず水を供給できるようになるーを明らかにしたと伝え聞いたハーキムの強い希望によるものだった[7]という。

ハーキムはカイロ郊外の(アル=)ハンダクと呼ばれた地でイブン・ハイサムを迎え、彼のために用意した住居まで同行。生活や警護などの援助を提供[8]し、公的な地位も与えた[9]

カリフの意向を聞いたイブン・ハイサムは技術者らとナイル川を遡上しながら見て回ることにしたが、現地調査の結果自身が立てた治水構想を実現に移すことは不可能であると判断。古代エジプトに建設された数々の遺跡とその技術力、滝があるアスワン付近の難しい地形、祖国を流れるティグリス川・ユーフラテス川とは異なる荒々しいナイル川の実際の流れを目にして、自分がエジプトの地を踏まないまま机上で生み出した推論と当時の技術力ではナイル川を治めるには足りなかったと悟ったからだとも伝えられ[7]ている。

治水事業を約束した形で出立したもののそれが無理だったと悟ったイブン・ハイサムは、アスワンから戻った後にハーキムに謝罪[10]。ハーキムは自身の理論に不備があったことを正直に認めた[11]イブン・ハイサムをその場で処刑したり国外追放したりすることはせず、謝罪を受け入れ実現が不可能である理由にも納得したように見受けられ、それなりの公職を改めて与えた。これについてはイブン・ハイサムが他国の為政者によってその才能を活用されることを防ぎ手元に置いておく目論見もあったのではないかと論じる説、シーア派であるファーティマ朝支配下にあるカイロが過ごしやすかったためイブン・ハイサム自身がそのまま逗留することを選んだのではないかといった見方もあるという[10]

ハーキムの真意は了解とは程遠いのではないかと考えたイブン・ハイサムはカリフの気まぐれと翻意によって殺害されることを恐れ[12]、自らが置かれた不安定な状況と慣れない官吏職から唯一逃れられる方法としてイスラーム法上責任を問われず死刑から免れることのできる狂人になったかのようにふるまうことを選択した。

狂気を装ったものの結局は公職を剥奪。財産や書籍などの所持品も没収[13]され、ハーキムが1021年に謎の死を遂げるまで自宅軟禁生活を送った[4]。ハーキムによって監視の使用人をつけられていたことから狂人になったふりはハーキムが死去するまでの約10年間にわたって続けざるを得ず、カリフ死去後にようやく正気に戻ったふりができるようになり学究生活を公然と行うようになった。

軟禁されていた自宅からアズハルモスクのそばに転居。アズハル学院で講義を行い複数の学者らが彼の元で巣立っていった。また生活が楽でなかったことからエウクレイデスやプトレマイオス(著『アルマゲスト』)といった書籍の写本・翻訳などを行うなどして生計を立て[14]ながら研究に没頭したという。

外出禁止期間中に研究のための十分な時間を得て、光学、数学、物理学、薬学、および学問の分類や研究手法に関する多くの書物を著すに至った。『光学の書』もその中の一つであった。

著作・成果

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後世に作成された彼の著作のリストをつきあせると、200弱のタイトルを数えることができ、そのうち60程度がアラビア語の写本又は断片で現存している。 その中で『كِتَابُ الْمَنَاظِرِ』(転写:Kitāb al-Manāẓir, キターブ・アル=マナーズィル, 実際の発音:kitābu-l-manāẓir, キターブ・ル=マナーズィル, 邦題:光学の書、1015年 - 1021年)は特に重要な著書であり、12世紀 の末から13世紀の中頃までの間に恐らくはスペインでラテン語に翻訳され、ヘブライ語、およびイタリア語に訳された。 『光学の書』を併せて計3つの著作がラテン語訳された [15]

プトレマイオスの『光学』『アルマゲスト』など、古代ギリシア古代ローマの光学・天文学・数学を批判的に継承し、画期的な成果を上げた。

彼の名前を冠した施設など

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彼の肖像は2003年、イラクの10,000ディナール紙幣に登場したほか、テヘランに本部を置くイラン原子力庁英語版にあるイラン最大のレーザー研究施設にも彼の名が冠されている。月のクレーターアルハゼン英語版」のほか、小惑星59239「アルハゼン」も彼を記念して名づけられた。

業績

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古代ギリシア的な自然に対するアプローチには、自然学によるものと数学的な諸学によるものがあった。後者は狭義の数学(幾何学、算術、代数)の他に天文学、光学(視学)、和声学、静力学(釣り合いの学)などを含んでいた。

イブン・ハイサムは後者の専門家で、狭義の数学のほか、光学(視学)、天文学、静力学(釣り合いの学)において大きな業績があった。特に、光学における業績で名高い。

自然学と数学的な諸学のアプローチは、対象は同じでも基本的には別のものとされた。例えば「天文学は天体の運行の幾何学的な側面に関する理論であって、その原因や本性については語らない」などとされた。イブン・ハイサムは高度な数学を駆使する一方、自然学的な問題意識も重視した。

