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「着付け」の版間の差分

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[[file:Dressing wedding kimono at beauty salon (Kitsuke) 1950s.jpg|thumb|right|1950年代の美容院での花嫁衣装の着付けの様子]]
'''着付け'''とは、[[着物]]を形良く着せ付けること、または着ること。着付けには履物を履くことも含まれる。現在では[[美容院]]で着付けをすることが多いため[[髪結い]]と着付けはセットで行われるが、髪結いは着付けの意味には含まれない。髪結いは着付けより前に行うことも、後に行うこともある。着付けには、自分一人だけで行う方法と、他者に手伝ってもらいながら行う方法がある。着付けをする人を'''着付師'''と呼ぶ。
'''着付け'''とは、[[和服]]を美しい着姿に着せ付けること、または着ること{{Efn|「装道」という言葉があるが、これは[[1970年代]]に一企業が[[商標]]登録したものであり、着付けを指す一般的な語ではない。}}。


自分一人だけで行う場合と、他者に着せ付けてもらう場合とがあり、[[振袖]]や花嫁衣装など特殊な着付けを要する場合は、一人で着付けることは容易ではない。
== 着付けの手順 ==


着付けの専門的な技能を持つ人を'''着付師'''という。着付師による着付けは[[美容院]]で行われることが多く、「[[着付け技能士]]」という[[国家資格]]がある。
=== 準備 ===
[[縮緬]]類は半紙を四つ折りにして三つ襟の中に挟み、針で留める。
重ね着の場合は下着の襟だけを入れ、上下の背縫いを合せて1針留め、襟先も重ねて襟の付け根を1針留める。
[[長襦袢]]には[[半衿]]をつけておく。場合により半衿の中に[[プラスチック]]などの芯を入れることもある。
腰帯、下締類は、[[モスリン]]並幅三つ割を芯無にくけたものが解けず最もよい。


== 時代による変遷 ==
女性の場合、直線的な体型に着つけるため、[[晒]]を巻いたり、[[ブラジャー|和装ブラジャー]]を装着して胸のふくらみを抑えたり、[[帯]]の下になるウエストにタオルを巻くこともある。タオルを巻くのは、着崩れを防ぐためでもある。
[[File:Two Women in Kimonos (1915-04 by Elstner Hilton).jpg|thumb|200px|[[大正]]時代(1915年頃)の晴れ着の着付け。広い衿合わせで[[半衿]]を広く見せ、帯は胸高で、おはしょりは無造作に作ってある。この頃は細い[[帯締め]]を斜めにあしらった着姿が多くみられる]]
'''[[おはしょり]]'''も参照のこと。
=== 普段着として ===
[[明治]]以降の社会の変容に伴って、着物にも、[[礼服]]ほどの格式を必要としない「気軽な外出着」という需要が生まれた。このための女性用の[[帯]]も、重量があって扱いにくい「織り」の[[丸帯]]や[[袋帯]]から、手軽な「染め」の帯や[[昼夜帯]]など、より簡便なものが多く用いられるようになり、また、[[大正]]中期に[[名古屋帯]]が発明されたため、[[お太鼓]]などの結び方にも新しい手法が生まれた。


また、大正時代以降は、男女とも「[[長着]]が普段ものでも[[羽織]]を着れば礼服扱い」となり、日常的に羽織が用いられるようになる<ref name="koizumi">{{Cite |和書| author = 小泉和子編 | title = 昭和のキモノ | date = 2006-5-30 | series = らんぷの本 | publisher = 河出書房新社 | ISBN = 9784309727523}}</ref>。
なお、体型を隠すように直線的に着るべしとされたのは昭和30年代後半に入ってからのことである。和装ブラジャー、タオル等による補正もその頃に生まれた技術である。ちなみに、昭和30年代前半は、洋服の下着を身に付け、あえて体の線を強調して曲線的に着るのが良しとされ<ref>例えば昭和32年の『[[主婦の友]]』4月号には、「体の美しい線を出す新しい装い方」という記事が掲載されている。</ref>、それ以前は、それぞれの体形なりに着付けるのが良しとされていた。


=== 長襦袢 ===
=== 洋装の影響 ===
[[File:Woolen kimono 1957.jpg|thumb|180px|1957年(昭和32年)の[[ウールきもの]]。曲線的なラインを出した着付け]]
肌着の上に長襦袢を着て衣紋を抜き、下締を2回巻いて結ばずに前で潜らせておく。


