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「ワシントンUFO乱舞事件」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ナチ信者の寝言はいらん。
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 この日の事件も大きく報道され、全米で話題になった。
 この日の事件も大きく報道され、全米で話題になった。

ワシントンD.C.上空に大量のUFOが現れた要因の一説として、同じ年の春頃[[ニューメキシコ州]][[ホワイトサンズ]]にある[[ホワイトサンズ・ミサイル実験場]]内の砂漠に墜落したUFOから回収された通信機器とおぼしき装置をワシントンD.C.へ送ったとされ、政府高官かそれに依頼された科学者たちがその通信機器とおぼしき装置をいじくりまわした結果、UFOの大量飛来を招いたとも言われている。

又、最近では南極や南米の秘密基地へ逃げ去ったナチスの地球製UFO開発運用部隊がアメリカ政府に対し、極秘宇宙開発の共同事業を持ちかける一方で、軍事的な示威行動としてこうした作戦に出ていたとの話も出ていたが、技術的な発展と言う面で考察すると以下のような指摘から珍説として扱われている。

元々、ナチス・ドイツのレーダーも含む電子技術全般はイギリスに、石油精製技術や基地設営技術全般ではアメリカに遅れをとっていたが、他の分野、短距離弾道弾(V-2)やジェット戦闘機の実用化や大陸間弾道弾(A-9/A-10)や前進翼や後退翼やデルタ翼や対空誘導ミサイル(ワッサーファールなど)や水中高速型潜水艦の研究開発や原爆や水爆の研究などにおける戦時中の急速な発達は紛れもない事実であり、それぞれが高度な水準に達していた。

その結果として、多くのドイツ人科学者が米ソ両国へ連行され、彼らが参加させられた軍事研究が戦後の軍事兵器の方向性や戦術思想に影響を与えた事実を考慮すると、ナチス・ドイツの軍事技術は現在公式に発表されている範囲で見てもアメリカに比べて30~50年ほど進歩していたと評されるだけの水準であり、フォン・ブラウンが一時、アメリカで不遇をかこっていた例外的な場合を除けば、他の様々な航空技術者やドイツから運び込まれた研究開発データによってもたらされた技術情報は当時の世界最大の経済大国アメリカの兵器開発の方向性を大きく転換させた事は紛れもない事実であった。(ただ、不明瞭なのは重電部門と素材部門である。公式に見られる範囲では連合国側を大きく引き離しているとはとても言えないにもかかわらず、戦後直後、ドイツの技術全般を検証していた技術情報将校はそれも含めてきわめて高い評価をドイツに対して下しており、現在も非公開となっている数多くのナチスドイツの技術情報の中に画期的なものがあった様子が伺える。)

だが、逆に考えた場合、「これほど大規模で多種多様な研究を進めていた戦時のナチス・ドイツに、それとは別系統で、より高度なエネルギー工学や既存のものとは完全に異なる航空技術体系を構築し、現代の民間人の想像を超える高度な成果をシステマチックな形で実現する余力があったのか?」という疑問が出てくる。しかも、資金源として民間から相当な略奪を行い、なおかつ多くの人々を軍需工場で奴隷的な労役に就かせねばならないほど、軍需面でのリソース不足に苦しんでいたドイツが、それほどの計画を実施できるのかという疑問に対して、説明の出来るデータは未だに提示されていない。

さらに、(戦後、行方不明となっていたドイツ人の数から推定して)数十万人と言う規模であっても、一種の亡命政権でしかなかったナチス残党軍に連合国からの追及を逃れながら、そのような超兵器の開発事業を引き継ぎ、発展させるだけの技術的基盤を独力で構築し、何年も維持・拡大させる能力があると見る向きはほとんどおらず、宇宙人のようなSFじみた勢力からの支援でも取り付けない限り現実的ではないと見られている。


==記者会見と公式見解==
==記者会見と公式見解==

2018年10月17日 (水) 11:15時点における版

ワシントンUFO乱舞事件(ワシントンUFOらんぶじけん)は、1952年7月19日7月27日アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.及びその周辺地域で起きたUFO騒動。