光学

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イブン・ハイサムは、古代以来バラバラに行われてきた光や視覚に関する研究を綜合し、深め、後世の光学の研究に決定的な影響を与えた[注 1]。特に視覚が光によって引き起こされることを明らかにし、新たな解析手法(点解析[注 2]を開発したことは大きな貢献であった。また、実験を効果的に多用した。屈折光学に関しては、近代以前では、数少ない包括的で信頼できる典拠の一つであった。

古代の光と視覚の研究

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古代ギリシア古代ローマにおいて、光学(optica, 視学)は、ユークリッドプトレマイオスらによって高度な幾何学的な理論となっていたが、主たる目的は視覚の説明であった。反射鏡で太陽光を一点に集める研究(焦鏡、ディオクレス英語版)、トラレスのアンテミオス)もあったが、それらは別の学問とされた。虹、暈などの大気光学現象は、気象学で扱われ、数学的な学問の専門家による研究は残っていない。

また、視覚の原因に於いては、光は主要な原因とはされなかった。まず、ユークリッドプトレマイオスらの光学家は、眼から放出される「視線」が対象に到達して成立するとした(外送理論英語版))。ついで医学者ガレノスは、視覚論に眼や神経、脳の解剖学と生理学を始めて本格的に取り入れたが、彼の視覚論もまた、ある種の外送理論だった[注 3]。このほか、プラトンやストア派の哲学者たちを含め、外送理論が圧倒的な多数派であった。

一方、アリストテレスは「色」が空気などの媒体を介して感覚器眼に流入することで成立するとし[注 4]、視線の理論を批判した。例えば「星にまで瞬時に届く視線を考えねばならないのは不自然」といった議論は、素朴ながら分かりやすい[20]。また、古代において、初めてまとまった感覚の理論を展開し、プトレマイオスやガレノスにも影響を与えた。だが、視覚論についてはあまり賛同者はいなかった。なお、アリストテレスにおいては、「光」とは発光体の作用によって空気などの媒質が活性化された状況のことを指す[注 5]

視覚と光の関係

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イブン・ハイサムは古代の幾何学的な視覚論、とりわけプトレマイオス『光学』を大いに利用しているが、「視線」の物理的な不自然さについては、アリストテレスの見解に同意した。しかしアリストテレスの視覚論にも与せず、光が物体の「色」を眼に届けるという、新たな理論を打ち出した[注 6]。古代の主要な視覚論では、光は補助的な役割しか与えられなかったが、これによって光が視学で主要な場所を占めることになった。また、彼は、光線が視線と概ね同じ経路を逆向きに進むと結論し、古代の幾何学的な視覚論の成果を取り込むことができた。

また、光は視線と異なって煙や埃で経路を浮かび上がらせることができ、その性質を実験で多角的に調べることができた。例えば、外送理論への反論で、複数の視線が空気中で交錯した場合の効果を問題視する議論があった。光についても、似たような問題が考えられる。そこでイブン・ハイサムは、ロウソクから発せられる光を壁に開けた小さな穴で交じらわせたのちスクリーンに投影し、ロウソクが二本でも像は乱れないことを示した。そして、光が光源から四方に均等に放出されて直進するとして実験結果を説明した。これはカメラ・オブスクラの特殊な場合である。

視覚を光で説明した結果、古代の視覚論では問題にされなかった、眼における像の形成の問題が浮上した。光は独自の法則に従って直進するだけであるので、眼に入って適切な像を結ぶかどうかは全く自明ではない。

イブン・ハイサムは当時のガレノス流の解剖学を参考にしてこの問題に取り組んだ。しかし、当時の眼の構造論は、この目的には全く不十分であった[注 7]。彼の理論では、水晶体に光を屈折させるほかに水晶体の表面に垂直な光線のみを選ぶ役割を果たさせた。また、水晶体から網膜までのプロセスは、純粋に光学的な現象とはされなかった。正立像に準拠したことを含め、古代の視覚論の基本的な構造を保つ結果となった。

しかし、問題設定や分析の手法、特に点状解析はヨハネス・ケプラー以降の視覚論でも継承される[22]。また、眼に入射した光が屈折を経てから感知されることを証明するなど、鋭い見識を発揮しているところもある。証明の一環として、古代の視線の理論では説明できない現象を巧みな実験で示しており、彼はこの発見を視線の理論に対する、自らの理論の優位の根拠とした[21]

実験的手法

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イブン・ハイサムとそれ以前の光学研究の相違点の一つには、実験の効果的な多用がある。『光学の書』に記述される実験の数はプトレマイオスのそれよりも圧倒的に数が多く、ほぼ全ての重要な論点について一々実験的な証明を付けている。実験は、光の性質に関する、自然学的な議論を避けるための手段として多用された形跡がある。それゆえに論証のためのレトリックに過ぎず、実際には実験を実行していないのではないか、という疑念はある。例えば、後に述べる屈折の実験は、様々な困難が指摘されており、どこまで実際に実行したか疑問を持たれている。だが、提示されている実験の結果は、全て健全な結果を示しており、全てが思考実験であったとは考えられない。また、彼の実験的手法と近代的な実験科学の関係については様々な議論がある[注 8]