大正から[[昭和]]初期には、広まり始めた洋装の美意識が着物の着付けにも取り入れられ、洋装のバランスを模して、帯を極端に腰高に締め、下半身をすらりと長く見せる着付けが流行した<ref name="koizumi"></ref>。
=== 着物 ===
手を通して両手で襟先を持ち、上前襟先が右腰骨の上にくるまで前を合わせる。茶の湯などの座礼の場合、襟先が後に回るくらい深く合わせる。下帯は腰骨の上の辺に締め、右横で結び、手を入れて「おはしょり」を伸ばし、衣紋を作る。襟はあまり広げず、ばち襟ほどにして、下締を締める。身八ツ口から手を入れて、おはしょりを整え、伊達巻を巻く。


昭和25年頃から昭和30年代前半([[1950年代]])には、既に洋服を着慣れていた女性たちに向けて、[[ブラジャー]]やコルセット{{Efn|現代でいう[[ウエストニッパー]]に近いが、ほぼ全体がゴム製の、腰回りを抑える[[ファウンデーション (服飾)|ファウンデーション]]。[[ガーターベルト]]が付属することもあった。当時は洋装の下着にはブラジャーと並んでこのコルセットが必須とされていた。}}・[[スリップ (衣類)|スリップ]]などの洋服の下着を付け、あえて体の線を強調する着付けが盛んに提唱された{{Efn|昭和32年の『[[主婦の友]]』4月号には、「体の美しい線を出す新しい装い方」という記事が掲載されている。}}。これに伴って、従来は腰骨の位置で締めるものであった腰紐を、洋式にウエストの位置で締めることが推奨された。肌[[襦袢]]や長襦袢など、従来の和装用下着をすっかり省いて着付けを簡便にすることも提唱された<ref name="koizumi"></ref>。
=== 帯 ===

帯のかけの長さは前に回して左腰骨に来るくらいがよい。丸帯は縫目が外になるように二つ折りすれば模様が前に来る。帯揚は盛装では大きめがよく、羽織下では低い方がよい。若い人があまり低い帯揚はよくない。
=== 現代 ===
昭和30年代後半以降([[1960年代]]以降)は、洋服が一般的な日常着となり、着物は、[[礼服|礼装]]や晴れ着などとして特別な機会にのみ着るものとなった{{Efn|「晴れ着」という語が登場したのはこの頃からであるが、以降、「晴れ着」と「和服」の同一視など、和装の衰退に伴う用語の混同もみられるようになる。}}。日常生活の中から和装が姿を消し、着付け方法はおろか、和服全般についての家庭内での自然な伝承が途絶したため、「着物の着方」を、着物に詳しい者に一から教わる必要が生じたのである。

こうした、日常生活に必須ではない「教養としての着付け」では、現在まで続く「体のラインを隠すように直線的に着る」という、「洋服にはない、着物ならではの着姿」が推奨されるようになった。腰紐の位置も洋式のウエスト締めから腰骨締めに戻り、「凹凸のない、ずんどうの着物体型」が良しとされて、和装ブラジャーやタオル等による体型補正が生まれた{{Efn|この頃、着付けのためのさまざまなアイデア商品が生まれた。現在では使われなくなったものも多いが、上述の和装用ブラジャー、[[メッシュ]]の帯板や衿芯、[[コーリンベルト]](腰紐として使う、[[ゴム]]ベルトの両端に[[クリップ]]がついたもの)などは現在もよく使われている。}}。

こうして着付けは「型を守って行う」ものとなり、着物自体も、気軽には手を出せない難しいものとみなされるようになって、ますます日常生活から離れることとなった<ref name="koizumi"></ref>。

その後、[[1990年代]]以降の[[アンティーク着物]]ブームによって「ふだん着物」が見直されて以降は、こうした堅苦しい着付け作法に異を唱え、自由に楽に着ようという動きも生まれている<ref>{{Cite web | url = https://ameblo.jp/mamebudou/ | title = やっぱり着物はしょせん服です。~「高円寺リサイクル着物処豆ぶどう」の店主の何でも着物の日々~| accessdate = 2020-11-26 }}</ref>。一方、昭和40年代に確立した「正しい着付け」のみを是とし、街中で通りすがりの和装女性に着付けの難を指摘したり直したりする、いわゆる「[[着物警察]]」と呼ばれる年配女性も存在し、着物を愛好する者同士のあいだにも派閥や軋轢が生まれている。

