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2019年10月1日 (火) 17:13時点における版
たかはし ひろし 高橋 博 | |
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プロフィール | |
愛称 | 博さん(はくさん) |
出身地 |
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生年月日 | 1913年10月11日 |
没年月日 | 1982年10月1日(68歳没) |
最終学歴 | 日本大学文学部国文科卒業 |
職歴 | NHK→ニッポン放送→フジテレビ |
活動期間 | 1936年 - 1968年 |
出演番組・活動 | |
出演経歴 | 舞台中継 |
高橋 博(たかはし ひろし、1913年10月11日 - 1982年10月1日)は、芸能評論家、話芸家、アナウンサー。日本演劇協会会員。愛称は、博さん(はくさん)[1]。
経歴
学生時代から芝居好きで、脚本なども書き、芝居の世界との付き合いもあったせいもあり、主に舞台中継[1]、朗読[3]を担当。
敗戦後、戦意高揚に関わった責任を取ってNHKを辞職[4]。1954年にニッポン放送へ移籍[1]。同時期に坂本荘、中村要輔(両名ともNHKの後輩。当時はラジオ東京)とともに東北放送で教育も行った。
ニッポン放送初代アナウンス室長、フジテレビ初代アナウンス室長(1958年より)、ニッポン放送編成局編成総務、ニッポン放送嘱託(フジテレビ編成局付)を歴任。
1968年にニッポン放送を退職。
その後、「語り」を芸として確立したいという熱意から「物語」の語り手として舞台に立ち、アナウンサー時代の名調子を聞かせたこともあった[1]。
1982年10月1日に脳卒中のため、東京都台東区元浅草の永寿病院で死去。
担当作品
- 舞台中継(NHK時代)
- 皇室関係行事の中継(中継)
- 第二次世界大戦(1954年2月1日公開、解説)
- われ真珠湾上空にあり 電撃作戦11号(1957年8月9日公開、解説)
- い号潜水艦 白骨の帰還(1958年8月10日公開、解説)
- 秋吉台(1959年6月13日公開、ナレーション)
関連人物
- 西澤實(盟友)
- 今井彬(ニッポン放送・フジテレビ時代の部下、後にフジテレビアナウンス室長)
- 山田祐嗣(同上)
- 髙木美智子(フジテレビ時代の部下)
- 内藤和美(高橋に師事)
- 斉藤由織(同上)
- 小栗久江(同上)
- 西村奈歩(同上)
- 塙野ひろ子(同上)
脚注
- ^ a b c d NHKアナウンサー史編集委員会 編「第四章 ラジオからテレビへ 朗読と舞台中継」『アナウンサーたちの70年』講談社、1992年12月21日、193頁。ISBN 4-06-203232-5。
- ^ NHKアナウンサー史編集委員会 編「NHKアナウンサー一覧」『アナウンサーたちの70年』講談社、1992年12月21日、12頁。ISBN 4-06-203232-5。
- ^ NHKアナウンサー史編集委員会 編「第四章 ラジオからテレビへ 朗読と舞台中継」『アナウンサーたちの70年』講談社、1992年12月21日、184頁。ISBN 4-06-203232-5。
- ^ アナウンサーの仕事も、もう続けて行けるとは思えなかった。はっきりと戦争協力者である。(中略)この際、辞職するのがほんとうと思われた。ぼくは我がままを云って、マイクから遠去かることにした — 本人著「アナウンサー」
参考文献
- NHKアナウンサー史編集委員会 編『アナウンサーたちの70年』講談社、1992年12月21日。ISBN 4-06-203232-5。