点状解析

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彼の理論的な分析で鍵になったのは点状解析(point analysis) で、これは発光体やそれに照らされた物体の表面の各点から全方向に一様に光が放出され、眼の受光部の各点で感知されるとする。また、明るさは光線の密度に比例するとするとする[注 9]

この理論の一つの著しい成果はカメラ・オブスクラ(ピンホールカメラ)ある[注 10]。古代から、穴の形が映される像にほとんど影響しないことが難問としてして指摘されていたが[注 11]、それに明快な答えを出したのがイブン・ハイサムの『日食の形について』という論考である[注 12]。本書が伝わらなかった欧州では、この問題の扱いについて当初は迷走し[注 13]、イブン・ハイサムの水準に到達したのは、16〜17世期のケプラーやマウリョリコであった[注 14]

反射と屈折

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古代の幾何学的な視覚の理論の重要な話題に、反射や屈折による像の反転や変形の問題があった。これらの問題において、イブン・ハイサムは幾何学者としての手腕を余すことなく発揮している。

まず反射光学(catoptrics)では、球面鏡での反射に関する「アルハーゼンの問題」[注 15]en:Alhazen's problemアルハゼンの定理)の円錐曲線を用いた解の構成方法を与え[注 16]、この解を用いて球面鏡、円筒鏡および円錐鏡による像を解析した。なお、イブン・ハイサム自身は代数学と幾何的に未知な量を求める問題を別の分野の学問と考えており、この問題は純粋に幾何学的に扱っている。この「アルハーゼンの問題」は17世紀欧州の数学者たちの興味を引き、ホイヘンスが非常にエレガントな別解を与えている[注 17]

屈折光学に於いては、入射角と屈折角の間に成り立つ定性的な関係や不等式をいくつか提示し、それらに基づいて巧妙に球面レンズによる像の拡大や収差などの、光の経路の幾何学的な性質を詳しく論じている[29]。これらの洗練された理論は、のちにTheodoric of Freiberg(英語版)やal-Fārisī(英語版)の虹の研究の土台になる。

屈折の法則の実験的な研究は、彼の主要な業績として紹介されることがある。しかし、彼の実験のスキームには様々な難点が指摘されており、十分な精度は得られなかったと思われ、実際には実施しなかったとする見解もある[注 18]。『光学の書』には、実験の結果の記載はなく、理論で用いている関係式や数値は、プトレマイオス『光学』の屈折についての数表と整合的である。ただし、プトレマイオスの実験が本質的に視線の屈折を対象にしているのに対して、イブン・ハイサムは光線の入射角や屈折角の直接の計測を意図している点は新しい。なお、プトレマイオスの数表は現代の屈折の理論の良好な近似になっており、イブン・ハイサムの用いた関係式や結論も概ね正しい。

また、イブン・ハイサムの屈折光学は、近代以前に於いては突出していることは事実である。古代でも中世でも、彼以前は、イブン・サフル英語版)を例外として、プトレマイオス『光学』はあまり用いられず、屈折と反射の概念上の区別すら曖昧で、混乱した記述が多くなされていた。彼の『光学の書』は、屈折光学の信頼できる希少な典拠であった。

地平線近辺で天体が拡大されて見える「月の錯視」を地表面近くの水蒸気を多く含んだ大気による屈折と、心理学的な効果の双方で説明しようとした[注 19]

扱われた問題の範囲

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『光学の書』で扱われた題材は、概ね古代の光学(幾何学的な視覚論、視学)の範囲を超えない。実際、眼の構造論を除けば、プトレマイオス『光学』と構成を含め、大きく重なる。反射や屈折の問題に於いても、最後は視覚への影響が問題とされる。

それら以外の問題、例えば鏡やレンズによる集光[注 20]、そして、アリストテレス『気象論』以来、主に気象論の対象だったについて、各々論考を著している[注 21]。なお、日の出前の薄明や日没後の薄暮から大気の高さを推測した書『Liber de crepusculis』は彼の名でラテン世界に流通し、今でもイブン・ハイサムに帰する記述があるが、これは12世紀のスペインのイスラム圏の天文学者・数学者 Ibn Muʿādh al-Jayyānī(en:Ibn Muʿādh al-Jayyānī)の著作である[33]

このように、イブン・ハイサムの研究はそれまで別個に扱われてきた光や視覚に拘わる様々なテーマを網羅しており、単なる視覚論から脱却した新たな光学の出発を予感させる[34]。一方、古代の「光学」に属しないテーマは、一部の例外(光の性質を扱う第一巻三章など)を除いて、『光学の書』以外の著作でカバーしていることは注意すべきである[注 22]