== 着付けの手順 ==
着付師によるものでなく「一人で着る」場合の、現代の標準的な例を示す。
=== 女性 ===
*着る前の準備
<!-- (着付師が着付ける場合と思われ、表現にも不明点があるため一旦コメントアウト。「針で留める」は「縫い止める」の意?)
[[縮緬]]類は半紙を四つ折りにして三つ襟の中に挟み、針で留める。
重ね着の場合は下着の襟だけを入れ、上下の背縫いを合せて1針留め、襟先も重ねて襟の付け根を1針留める。-->
**長[[襦袢]]、もしくは半襦袢{{Efn|長襦袢の代わりに、半襦袢と裾よけからなる「二部式襦袢」もよく用いられる。}}の衿に'''[[半衿]]'''を縫いつけておく。近年では専用の[[両面テープ]]を使う場合もある。
**好みで半衿の中に'''衿芯'''を差し込む。
**和装用ブラジャーや'''肌襦袢'''、'''[[裾除け]]'''(蹴出し)などの[[下着|肌着]]を着て、必要に応じて[[タオル]]などで体型補正する。
**'''[[足袋]]'''を履く。

* '''長襦袢'''を着て'''[[抜衣紋|衣紋]]'''を抜き、'''腰紐'''で締める{{Efn|腰紐や伊達締めは、結び目がごろつかないよう、結ばずに2回絡げて交差させ、余った部分は挟み込むのが伝統的な締め方である。}}。
**長襦袢・長着・羽織のいずれも、洋服を着るときのように勢いよく羽織って袖を通すのではなく、下から静かに袖を通す。これは、和服の袖付けは洋服よりも一部分に力がかかりやすく破損しやすいためである。

[[file:Kitsuke.jpeg|thumb|right|180px|[[長着]]の衣紋を抜き、おはしょりを作っているところ]]
* '''長着'''を右前に打ち合わせて腰骨のあたりで腰紐を締め、'''[[おはしょり]]'''を整え、襦袢の衿に合わせて衣紋を抜く。衿合わせを整え、身八ツ口から手を入れて再びおはしょりを整え、'''伊達締め'''で締める。
**打ち合わせの深さや衿合わせの角度、衣紋の抜き具合、褄先の上がり具合などは、TPOや年代、好みなどに応じて調整する。[[茶道]]などの座礼の場合は、剣先が後ろに回るくらい深く打ち合わせるのが良いとされている。体型ときものの幅が合わない場合は、打ち合わせの深さで調整する。身長と着物の身丈が合わない場合はおはしょりの長さで調整し、おはしょりが作れない場合は対丈(おはしょりを作らない)で着る。

* [[名古屋帯]]、[[袋帯]]、[[半幅帯]]など、好みやTPOに応じた'''[[帯]]'''を締める。帯の種類や結び方によっては[[帯枕]]・[[帯揚げ]]・[[帯締め]]を用いる{{Efn|帯締めは、若年者では上寄り、年配者では下寄りに締めるのが良いとされているが、これも昭和30年代後半以降に確立した慣例であり、それ以前は好みによって自由に締められていた。}}。

* 必要や好みに応じて'''羽織'''を着る{{Efn|羽織は、首元で衿を半分外側に折り返し、衿全体が自然に折り返るように着る。折り返しやすいように衿首の部分に千鳥がけが施されていることも多い。羽織紐はたらしたままにせず必ず結ぶ。}}。
**羽織を着ない、長着と帯だけの姿は「'''帯付き'''」ともいい(男性の場合は「'''[[着流し]]'''」とも)、男女ともに、場によっては非礼とされることもある。


=== 男性 ===
=== 男性 ===
おはしょりを作らず対丈で着ること以外は女性とほぼ同じであるが、長襦袢と長着とを、着る前に重ね合わせていっぺんに羽織る「一つ前」という着方もある。
襦袢は襦袢で合わせて胴着を合わせて上下着を重ねて着る。袴を履くならば角帯がよい。


