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「クローヴィス1世 (フランク王)」の版間の差分

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この遠征の後の[[508年]]、クロヴィスは東ローマ皇帝[[アナスタシウス1世]]からローマ帝国名誉[[執政官]]に任命された<ref>フランス史、p.138。</ref><ref>R.ミュソ=グラール、p.112。</ref>。トゥール郊外の教会で、皇帝から送られた紫衣をまとい、皇帝から送られた冠を戴いたクロヴィスは、住民の歓呼に迎えられて町を行進した。この、まったくローマ的な儀式により、武力で獲得したガリア支配が当時のヨーロッパ最高の権威によって承認された<ref>Von Mathias Lohre “Die Erbens des Imperiums”, <i>P.M. History</i>, 09/2018, p. 32.</ref>。
この遠征の後の[[508年]]、クロヴィスは東ローマ皇帝[[アナスタシウス1世]]からローマ帝国名誉[[執政官]]に任命された<ref>フランス史、p.138。</ref><ref>R.ミュソ=グラール、p.112。</ref>。トゥール郊外の教会で、皇帝から送られた紫衣をまとい、皇帝から送られた冠を戴いたクロヴィスは、住民の歓呼に迎えられて町を行進した。この、まったくローマ的な儀式により、武力で獲得したガリア支配が当時のヨーロッパ最高の権威によって承認された<ref>Von Mathias Lohre “Die Erbens des Imperiums”, ''P.M. History'', 09/2018, p. 32.</ref>。


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[[508年]][[パリ]]に[[首都|都]]を定め、[[セーヌ川]]左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院(のちの[[サント=ジュヌヴィエーヴ修道院]])を築いた。その遺構は今も[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]近くに[[クロヴィス塔]]として残る。

2018年9月29日 (土) 00:03時点における版

クロヴィス1世
Clovis 1er
フランク王
クロヴィス1世(Dejuinne作)
在位 481年-511年

出生 466年頃 、トゥルネーベルギー
死去 511年11月27日、パリフランス
埋葬 511年
サント=ジュヌヴィエーヴ修道院から
サン=ドニ大聖堂に改葬
配偶者 クロティルダ
父親 キルデリク1世
母親 テューリンゲン族のバジーナ
宗教 カトリック
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クロヴィス1世[注釈 1]: Clovis Premier, フランス語発音: [klɔ.vis] 発音例, 466年頃 - 511年11月27日)は、メロヴィング朝フランク王国の初代国王(在位481年 - 511年)である。日本では大半の書籍[1]では、フランス語読みの「クロヴィス」でなく、英語ないしドイツ語読みに近いクローヴィス1世の表記が用いられる。

クロヴィスは一夫多妻制の生活を送っていたが、妻の1人であった王妃クロティルドの影響で、キリスト教アタナシウス派カトリック教会)に改宗して、これを保護したのでガリアでの布教活動に大きな貢献があった。

生涯

サリー・フランク族キルデリク1世を父、テューリンゲン族ドイツ語版英語版バジーナ英語版を母としてトゥルネー(現ベルギー領)で生まれた。当時は現代のフランスベルギー国境付近のトゥルネーカンブレーを中心とするライン川低地西部を占めていたに過ぎなかった。

481年に即位したクロヴィスはライン川北岸のフランク人を統一、486年にはガリア北部を支配していた西ローマ系軍閥のアフラニウス・シュアグリウスソワソンの戦いで破り、版図を一挙にロワール川北部に拡大、旧ローマ属州ベルギカ・セクンダを支配下に治めた[2]。さらにクロヴィスは妹のアウドフレドを東ゴート王国テオドリックに嫁がせて同盟を固め、493年にはブルグンド王国の王女クロティルドとソワソンで結婚した。