影響

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イブン・ハイサムののち、暫くの間はその光学研究を継承するものはあまり現れなかった。特に東方イスラム世界においては言及自体が稀で[注 23]、14世紀初頭になって初めてal-Fārisī(英語版)が『光学の書』に着目する。彼は注釈書Kitab Tanqih al-Manazir (The Revision of the Optics)を著し、イブン・ハイサムの光学関連の著作も「一連のテーマである」として添付した。「光」を主軸とした学問としての「光学」が明瞭に意識されていることがわかる[36]。またal-Fārisī自身の独創的な研究も含めた。特に、その虹の研究は、イブン・ハイサムの屈折光学を発展させたもので、デカルト以前ではもっとも優れたていた[37]。このal-Fārisīの著作はイスラム圏における光学の標準的な書物となったが、その後、同書を超える成果は現れなかった。

一方ラテン西欧では、al-Fārisīに先立って『光学の書』(光学の書英語版)は13世紀の中頃から深く研究されるはじめる。中世の大科学者ロジャー・ベーコンの光学研究は同書の強い影響下にあり、ウィテロ, Pecham(英語版),フライベルクのデートリッヒ(英語版)といった光学理論家らが後に続いた。1250-1400年までの間には多くの写本がつくられた形跡があり、この間、14世紀には俗語であるイタリア語にも翻訳され、絵画理論家たちにも利用された。その後、本書から発展した光学書が流布したこともあり下火になるが、1572年に出版されたRisner (en:Friedrich Risner)の『Opticae Thesaurus』に改訳が収録され[注 24]、これが広く流布することになる。

16世紀の終わりには、解剖学の進歩や数学的な知識の深化に支えられ、ヨハネス・ケプラーによってイブン・ハイサムの視覚論は大幅に書き換えられる。しかし、そもそも眼を光学機器として見る必要性の認識や、各点から全方位に射出される光を追いかけるという解析は、元々はイブン・ハイサム由来である[38]。その後光学は新たな段階に入るが、デカルトにおいても若干の影響がみられる。

静力学および動力学 

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現存はしないものの、イブン・ハイサムは静力学の書を著しており、11-12世紀のハーズィニーの 『釣り合いの書』Kitāb mīzān al-ḥikma に内容の紹介がある。ただし、このレビューは、アブー・サフル・アル=クーヒーの理論とイブン・ハイサムの理論を一体のものとして紹介しており、両者の差異はこれからは明らかではない。

このハーズィニーの要約によれば、物体が地球の中心(当時においては宇宙の中心)に向かう傾向性である重さ(thiql)を、秤ではかることが出来て場所に依存せずに決まる量waznから区別した。この「重さ」は物体の場所に依存する。例えば、梃の支点においては「重さ」は無く、支点からの距離に比例して増加する(これは梃の原理と整合する)。これを地球の中心を梃の支点に見立てるアナロジーから、「重さ」は地球の中心からの距離に依存するとした。この理論では、地球の中心では「重さ」は無くなる[39]

また、彼の『光学の書』では、光の反射や屈折を投射体の運動との比喩で説明している。その際、球体と壁の衝突をやや細かく分析しているが、運動を壁に垂直な方向と水平な方向に分けて各々分析したあとに重ね合わせる議論の流れは、近代的な雰囲気が漂う[40]。まず、壁に垂直な成分は、壁に直角に球体を落としたりぶつけた場合と同様の運動になり、衝突の前後で速さは不変で向きが反転する。壁に平行な成分は、何も妨げのない運動と同じで、直進を続ける。これらの合成として、球体の反発が説明れる。ただし、以上は球体の重量を無視した分析であるとし、実際には重さの効果で上記の進路からそれるとする。この分析をもって、近代力学の諸概念を先取りしていたかのような解説がされることもあるが、彼の議論は概ね中世的なインペトゥスの理論(英語版)の枠内で理解できるものである。

このように光の反射や屈折を投射体の運動とのアナロジーで説明する理論は、『光学の書』に影響を受けた欧州中世の光学研究家が熱心に取り組んだところであり、ルネ・デカルトアイザック・ニュートンの反射や屈折の力学的な説明もそのような伝統の中で理解することができる。

天文学

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天文学の著作としては、『世界の配置』(“Configuration of the World”)と『プトレマイオスへの懐疑』(Doubts on Ptolemy)が重要である。

前者は当時のプトレマイオス的な天文学のモデルに基づいて、天球の三次元的な構造を描き出したもので、数学はおろか数値すらもほとんど現れず、非常に初等的に書かれている。プトレマイオスは円運動の組み合わせで惑星の複雑な運動を近似して見せたが、本書では、アリストテレス的な考えに基づき、それらの円に透明な硬い球体という、物理的な実体を与えている。ヘブライ語やラテン語に訳され、両者ともよく読まれたが、特に前者は広く読まれた。