=== 子供 ===
=== 子供 ===
[[File:Same kimono worn at 3 and 6 years old.jpg|thumb|180px|腰揚げ・肩揚げの調節により、同じ着物を3歳時と6歳時に着た例]]
7、8歳以上の盛装は腰揚をせず、おはしょりをして腰揚のように見せる。付紐を上着と下着と一所につけておくと楽である。
6歳くらいまでの子供用の着物には、一般的に'''肩揚げ'''と'''腰揚げ'''がしてある。肩揚げは、肩の部分で布を折り畳んで縫い止め、袖口までの長さを体に合わせて調整するもの。腰揚げも同様に腰の部分で総丈を調整するもので、一見おはしょりに似ているが、着用時に作るおはしょりとは違い、縫い止めて形作ってある。


着付けを容易にするため、長着や襦袢には打ち合わせのための紐をつけておくことが多い。
== 畳み方 ==
「本畳み」といわれる畳み方が一般的に普及しており、着付け方を紹介した本などにも多く取り上げられている。その他、礼装用などで本畳みにすると刺繍など折り目が付いてしまうことを避けるために行う「夜着畳み」という畳み方もある。仮仕立てと呼ばれる仮縫いの状態や仮絵羽になっている着物を畳む畳み方もあり、「絵羽畳み」と呼ばれる。また仮に[[衣桁]]などに架けたり、一時的に畳んでおく場合、「肩畳み」と呼ばれる背中心から折り込み、衿が肩方を向く畳み方がある。これは洋服を畳む時に似ているといえ、本畳みのような技術は要しない。なお、この畳み方を本畳みであるとする専門家もいる。また、襦袢や羽織などは本畳みにせずそれぞれの畳み方によって畳む。


== 洗濯 ==
== 着物の手入れ ==
=== 畳み方 ===
{{See|洗張}}
; '''本畳み''' : 衽同士を合わせ、ずらしながら背中心で半身に畳む。一般的に正式な畳み方とされている。
着物の糸をほどいて分解して洗濯し、染み抜きを行い、洗濯が終わったら大きな板に生地を張り付け上から薄く糊を引いて乾かした後に縫い直す。この洗濯方法を[[洗張]]と呼ぶ。縫い直すときに、服の寸法を直すことや弱くなった所の補修や弱った所を目立たないところに置き換える「繰り回し」などを行うこともある。
; '''夜着畳み''' : 礼装用の着物などで[[刺繍]]や箔などが施されている場合、本畳みでその部分に折り目が付いてしまうことを避けるための畳み方。
; '''絵羽畳み''' : 「仮仕立て」「仮[[和服#女性用の正装の和服|絵羽]]」と呼ばれる仮縫い状態の着物のための畳み方。
; '''肩畳み''' : [[衣桁]]などに仮に掛けたり、一時的に畳んでおく場合の畳み方。背中心から折り込んで衿が肩の方を向く畳み方で、洋服の畳み方に似ている。なお、この畳み方を本畳みであるとする専門家もいる{{要出典|date=2020年11月}}。
; '''袖畳み''' : 日常着などを仮に畳んでおく場合の畳み方。
長襦袢や羽織などは、長着とは別に、それぞれに応じた畳み方がある。


=== 洗濯 ===
現代では、家庭で着物を洗濯することは困難なため、着物のクリーニングを専門に扱うクリーニング店に依頼することが多い。現代では、より安価なドライクリーニングの手法も多用されるようになっている。縮緬や[[綸子]]など高価な[[正絹]]で作られている着物の洗濯は手間がかかるため、洗濯の頻度は低い。一方、[[木綿]]や[[麻]]などで仕立てた普段着は、家庭で容易に洗濯できるものが多い。家庭での洗濯にも耐えるように「水通し」をして、あらかじめ生地を収縮させて仕立てる方法と、洗濯による生地の収縮を見込んだ仕立てを行う方法がある。
着物の洗濯は、伝統的には、すべてほどいてパーツに分解して洗う「'''[[洗張|洗い張り]]'''」で行う。洗い張りのあとは元の形に仕立て直すが、この際に寸法を変えたり、傷んだ部分を目立たない場所に置き換える「'''繰り回し'''」を行うこともある。