事件の概要

1952年7月19日から27日にわたって首都ワシントンD.C.上空に68機ものUFOが現れ大勢の市民の目の前で飛び回るという事件が起きたと言われているが、これは相当尾ひれのついた話であり、実際にUFOの通報があったのは、7月19-20日と、26-27日の二回、数は12個程度である。

 7月19日の午後11時40分、ワシントンナショナル空港の管制塔が、不審なレーダーコンタクトを捕捉し、ホワイトハウスや議事堂の上空にあると思われたので、近くのアンドリューズ空軍基地に通報し、不審なレーダーコンタクトが確認された。また白、オレンジ、尾の有無など細部は異なるものの、空中で異様な動きをする光が、管制官や駐機中の旅客機のパイロットらから6個程度が目撃された。アメリカ空軍ロッキードF-94B

が飛来する直前に、件のレーダーコンタクトは一斉に消失したが、戦闘機が燃料切れで引き返すとまた現れたため、あたかも無線を傍受して戦闘機を避けたかのように見えたという。翌20日の午前5時30分、レーダーコンタクトは消失したが、新聞で大きく報道され、全米で話題となった。

 そして一週間後の7月26日の夜8時頃、ワシントン上空を飛行中の旅客機の複数の乗員が、上下左右に不規則に動き、速度を変化させたり静止したりする「異様な光体」を目撃し、空港のレーダーにもそれらしい反応が現れた。計算上、時速1万キロを超える速度も観察されたが、ソニックブームなどは報告されておらず、さすがにこれは、レーダーが一回転する間に明滅した別々のコンタクトを同一のものと誤認した結果であると考えられる。空軍が調査のために2機のF-94戦闘機を発進させたが、機上レーダーにはそれらしいブリップがあったものの、フライトリーダーは何も視認することが出来なかった。ウイングマンのウイリアム・パターソン中尉は、4つの光体を目撃し、1000フィート以下の低空を飛行中、機体を取り巻くように飛んでいたと述べた。光体は様々な場所に現れ、いずれも戦闘機が到着するとすぐに消滅し、空軍と光体のイタチごっこが続くこととなった(ただし、この「近づくと消える」はまさに蜃気楼である)。深夜になると、光体はアンドリュース無線塔の上空に出現し、「オレンジ色に輝く巨大な球体」を通信員たちが目撃した。またバージニア州ニューポートニュースの人々は「互い違いに色を発して回転し、まぶしく光る物体」の目撃を報告したが、夜明けとともにレーダーコンタクトも消えた。

 この日の事件も大きく報道され、全米で話題になった。

記者会見と公式見解

ペンタゴンにはこの件で問い合わせが殺到し回線はパンク状態になった(ただし、新聞記事を読んでの連絡も多く、実際にUFOを見て通報した人が多くいた訳ではない)。空軍は「市民を落ち着かせるために何らかの方策をとる必要があった」。空軍は記者会見を行い、UFOは「逆転層による気象現象」(気温逆転説)であったと説明した。

公式見解では、「UFO」はハイウェイの上空にあらわれており、風向きに沿って移動していることがわかっている。上位(浮上)蜃気楼と呼ばれる現象で、逆転層が地面の光を反射しながら風に乗って移動していたという説が考えられる。また、こうした逆転層はレーダーにも影響し、気象データも逆転層が発生する条件がそろっていることを示していた。[要出典]

公式見解への批判

この気温逆転説を用いた公式見解には批判もある。

まず、レーダーに実体と区別がつかない程に鮮明な反射映像を出せる逆転層が発生したとは考えられないとする意見が挙げられる。

そもそもそれほどの現象が普通に起こりうるならば世界各地で同種の誤認事件による航空管制上の混乱が多発していたはずであり、実際に当時、レーダーを注視していた調査員は「実体のある目標と、気温逆転によるレーダー反射は簡単に区別できる」(気温逆転程度では実体と見まごう程鮮明な映像は出ない)と述べている[1]。これに対しては、50年代のレーダーの性能も運用術もこうした誤認を防止できるほどの水準にあったのかどうかを具体的に検証した資料は未だ公式には提示されていないという意見もあるが、その程度では実際のベテラン運用者の経験からくる判断を否定する根拠とはなりえない。ましてや彼らからの要請で何度もスクランブルが出されたという事実は明白な確信があっての判断が出た証拠と言える。