後者は、プトレマイオスの3つの著作『アルマゲスト』『惑星仮説』『光学』の問題点を列挙したものである。『惑星仮説』への批判は、主に『アルマゲスト』との齟齬に関する点である。『アルマゲスト』批判では、理論の中で重要な役割を果たしているエカントやprosneusis、黄緯のモデルへの批判を述べた部分が歴史上重要である。これらの数学的なモデルが、硬い球体の等速回転という物理的な描像に馴染まないことが批判の根拠である。

プトレマイオス理論の問題点は、『アルマゲスト』でも一部告白されており、古代末期から中世にかけて、様々な批判があった。イブン・ハイサムの議論は、特に新規な点はなかったが、本書を含めた一連の著作で問題を包括的にそして徹底的に掘り下げたため、よく取り上げられた。この後、東方イスラム世界においてはマラーガ学派の革新的な数理天文学が生まれ、またスペインの西方イスラム世界に於いてはイブン・ルシュドアル・ビトゥルージらが独自の天文学改革を志向した。このどちらにおいても、イブン・ハイサムの著作は参照されている。西方イスラム世界のこの議論はイブン・ルシュドのアリストテレスの著作への注釈を介してラテン欧州にも広く知られ、コペルニクスも言及している。一方、マラーガ学派の数理モデルとコペルニクスのそれは様々な類似が指摘される[41]

また、光学と天文学の中間にあたる著作として『月の模様について』『天の川について』といった論考がある。 アリストテレス的な宇宙観によれば、天体の組成は均一でその形状は完全な球であるとされる。これに一見して矛盾するように思われるのが、均質な球であるべき月の滲みのような模様であり、また不定形に見える天の川であった。

当時、月の模様に関しては、①地球との中間点にある何者かである②月の表面が鏡のように地表面の何かを映している、といったアリストテレス説擁護があったが、『月の模様について』で彼は、光学研究に基づいた知見を援用してそれらを論駁し、月そのものが不均一であるとしている[42]

また、天の川についてはアリストテレスは、大気上層部の現象だとしている。これに対しては古代のヨハネス・ピロポノスなどから「気象現象にしては形が一定すぎる」といった反論があったが、データに基づいた緻密な検討はなかった。『天の川について』では、プトレマイオスと自らの観測データを併せて用いて、天の川の視差(場所による見える角度のずれ)を吟味し、月よりも(おそらくは非常に)遠くにあるとしている[43]

数学

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数学においては、主に幾何学の分野に功績を残し、代数学にはあまり関与していない。特に、アポロニウスやアルキメデスの仕事を発展させ、円錐曲線論および図形の面積や立体の体積の求積[44]において重要な業績をのこしている。

ナイル川治水構想

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イブン・ハイサムが実現不可能だと悟り狂気を装う原因となった堰の建設計画だが、現代のエジプトではこのナイル治水構想がアスワン・ハイ・ダム計画に通じるアイデアだったと評価[7]されている。イブン・ハイサムが現場を視察していない段階で堰を作るべき場所として目星をつけた地域はアスワン・ハイ・ダムの場所とほぼ一致しており、彼の洞察力と知識の確かさを裏付けるものだという。

参考文献

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  • Abattouy, Mohammed (2002), "The Arabic Science of weights: A Report on an Ongoing Research Project", The Bulletin of the Royal Institute for Inter-Faith Studies 4, p. 109-130
  • Lindberg, David C. Theories of Vision from al-Kindi to Kepler. Chicago: Univ. of Chicago Press, 1976. ISBN 0-226-48234-0
  • Sabra, A.I.: Optics, islamic. In: Strayer, J.R. (ed.) Dictionary of the Middle Ages, pp. 240–247. Scribner’s sons, New York (1989)
  • Russell GA (1996). The emergence of physiological optics. In: R Rashed (Ed.), The Encyclopedia of the History of Arabic Science. Routledge, London, pp. 672–716.
  • Omar, Saleh Beshara. Ibn al-Haytham's Optics: A Study of the Origins of Experimental Science. Minneapolis: Bibliotheca Islamica, 1977. ISBN 0-88297-015-1
  • Rashed, R. (1996). Geometrical optics. In R. Rashed & R. Morélon (Eds.), Encyclopaedia of the history of Arabic science (Vol. II). London/New York: Routledge.
  • Rashed R. (2016) Ibn al-Haytham’s Scientific Research Programme. In: Al-Amri M., El-Gomati M., Zubairy M. (eds) Optics in Our Time. Springer, Cham. https://doi.org/10.1007/978-3-319-31903-2_2
  • Rozhanskaya, M. (1996). Statics. In R. Rashed & R. Morélon (Eds.), Encyclopaedia of the history of Arabic science (Vol. II). London/New York: Routledge.