現代の家庭においてこの方法で着物を洗濯し、なおかつ縫い直すことは困難であるため、専門業者である「[[悉皆屋]]」に依頼するものとなっている。近年では、着物の形のまま丸洗いする[[ドライクリーニング|クリーニング]]もあり、これは洗い張りよりも安価で済む。
== 右前(右衽)と左前(左衽) ==

[[木綿]]や[[ウール]]などで仕立てられた普段着は、家庭で容易に洗濯できるものが多い。また、[[絹|正絹]]に風合いを似せた、[[ポリエステル]]など[[化学繊維|化繊]]製の「洗える着物」(「通常の洗濯方法で洗える」の意)も増えている。

== 右前(右衽)と左前(左衽) ==
着物を着る際、手を袖に通した後、右の衽<small>(おくみ)</small>を体に付けてから左の衽をそれに重ねる。このことを「右衽<small>(うじん)</small>」という。<!--{ この部分は独自見解では?→ }また、左よりも右を時間的に前に(先に)体に付ける、あるいは-->右の衽が自分から見て左の衽よりも手前側に来ることから、「右前<small>(みぎまえ)</small>」とも呼ぶ。
着物を着る際、手を袖に通した後、右の衽<small>(おくみ)</small>を体に付けてから左の衽をそれに重ねる。このことを「右衽<small>(うじん)</small>」という。<!--{ この部分は独自見解では?→ }また、左よりも右を時間的に前に(先に)体に付ける、あるいは-->右の衽が自分から見て左の衽よりも手前側に来ることから、「右前<small>(みぎまえ)</small>」とも呼ぶ。


死者に[[死に装束]]を着せる場合、通常と反対に「左前」(ひだりまえ)に着せるため、左前は不吉とされる。これは「死後の世界はこの世とは反対になる」という思想があるためであるといわれている。
死者に[[死に装束]]を着せる場合、通常と反対に「左前」(ひだりまえ)に着せるため、左前は不吉とされる。これは「死後の世界はこの世とは反対になる」という思想があるためであるといわれている。


日本で着物をなぜ右前にするのか、またいつから右前にするようになったのかについては、諸説がある。
日本で着物をなぜ右前にするのか、またいつから右前にするようになったのかについては、諸説がある。時期については、『[[続日本紀]]』(しょくにほんぎ)によると、719年に、全ての人が右前に着るという命令が発せられた。これはその当時手本としていた[[中国]]において右前に着ることが定められたのでそれに倣ったものといわれている。中国で左前にすることが嫌われたのは「蛮族の風習であるため」とされたが、この蛮族というのは北方に住む[[遊牧民]]のことで、彼らは狩猟を主な生活として行う上で弓を射やすいという理由で左前に着ていた。[[農耕民]]である[[漢民族]]とは全く違う暮らしをし、しばしば農耕民に対する略奪を行っていた遊牧民は、中国の古代王朝にとっては野蛮で恐るべき存在であり、これと一線を画することを決定したという説がある。それまでは中国でも日本でも左前に着ていた時期が存在する。また一説によると、一般的に右利きが多く、右手で刀を抜きやすいように腰の左側に刀を差すことが多いため、刀を鞘から抜こうとするとき、抜こうとした刀が衿に引っかかってしまうことがないように、右前に着るようになったのだという。


:[[埴輪]]にみられるように、古代においては左前であったとみられる<ref>{{Cite |和書 | title = 服装 1958年5月号 | date = 1958 | publisher = 同志社 }}</ref>。その後、『[[続日本紀]]』(しょくにほんぎ)によると、719年に、全ての人が右前に着るという命令が発せられたという。これはその当時手本としていた[[中国]]において右前に着ることが定められたのでそれに倣ったものといわれている。中国で左前にすることが嫌われたのは「蛮族の風習であるため」とされたが、この蛮族というのは北方に住む[[遊牧民]]のことで、彼らは狩猟を主な生活として行う上で弓を射やすいという理由で左前に着ていた。[[農耕民]]である[[漢民族]]とは全く違う暮らしをし、しばしば農耕民に対する略奪を行っていた遊牧民は、中国の古代王朝にとっては野蛮で恐るべき存在であり、これと一線を画することを決定したという説がある。それまでは中国でも左前に着ていた時期が存在する。
== 脚注 ==