496年から497年にかけて、トルビアックの戦い英語版アラマンニ人に勝利した後、王妃クロティルドの薦めでカトリックに改宗した。東ローマ帝国の人物との接触の長いフランク族の王クロヴィスはキリスト教ニカイア派を信仰していた[3]。この改宗はゲルマン民族諸王の中で初めて行われたカトリックへの改宗であった。一方西ゴート族ヴァンダル族はすでにキリスト教に改宗していたが、その宗派はアリウス派であった。当時のガリア住民は大部分カトリックであったため、クロヴィスのカトリック改宗はガリア領内のローマ系市民との絆を強化するものであった。496年から502年までの間に改宗する洗礼をおこなった。史料では場所が明らかになっていませんが、ランスのヒンクマル 大司教が9世紀に強くランスだったとする解釈を強調して、それでランスが後にフランス王様たちの聖別儀式を祝うところとなった。

500年にはディジョンでブルグンド王国と戦い、507年にはアルモリカ人の支援を得てヴイエの戦い西ゴートアラリック2世を破った。この勝利で勢いをつけたクロヴィスはそのまま西ゴート王国の首都トゥールーズまで進軍し、アキテーヌの大部分を獲得した[4]。フランク王国の領土は北海からピレネー山脈まで大きく拡張され、南フランスを支配していた西ゴート王国はイベリア半島に押し込められた。

この遠征の後の508年、クロヴィスは東ローマ皇帝アナスタシウス1世からローマ帝国名誉執政官に任命された[5][6]。トゥール郊外の教会で、皇帝から送られた紫衣をまとい、皇帝から送られた冠を戴いたクロヴィスは、住民の歓呼に迎えられて町を行進した。この、まったくローマ的な儀式により、武力で獲得したガリア支配が当時のヨーロッパ最高の権威によって承認された[7]

508年パリを定め、セーヌ川左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院(のちのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院)を築いた。その遺構は今もパンテオン近くにクロヴィス塔として残る。

クロヴィスは晩年フランク人の小王を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺した。それによりメロヴィング朝は他の家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保ったと言われている。

クロヴィスは511年11月27日に死去し、パリの北方4キロほどの街、サン=ドニにあるサン=ドニ大聖堂に埋葬された。その遺領はフランク人特有の財産均等分割相続の習慣に従い、4人の息子テウデリククロドメールキルデベルトクロタールに分割された。フランス人の伝統によれば、パリに都したクロヴィス1世はフランス王国の基礎を築いた最初のフランス王であった。クロヴィスの生涯はトゥール司教グレゴリウスが詳細な年代記を残している。

子女

名前未詳の女性との間に、長男をもうけた。

王妃クロティルドとの間には4男1女が生まれたが、1男は早世した。

脚注

注釈

  1. ^ クロヴィスはフランス語読み。古代ラテン語表記のクロウィス(Clovis)、ラテン語ではクロドウェクスラテン語: Chlodovechus)または古高ドイツ語および中高ドイツ語表記のクロードヴェヒクロートヴィヒ(Chlodowech, Chlodwig)と長音される表記もみられる。現代フランス語ルイ(Louis)、現代ドイツ語ルートヴィヒ(Ludwig)に当たる。

出典

  1. ^ 各社の高校世界史関連の教科書・参考書、一般書など
  2. ^ R.ミュソ=グラール、p.42。
  3. ^ R.ミュソ=グラール、p.81。
  4. ^ フランス史、p.137-138。
  5. ^ フランス史、p.138。
  6. ^ R.ミュソ=グラール、p.112。
  7. ^ Von Mathias Lohre “Die Erbens des Imperiums”, P.M. History, 09/2018, p. 32.

参考文献

  • ルネ・ミュソ=グラール『クローヴィス』加納修訳、白水社、2000年。
  • 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年。

関連項目

外部リンク

先代
キルデリク1世
サリ・フランク族の王
481年 – 509年
次代
フランキアの征服
先代
-
フランク王
初代
481年 - 511年
次代
クロタール1世ソワソン
キルデベルト1世パリ
クロドメールオルレアン
テウデリク1世ランス
先代
フラウィウス・エンノディウス・メッサラアレオビンドゥス・ダガライフス・アレオビンドゥス
ローマ帝国執政官
507年
同僚はアナスタシウス1世ウェナンティウス
次代
バシリウス・ウェナンティウスケレル