より詳しい文献

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  • Eckart, A. (2018). THE EARLY GREAT DEBATE: A COMMENT ON IBN AL-HAYTHAM‘S WORK ON THE LOCATION OF THE MILKY WAY WITH RESPECT TO THE EARTH. Arabic Sciences and Philosophy, 28(1), 1-30. doi:10.1017/S0957423917000078
  • Kheirandish, E. (2009). Footprints of "Experiment" in Early Arabic Optics. Early Science and Medicine, 14(1/3), 79-104. Retrieved October 14, 2020
  • Lindberg, D.C. The theory of Pinhole images from antiquity to the thirteenth century. Arch. Rational Mech. 5, 154–176 (1968).
  • Raynaud, Dominique. A Critical Edition of Ibn al-Haytham’s On the Shape of the Eclipse. 10.1007/978-3-319-47991-0 (2016).
  • Omar, Saleh Beshara. Ibn al-Haytham and Greek optics: a comparative study in scientific methodology. PhD Dissertation, Univ. of Chicago, Dept. of Near Eastern Languages and Civilizations, June 1975.
  • Rashed, R., Ibn al-Haytham and Analytical Mathematics A History of Arabic Sciences and Mathematics Volume 2, Routledge, 2013.
  • Sabra, A. I., trans. The Optics of Ibn al-Haytham. Books I-II-III: On Direct Vision. English Translation and Commentary. 2 vols. Studies of the Warburg Institute, vol. 40. London: The Warburg Institute, University of London, 1989. ISBN 0-85481-072-2, https://archive.org/details/TheOpticsOfIbnAlHaythamBooksI
  • Sabra, A. I., "The astronomical origin of Ibn al-Haytham’s concept of experiment," pp. 133-136 in Actes du XIIe congrès international d’histoire des sciences, vol. 3. Paris: Albert Blanchard, 1971; reprinted in A. I. Sabra, Optics, Astronomy and Logic: Studies in Arabic Science and Philosophy. Collected Studies Series, 444. Aldershot: Variorum, 1994 ISBN 0-86078-435-5
  • Sabra A.I. (2003) “ Ibn al-Haytham ’s Revolutionary Project in Optics: The Achievement and the Obstacle, ” Hogendijk J.P. and Sabra A.I., eds., The Enterprise of Science in Islam. Cambridge, MA: The MIT Press, pp. 85-118.
  • Smith, A. Mark, ed. and trans. Alhacen's Theory of Visual Perception: A Critical Edition, with English Translation and Commentary, of the First Three Books of Alhacen's De aspectibus, the Medieval Latin Version of Ibn al-Haytham's Kitāb al-Manāzir, 2 vols. Transactions of the American Philosophical Society, 91.4-5, Philadelphia, 2001. ISBN 0-87169-914-1
  • SMITH, A. (2008). ALHACEN’S APPROACH TO ‘‘ALHAZEN’S PROBLEM’’. Arabic Sciences and Philosophy, 18(2), 143-163. doi:10.1017/S0957423908000520
  • Smith, A. Mark, ed. and trans. Alhacen on Refraction: A Critical Edition, with English Translation and Commentary, of Book 7 of Alhacen's De aspectibus, 2 vols. Transactions of the American Philosophical Society, 91.4-5, Philadelphia, 2010.
  • 鈴木孝典, 月の模様に関するアラビアの論考 : イブン・アル=ハイサムの『月の模様について』, 東海大学紀要. 開発工学部 創刊号, 27-44, 1992-03-30