:また一説によると、一般的に右利きが多く、右手で刀を抜きやすいように腰の左側に刀を差すことが多いため、刀を鞘から抜こうとするとき、抜こうとした刀が衿に引っかかってしまうことがないように、右前に着るようになったのだという。

弓による[[狩猟]]を行っていた[[アイヌ]]民族の衣装も本来左前であるが、現在は和服の作法に倣った右前としている。

==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{Reflist}}

== 外部リンク ==
* [https://www.korin-belt.com/ コーリン株式会社]


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[着付け技能士]]
* [[着付け技能士]]
* [[おはしょり]]
* [[抜衣紋]]
* [[抜衣紋]]
* [[和服]]
* [[和裁]]
* [[高倉家]]
* [[高倉家]]
* [[山科家]]
* [[山科家]]

2020年12月16日 (水) 16:17時点における版

1950年代の美容院での花嫁衣装の着付けの様子

着付けとは、和服を美しい着姿に着せ付けること、または着ること[注釈 1]

自分一人だけで行う場合と、他者に着せ付けてもらう場合とがあり、振袖や花嫁衣装など特殊な着付けを要する場合は、一人で着付けることは容易ではない。

着付けの専門的な技能を持つ人を着付師という。着付師による着付けは美容院で行われることが多く、「着付け技能士」という国家資格がある。

時代による変遷

大正時代(1915年頃)の晴れ着の着付け。広い衿合わせで半衿を広く見せ、帯は胸高で、おはしょりは無造作に作ってある。この頃は細い帯締めを斜めにあしらった着姿が多くみられる

おはしょりも参照のこと。

普段着として

明治以降の社会の変容に伴って、着物にも、礼服ほどの格式を必要としない「気軽な外出着」という需要が生まれた。このための女性用のも、重量があって扱いにくい「織り」の丸帯袋帯から、手軽な「染め」の帯や昼夜帯など、より簡便なものが多く用いられるようになり、また、大正中期に名古屋帯が発明されたため、お太鼓などの結び方にも新しい手法が生まれた。

また、大正時代以降は、男女とも「長着が普段ものでも羽織を着れば礼服扱い」となり、日常的に羽織が用いられるようになる[1]

洋装の影響

1957年(昭和32年)のウールきもの。曲線的なラインを出した着付け

大正から昭和初期には、広まり始めた洋装の美意識が着物の着付けにも取り入れられ、洋装のバランスを模して、帯を極端に腰高に締め、下半身をすらりと長く見せる着付けが流行した[1]

昭和25年頃から昭和30年代前半(1950年代)には、既に洋服を着慣れていた女性たちに向けて、ブラジャーやコルセット[注釈 2]スリップなどの洋服の下着を付け、あえて体の線を強調する着付けが盛んに提唱された[注釈 3]。これに伴って、従来は腰骨の位置で締めるものであった腰紐を、洋式にウエストの位置で締めることが推奨された。肌襦袢や長襦袢など、従来の和装用下着をすっかり省いて着付けを簡便にすることも提唱された[1]

現代

昭和30年代後半以降(1960年代以降)は、洋服が一般的な日常着となり、着物は、礼装や晴れ着などとして特別な機会にのみ着るものとなった[注釈 4]。日常生活の中から和装が姿を消し、着付け方法はおろか、和服全般についての家庭内での自然な伝承が途絶したため、「着物の着方」を、着物に詳しい者に一から教わる必要が生じたのである。

こうした、日常生活に必須ではない「教養としての着付け」では、現在まで続く「体のラインを隠すように直線的に着る」という、「洋服にはない、着物ならではの着姿」が推奨されるようになった。腰紐の位置も洋式のウエスト締めから腰骨締めに戻り、「凹凸のない、ずんどうの着物体型」が良しとされて、和装ブラジャーやタオル等による体型補正が生まれた[注釈 5]

こうして着付けは「型を守って行う」ものとなり、着物自体も、気軽には手を出せない難しいものとみなされるようになって、ますます日常生活から離れることとなった[1]

その後、1990年代以降のアンティーク着物ブームによって「ふだん着物」が見直されて以降は、こうした堅苦しい着付け作法に異を唱え、自由に楽に着ようという動きも生まれている[2]。一方、昭和40年代に確立した「正しい着付け」のみを是とし、街中で通りすがりの和装女性に着付けの難を指摘したり直したりする、いわゆる「着物警察」と呼ばれる年配女性も存在し、着物を愛好する者同士のあいだにも派閥や軋轢が生まれている。

