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「清水忠霊塔公園」の版間の差分

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高さ30メートルに達するなど静岡県における戦争慰霊碑としては史上最大級であり、なおかつ、吉田五十八の作品であることから、特筆性があると考える
 
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そのほか、園内には[[車椅子]]対応[[トイレ]]や自由広場といった設備が設けられている<ref name="chureitoKoen"/>。また、東側に位置する[[グラウンド]]は、[[サッカー]]や[[グラウンドゴルフ]]などで使用されている<ref name="chureitoKoen"/>。
そのほか、園内には[[車椅子]]対応[[トイレ]]や自由広場といった設備が設けられている<ref name="chureitoKoen"/>。また、東側に位置する[[グラウンド]]は、[[サッカー]]や[[グラウンドゴルフ]]などで使用されている<ref name="chureitoKoen"/>。


その後、長年に渡って風雨に晒され続けたことから『清水市忠霊塔』の老朽化が問題視されるようになった<ref name="ats20180809"/>。[[田辺信宏]]が静岡市の市長に就任してからは、『清水市忠霊塔』の解体すら俎上に上るようになった<ref name="ats20180809"/>。また、戦死者や戦災殉難者に対する慰霊施設であるにもかかわらず、我が物顔で専有する[[少年]][[サッカークラブ]]が現れて問題になるなど<ref>「清水区の忠霊塔公園で遊んでいたら、サッカークラブからどいてくださいと言われました。皆で使う公園で当たり前のように『どかす』のは、おかしいと思います。」『[http://vp.city.shizuoka.jp/koe2015/detail.php?id=4954 清水区の忠霊塔公園で遊んでいたら、サッカークラブからどいてくださいと言われました。皆で使う公園で当たり前のように「どかす」のは、おかしいと思います。:寄せられた声:静岡市]』[[静岡市役所]]、[[2015年]][[11月19日]]。</ref>、課題も散見される。
その後、長年に渡って風雨に晒され続けたことから『清水市忠霊塔』の老朽化が問題視されるようになった<ref name="ats20180809"/>。[[田辺信宏]]が静岡市の市長に就任してからは、『清水市忠霊塔』の解体すら俎上に上るようになった<ref name="ats20180809"/>。{{要検証|また、戦死者や戦災殉難者に対する慰霊施設であるにもかかわらず、我が物顔で専有する[[少年]][[サッカークラブ]]が現れて問題になるなど|title=専有状態にあったと断定するに足る情報がない。|date=2019年8月}}<ref>「清水区の忠霊塔公園で遊んでいたら、サッカークラブからどいてくださいと言われました。皆で使う公園で当たり前のように『どかす』のは、おかしいと思います。」『[http://vp.city.shizuoka.jp/koe2015/detail.php?id=4954 清水区の忠霊塔公園で遊んでいたら、サッカークラブからどいてくださいと言われました。皆で使う公園で当たり前のように「どかす」のは、おかしいと思います。:寄せられた声:静岡市]』[[静岡市役所]]、[[2015年]][[11月19日]]。</ref>、課題も散見される。


== 沿革 ==
== 沿革 ==

2019年8月15日 (木) 19:14時点における版

清水忠霊塔公園
Shimizu Cenotaph Monument Park
分類 平和公園
所在地
静岡県静岡市清水区
迎山町2081番地の1
面積 10,460.00 m2[1]
開園 1959年
設計者 吉田五十八
(『清水市忠霊塔』の設計)
運営者清水市→)
静岡市
設備・遊具 車椅子対応トイレ[1]
自由広場[1]
忠霊塔[1]
駐車場 7台[1]
アクセス しずてつ山原梅陰寺線
忠霊塔前停留所
事務所 静岡市都市計画事務所
事務所所在地 静岡県静岡市清水区
旭町6番8号
公式サイト 静岡市 公園整備課
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清水忠霊塔公園(しみずちゅうれいとうこうえん、英語: Shimizu Cenotaph Monument Park)は、静岡県静岡市に立地する公園

概要

静岡県静岡市に立地する平和公園である。旧清水市によって整備された。園内の『清水市忠霊塔』には、西南戦争から太平洋戦争までの戦没者戦災殉難者が祀られている[2]。巨大な尖塔は高さ30メートルに達するなど[3]、その威容がよく知られている。静岡県における戦争慰霊碑としては最大規模を誇る[3]

特色

『清水市忠霊塔』を設計した吉田五十八

園内の『清水市忠霊塔』は、建築家吉田五十八により設計された[3]。もともとあった小高い丘陵の斜面を利用する形で塔を建てたことから[3]尖塔の高さが30メートルに達するなど極めて巨大な忠霊塔となった[3]鉄筋コンクリート造であり[3]、その形状は神社千木モチーフとしている[3]。塔の下には、御影石で制作されたモニュメントが安置され[3]、基壇には水が張られていた[3]。この忠霊塔には、西南戦争から太平洋戦争までの戦没者と戦災殉難者の御霊が約4300柱祀られている[3]碑文は、建立時に清水市市長を務めていた鈴木平一郎が考案したものである[2]。また、園内には、忠霊塔とは別に『平和祈念碑』も建立されている[2]。こちらの碑文は、同じく建立時に市長を務めていた宮城島弘正が考案したものである[2]

この公園が竣工して以来、遺族会が毎年終戦の日に慰霊祭を執り行うなど[3]、清水市の戦没者と戦災殉難者に対する慰霊施設として重要な役割を果たしてきた。しかし、清水市と旧静岡市合併により新制静岡市が発足すると、慰霊祭も旧静岡市と合同で行われるようになったため[3]、この公園は慰霊祭の会場としては使用されなくなった[3]。だが、慰霊祭の会場として用いられなくなってからも、地元住民からの敬愛を集めてきた。

そのほか、園内には車椅子対応トイレや自由広場といった設備が設けられている[1]。また、東側に位置するグラウンドは、サッカーグラウンドゴルフなどで使用されている[1]

その後、長年に渡って風雨に晒され続けたことから『清水市忠霊塔』の老朽化が問題視されるようになった[3]田辺信宏が静岡市の市長に就任してからは、『清水市忠霊塔』の解体すら俎上に上るようになった[3]また、戦死者や戦災殉難者に対する慰霊施設であるにもかかわらず、我が物顔で専有する少年サッカークラブが現れて問題になるなど[要検証][4]、課題も散見される。

沿革

清水市により『清水市忠霊塔』の建立と公園の建設が行われ[3]1959年に竣工した[3]。『清水市忠霊塔』の建立に際しては、工費が1640万円かかったが[3]、地元の住民や企業から多数の寄附が寄せられたという[3]。なお、公園が竣工したのは1959年であり[3]、園内の『清水市忠霊塔』が建立されたのも同年3月だとされているが[5]碑文には「市民各層の協賛を/得て昭和三十三年十一月これを建つ」[2]と記されている。その後、忠霊塔とは別に『平和祈念碑』も建立されている[2]。こちらは、太平洋戦争終結から50年を迎えた1995年8月15日に、新たに建立された[2]

交通アクセス

鉄道

バス

脚注

関連人物

関連項目

外部リンク