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 本節の記述は、断りのないかぎり、Smith 2001のintroduction, Lindberg 1976. 及び Raynoud 2016のintroduction及び Chapter 3による。なお、イブン・ハイサムまでの前史においては、古代末期やイスラム期の進展(6世紀のヨハネス・ピロポノスや9世紀のキンディーなど)も無視できない。
  2. ^ 英語では the punctiform analysis[16] または the point analysis[17] とされる。
  3. ^ これらの視線の理論の背景としては、プラトンやストア派の影響が考えられる[18]。プラトンの視線の理論については『ティマイオス』に詳しい[19]
  4. ^ 霊魂論』『感覚と感覚されるものについて』など。ただしガレノスとは異なり、眼や神経の構造やそこにおける具体的なプロセスには触れない。
  5. ^ ただし、古代後期から末期にかけて、アフロディシアスのアレキサンドロスピロポノスらの注釈家たちは、光源の作用はまず近辺の空気に作用し、ついで隣接する空気に作用し。。と直線状に効果が伝播するとした。この伝播はまず光源から視覚対象へ、ついで視覚対象から眼に至る。この経路は光学家の「視線」と同じコースを逆に辿るとして、光学家の理論とアリストテレス的な視覚論を折衷した。このほか、原子論者も独自の視覚論を立てており、主流とはならなかったものの、古代の著作家が視覚論を列挙する際には、外送理論と並んでしばしば言及されている。
  6. ^ イブン・ハイサムの考えでは、「色は光とは別のものであって、各々の物体の性質の一つである」とされ、「光と合わさって物体から眼に伝搬する。また、光源が発する一次光(primary light)が不透明な物体に照射されると、一度すべて吸収され、あらたに二次光(secondary light)が生じる」とされた。「一次光と二次光は違ったもの」とされたので、反射や屈折などの法則はすべて各々別に確認されている[21]。なお、現在では、色は光の性質である波長の反映であり、また一次光と二次光の区別は存在しない。
  7. ^ フナイン・イブン・イスハークの『眼科学についての十章』(英語版)などに依拠していると思われる。フナインの同書は水晶体を眼球の中央に据えた。これはガレノスが水晶体に視覚の機能の中核を担わせたからであり、眼の断面図と正面図を一枚の図で表すためにも都合がよかった。また、白内障が水晶体と角膜の間にある白濁と考えられたため、その外科手術の経験からも水晶体の位置はやや奥にあるとされていた。ただし、眼の様々な部分の形状や配列順序の記述はおおむね正しい。最終的に水晶体の位置が修正されるのは16世紀末で、ケプラーはこの成果を利用している。
  8. ^ Kheirandish, 2009の導入部分には、例えば、近代における「探求的な実験」は中世にはなく「検証的な実験」だけがあるといった主張が紹介されている。また、『光学の書』などにおいて、実験の数値的なデータが示されていることがないこと、用いられた機器が簡素であること(壁に穴をあけた暗い部屋など)であることは同書の翻訳Smith, 2001などで確認できる。さらにSmith, 2001のintroductionでは実験が圧倒的に数が多くかつ効果的に用いられていることを認めながら、プトレマイオス『光学』ですでに実験が用いられていることを指摘。一方、Raynoud 2016では、『食の形について』の分析から、イブン・ハイサムの手法が近代的な実験科学の手法が満たすべき様々な基準をみたしているとする。またSabra 1994やRaynoud 2016は用語の分析から、プトレマイオスの天文学における、データによる仮説の検証の影響を主張している。
  9. ^ この手法は元々は9世紀の「アラブの哲学者」キンディーが視線の理論の改良のために開発したもので、イブン・ハイサムはそれを新たな光の理論に合わせて改変した上で洗練した。
  10. ^ 最も古いこの現象の記述は古代中国の『墨子』に見える。簡潔な文章の中に像の反転など重要なポイントを的確に指摘している。
  11. ^ アリストテレスの名を冠した古代の『問題集』には木の葉の隙間から洩れた光の像が穴の形に従わずに太陽の形になり、日食時にはその欠ける様も反映されることを指摘している。また、網篭の四角形の隙間から洩れる光の像が丸みを帯びることも指摘している。共に穴の形と映される像の関係についての問題である[23]。同書では月の場合は満ち欠けが象に反映されないとしている。なお、穴が点で近似できるほど小さいカメラ・オブスクラについては、ラテン語訳された『光学の書』にもやや詳しく述べられており、アリストテレスの名を冠した『問題集』などとともに欧州での研究の出発点になっている。
  12. ^ 穴が円形の場合については詳しく述べ、それ以外の形の穴の場合は同様の解析が可能であることと結論だけを述べている。この詳細も含めて詳しく明らかにしているのは、後に述べるal-Farisiである。彼は実験においても飛ぶ鳥を映しだすなどより進歩している。
  13. ^ 13世紀の後半、ロジャー・ベーコンら欧州の錚々たる光学家たちがこの問題について迷走した[24]。Pechamは彼の手になる光学書で「光は丸くなる傾向がある」などとし、カメラ・オブスクラの現象と光の直進性が両立しうるか疑問を呈した。
  14. ^ なお、イスラム世界においては、14世紀初頭にal-Fārisī(英語版)がイブン・ハイサムの研究を実験・理論双方において深めている。欧州においても14世紀にポーランドのEgidius of Baisiuとフランス南部のユダヤ人学者ゲルソニデスが正しい方向に向かった理論的な考察をしており[25]、後者はそれを太陽の視半径の観測に応用していた。ただし、それらもまだ不完全な点が多々あり、また広く知られることはなかった[26]
  15. ^ この呼び名は17世紀欧州に由来する。現在は最初に問題を提出したプトレマイオスの名も併せて冠することがある。
  16. ^ Smithも指摘しているように、本問題のレビューの多くが混乱している[27]
  17. ^ 本問題の代数的な側面は、現代でも趣味的で周辺的ななテーマとしてではあるが、一定の興味を引いている[28]
  18. ^ Smith自身はこの実験は行われなかったと推測している[30]
  19. ^ 彼のこれらの説明は今は誤りであることが示されている[31]
  20. ^ それらの中で『放物線鏡による集光』はラテン語訳され広く読まれた。これは紀元前2-3世紀の数学者Dioclesの放物線鏡に関する『集光鏡について』の写本において、証明が完全に欠落していたのを補ったものである。また『球面レンズによる集光』は後に述べるal-Farisiによって発展され、虹の研究に生かされた
  21. ^ 『虹と暈について』において、雲全体が一つの球面鏡を成すとして光の反射の法則を用いて虹の形状を説明した[32]。勿論この理論は今日において正しくない。
  22. ^ Sabra, 1989による。ただし、Rashedは『光学の書』の反射や屈折を扱った部分のかなりの部分が、問題の記述こそ形式的に視覚をもちだすものの、実質的には光そのものの研究であるとしている[34]
  23. ^ スペインの西方イスラム世界では多少様子が異なる[35]
  24. ^ 他にウィテロのPerspectiva, Ibn Muʿādh al-JayyānīのLiber de crepusculis が収録されている。