着付けの手順

着付師によるものでなく「一人で着る」場合の、現代の標準的な例を示す。

女性

  • 着る前の準備
    • 襦袢、もしくは半襦袢[注釈 6]の衿に半衿を縫いつけておく。近年では専用の両面テープを使う場合もある。
    • 好みで半衿の中に衿芯を差し込む。
    • 和装用ブラジャーや肌襦袢裾除け(蹴出し)などの肌着を着て、必要に応じてタオルなどで体型補正する。
    • 足袋を履く。
  • 長襦袢を着て衣紋を抜き、腰紐で締める[注釈 7]
    • 長襦袢・長着・羽織のいずれも、洋服を着るときのように勢いよく羽織って袖を通すのではなく、下から静かに袖を通す。これは、和服の袖付けは洋服よりも一部分に力がかかりやすく破損しやすいためである。
長着の衣紋を抜き、おはしょりを作っているところ
  • 長着を右前に打ち合わせて腰骨のあたりで腰紐を締め、おはしょりを整え、襦袢の衿に合わせて衣紋を抜く。衿合わせを整え、身八ツ口から手を入れて再びおはしょりを整え、伊達締めで締める。
    • 打ち合わせの深さや衿合わせの角度、衣紋の抜き具合、褄先の上がり具合などは、TPOや年代、好みなどに応じて調整する。茶道などの座礼の場合は、剣先が後ろに回るくらい深く打ち合わせるのが良いとされている。体型ときものの幅が合わない場合は、打ち合わせの深さで調整する。身長と着物の身丈が合わない場合はおはしょりの長さで調整し、おはしょりが作れない場合は対丈(おはしょりを作らない)で着る。
  • 必要や好みに応じて羽織を着る[注釈 9]
    • 羽織を着ない、長着と帯だけの姿は「帯付き」ともいい(男性の場合は「着流し」とも)、男女ともに、場によっては非礼とされることもある。

男性

おはしょりを作らず対丈で着ること以外は女性とほぼ同じであるが、長襦袢と長着とを、着る前に重ね合わせていっぺんに羽織る「一つ前」という着方もある。

子供

腰揚げ・肩揚げの調節により、同じ着物を3歳時と6歳時に着た例

6歳くらいまでの子供用の着物には、一般的に肩揚げ腰揚げがしてある。肩揚げは、肩の部分で布を折り畳んで縫い止め、袖口までの長さを体に合わせて調整するもの。腰揚げも同様に腰の部分で総丈を調整するもので、一見おはしょりに似ているが、着用時に作るおはしょりとは違い、縫い止めて形作ってある。

着付けを容易にするため、長着や襦袢には打ち合わせのための紐をつけておくことが多い。

着物の手入れ

畳み方

本畳み
衽同士を合わせ、ずらしながら背中心で半身に畳む。一般的に正式な畳み方とされている。
夜着畳み
礼装用の着物などで刺繍や箔などが施されている場合、本畳みでその部分に折り目が付いてしまうことを避けるための畳み方。
絵羽畳み
「仮仕立て」「仮絵羽」と呼ばれる仮縫い状態の着物のための畳み方。
肩畳み
衣桁などに仮に掛けたり、一時的に畳んでおく場合の畳み方。背中心から折り込んで衿が肩の方を向く畳み方で、洋服の畳み方に似ている。なお、この畳み方を本畳みであるとする専門家もいる[要出典]
袖畳み
日常着などを仮に畳んでおく場合の畳み方。

長襦袢や羽織などは、長着とは別に、それぞれに応じた畳み方がある。

洗濯

着物の洗濯は、伝統的には、すべてほどいてパーツに分解して洗う「洗い張り」で行う。洗い張りのあとは元の形に仕立て直すが、この際に寸法を変えたり、傷んだ部分を目立たない場所に置き換える「繰り回し」を行うこともある。

現代の家庭においてこの方法で着物を洗濯し、なおかつ縫い直すことは困難であるため、専門業者である「悉皆屋」に依頼するものとなっている。近年では、着物の形のまま丸洗いするクリーニングもあり、これは洗い張りよりも安価で済む。