 なお、現場を預かる責任者として、又機材運営の担当としてUFO目撃の際にレーダー管制室にいたデューイ・フォーネット少佐と海軍のレーダー専門家は、彼らなりの経験と自信から気温逆転説に賛成しなかった(上層部からの圧力に抗してそうした態度をとったことを考えると、事実上の否定といって良い)ため、事件の沈静化を意図する政府筋から忌避され、関係者でありながら記者会見には招かれなかった。また事件の最中に民間航空機のパイロットが「物体」を目撃したことを空軍は認めたが、その事実についての説明はなかった[2]。民間研究者であるジェームズ・マクドナルドは、調査結果により気温逆転説は支持できないと述べた。

また、1952年の夏には逆転層は毎日発生しており、ワシントン事件当日の逆転は、他の日と比較しても大きいものではなかったというデータ[3]があり、その意味では当日のUFO騒動では極めて鮮明な映像がレーダースコープに出ていたことが伺える。  ただ、「多くの目撃がある」とされながらも、信頼できる写真が無い点が不自然であり、このことは、この時の「UFO」が実際はさほど明るくはなく、当時のフィルムやカメラでは撮影が困難なものだったことを暗示している。

世界同時多発目撃

その後、アメリカの公式UFO調査(プロジェクト・ブルーブック)の資料により、この時期のUFOの目撃場所はワシントンD.C.に限らず、世界中に渡っていたことが判明した。

ワシントン事件が起こる1時間前には、沖縄米軍基地にて4人の空軍関係者が、「球状」で「急激に飛行コースを変える」未確認飛行物体を目撃した。ワシントン事件が起こった数十分後には、モンタナ州のグレートウォールズの空軍基地で、5機の飛行物体が超高速で飛行したという報告がされた。

その数分後、次はニューメキシコ州のホロマン空軍基地で、高速で動く3機の発光体が複数の技術者や将校たちにより目撃された(この基地では近くで観測用気球も打ち上げられていたが、後の調査で気球による誤認ではないことが判明した)。物体は金属的な質感をしており、超高速で急激に進路を変えたという。レーダーに捕捉された時点では高度1万mに滞空しているという結果が出た。気象条件は理想的で、気温逆転現象もここでは起きていなかった。

それから数時間の後に、ニューヨークから出発したパンアメリカン航空92便のパイロットたちが円盤形の飛行物体を目撃していた。その他の例では、モロッコカサブランカマラケシュアルジェリアなどでもUFOが目撃されていた。証言内容は概ね共通のものであった。事件当時、これらのUFO目撃事件とワシントン事件を関連させて調査した者は皆無であった[4]

事件写真

「UFO」らしき光点を背景にした議事堂の写真がよく引き合いに出されるが、写真の議事堂には1952年以降の改修工事の跡があるため、光の点の正体が何であっても本件とは関係ない。また光点は単なるレンズフレアと思われ、トリミング前の写真も既に判明している[5]。つまり、この事件の「UFO」を捉えた信用できる写真は全く存在しない。

参考文献

  • デビッド・マイケル ジェイコブス『全米UFO論争史』星雲社
  • ビル・コールマン『米空軍「UFO機密ファイル」の全貌』グリーアンアロー出版社

脚注

  1. ^ デビッド・マイケル ジェイコブス『全米UFO論争史』星雲社
  2. ^ デビッド・マイケル ジェイコブス『全米UFO論争史』星雲社
  3. ^ 『レーダー補足UFO事例の研究』開成出版
  4. ^ ビル・コールマン『米空軍「UFO機密ファイル」の全貌』グリーアンアロー出版社
  5. ^ [1]

関連項目

外部リンク