出典

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  1. ^ 湯浅赳男『面白いほどよくわかる 世界の哲学・思想のすべて』日本文芸社、平成17年2月1日改訂第1版、ISBN:4-537-11501-7、p162
  2. ^ a b ابن الهَيْثَم” (アラビア語). islamic-content.com. 2022年8月31日閲覧。
  3. ^ Smith, A. Mark, ed. and trans. 2001のintroductionなどを参照
  4. ^ a b بحث عن ابن الهيثم” (アラビア語). موضوع. 2023年1月8日閲覧。
  5. ^ ص83 - كتاب الأعلام للزركلي - الاهوازي - المكتبة الشاملة”. shamela.ws. 2023年7月26日閲覧。
  6. ^ ص123 - كتاب شمس الله تشرق على الغرب فضل العرب على أوروبا - الابن الثاني لموسى الفلكي - المكتبة الشاملة”. shamela.ws. 2023年7月26日閲覧。
  7. ^ a b c ابن الهيثم .. أظهر الجنون ليسلم من ظلم الحاكم” (アラビア語). صحيفة الاقتصادية (2015年3月3日). 2023年1月8日閲覧。
  8. ^ ابن الهيثم.. أول من درس عدسة العين” (アラビア語). www.aljazeera.net. 2023年1月8日閲覧。
  9. ^ لماذا ادعى الحسن ابن الهيثم الجنون فى مصر.. تعرف على القصة” (アラビア語). اليوم السابع (2018年3月6日). 2023年1月8日閲覧。
  10. ^ a b Almahdi, Faisal (2018年10月12日). “قصة فشل "ابن الهيثم" في إقامة السدود بمصر -” (アラビア語). التقدم العلمي للنشر والتوزيع. 2023年1月9日閲覧。
  11. ^ ابن الهيثم - مفكرون” (アラビア語). mufakeroon.com. 2023年1月9日閲覧。
  12. ^ ابن الهيثم .. عبقري في ثوب الجنون (في ذكرى مرور 992 سنة على وفاته)” (アラビア語). إسلام أون لاين. 2023年1月8日閲覧。
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  14. ^ ص124 - كتاب مجلة الرسالة - الحسن بن الهيثم - المكتبة الشاملة”. shamela.ws. 2023年7月26日閲覧。
  15. ^ 残りの2つは天文学書『世界の配置』(Configuration of the World)と光学書『放物線鏡による集光』(On parabolic burning mirrors, Liber de speculis comburentibus)。Smith, 2001のIntroduction,1.Ibnal-Haytham: A Biobibliographic Sketch および http://www.jphogendijk.nl/ih/ibnalhaytham.html を参照
  16. ^ Smith 2001及びLindberg 1976
  17. ^ Raynoud, 2016
  18. ^ Smith 2001, Rusell 1996などを参照。
  19. ^ 『ティマイオス』田之頭安彦訳、岩波書店1975年9月13日、p195
  20. ^ アリストテレス『感覚と感覚されるものについて』
  21. ^ a b Sabra, 2003
  22. ^ Russell 1996
  23. ^ Raynaud, 2016 などを参照。
  24. ^ Lindberg 1968を参照。
  25. ^ ゲルソニデスについては Goldstein B.R. (1985) The Astronomy of Levi ben Gerson (1288–1344). A Critical Edition of Chapters 1–20 with Translation and Commentary. Springer に詳しい。
  26. ^ Raynaud 2016 参照。
  27. ^ Smith,2008 を参照。
  28. ^ Smith,2018およびen:Alhazen's problemなどを参照。
  29. ^ Rashed, 1996
  30. ^ Smith, 2010, vol.1 pp. liii-lvi を参照。
  31. ^ Smith 2010, vol. 2の注193と194を参照。
  32. ^ Sabra, 1983, vol 2., page xlvi
  33. ^ Smith,2001などを参照。また、 Goldstein, B. (1977). Ibn Muddādh's Treatise On Twilight and the Height of the Atmosphere. Archive for History of Exact Sciences, 17(2), 97-118も参照。
  34. ^ a b Rashed, 2016
  35. ^ Sabra 2008.
  36. ^ Sabra, 1989
  37. ^ Sabra, 1989, Rashed 1996
  38. ^ Smith, 2001
  39. ^ Abattouy, 2002, Rozhanskaya, M, 1996
  40. ^ Smith, 2001, Sabra,1989
  41. ^ Saliba, George Islamic Science and the Making of the European Renaissance, MIT Press, 2007
  42. ^ 鈴木 1992
  43. ^ Eckart 2018
  44. ^ Rashed, R., 2013

外部リンク

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英語