木綿ウールなどで仕立てられた普段着は、家庭で容易に洗濯できるものが多い。また、正絹に風合いを似せた、ポリエステルなど化繊製の「洗える着物」(「通常の洗濯方法で洗える」の意)も増えている。

右前(右衽)と左前(左衽)

着物を着る際、手を袖に通した後、右の衽(おくみ)を体に付けてから左の衽をそれに重ねる。このことを「右衽(うじん)」という。右の衽が自分から見て左の衽よりも手前側に来ることから、「右前(みぎまえ)」とも呼ぶ。

死者に死に装束を着せる場合、通常と反対に「左前」(ひだりまえ)に着せるため、左前は不吉とされる。これは「死後の世界はこの世とは反対になる」という思想があるためであるといわれている。

日本で着物をなぜ右前にするのか、またいつから右前にするようになったのかについては、諸説がある。

埴輪にみられるように、古代においては左前であったとみられる[3]。その後、『続日本紀』(しょくにほんぎ)によると、719年に、全ての人が右前に着るという命令が発せられたという。これはその当時手本としていた中国において右前に着ることが定められたのでそれに倣ったものといわれている。中国で左前にすることが嫌われたのは「蛮族の風習であるため」とされたが、この蛮族というのは北方に住む遊牧民のことで、彼らは狩猟を主な生活として行う上で弓を射やすいという理由で左前に着ていた。農耕民である漢民族とは全く違う暮らしをし、しばしば農耕民に対する略奪を行っていた遊牧民は、中国の古代王朝にとっては野蛮で恐るべき存在であり、これと一線を画することを決定したという説がある。それまでは中国でも左前に着ていた時期が存在する。
また一説によると、一般的に右利きが多く、右手で刀を抜きやすいように腰の左側に刀を差すことが多いため、刀を鞘から抜こうとするとき、抜こうとした刀が衿に引っかかってしまうことがないように、右前に着るようになったのだという。

弓による狩猟を行っていたアイヌ民族の衣装も本来左前であるが、現在は和服の作法に倣った右前としている。

脚注

注釈

  1. ^ 「装道」という言葉があるが、これは1970年代に一企業が商標登録したものであり、着付けを指す一般的な語ではない。
  2. ^ 現代でいうウエストニッパーに近いが、ほぼ全体がゴム製の、腰回りを抑えるファウンデーションガーターベルトが付属することもあった。当時は洋装の下着にはブラジャーと並んでこのコルセットが必須とされていた。
  3. ^ 昭和32年の『主婦の友』4月号には、「体の美しい線を出す新しい装い方」という記事が掲載されている。
  4. ^ 「晴れ着」という語が登場したのはこの頃からであるが、以降、「晴れ着」と「和服」の同一視など、和装の衰退に伴う用語の混同もみられるようになる。
  5. ^ この頃、着付けのためのさまざまなアイデア商品が生まれた。現在では使われなくなったものも多いが、上述の和装用ブラジャー、メッシュの帯板や衿芯、コーリンベルト(腰紐として使う、ゴムベルトの両端にクリップがついたもの)などは現在もよく使われている。
  6. ^ 長襦袢の代わりに、半襦袢と裾よけからなる「二部式襦袢」もよく用いられる。
  7. ^ 腰紐や伊達締めは、結び目がごろつかないよう、結ばずに2回絡げて交差させ、余った部分は挟み込むのが伝統的な締め方である。
  8. ^ 帯締めは、若年者では上寄り、年配者では下寄りに締めるのが良いとされているが、これも昭和30年代後半以降に確立した慣例であり、それ以前は好みによって自由に締められていた。
  9. ^ 羽織は、首元で衿を半分外側に折り返し、衿全体が自然に折り返るように着る。折り返しやすいように衿首の部分に千鳥がけが施されていることも多い。羽織紐はたらしたままにせず必ず結ぶ。

出典

  1. ^ a b c d 小泉和子編『昭和のキモノ』河出書房新社〈らんぷの本〉、2006年5月30日。ISBN 9784309727523 
  2. ^ やっぱり着物はしょせん服です。~「高円寺リサイクル着物処豆ぶどう」の店主の何でも着物の日々~”. 2020年11月26日閲覧。
  3. ^ 『服装 1958年5月号』同志社、1958年。 

外部リンク

関連項目