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伝説によれば、[[奈良盆地]]一帯が湖であった頃、対岸の[[当麻]]の[[ヘビ]]と川原の[[ナマズ]]の争いの結果前者が勝ち、水を吸い取られた結果、干上がってしまい、湖のカメはみんな死んでしまった。これを哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って供養をしたという。亀石は最初は北を向いていたが、次に東を向いたという。そして、現在は南西を向いているが、当麻の方向の西に向いた時、奈良盆地は一円泥の海と化すと伝えられている<ref>[https://asukamura.com/?page_id=351 明日香村観光ポータルサイト 旅する飛鳥「亀石」]2019年8月5日閲覧</ref>。実際に、亀の背地すべり地区の調査で、古代には地すべりで[[大和川]]がせき止められ、亀の背地区からかなり上流まで湖水状になっていたことがある<ref>{{Cite journal |和書|author=高田理夫 |authorlink=高田理夫 |title=亀の瀬地域の地すべりについて |date=1964 |publisher= 公益社団法人 日本地すべり学会|journal= 地すべり|volume=1 |issue=2 |issn =1884-3956 | |
伝説によれば、[[奈良盆地]]一帯が湖であった頃、対岸の[[当麻]]の[[ヘビ]]と川原の[[ナマズ]]の争いの結果前者が勝ち、水を吸い取られた結果、干上がってしまい、湖のカメはみんな死んでしまった。これを哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って供養をしたという。亀石は最初は北を向いていたが、次に東を向いたという。そして、現在は南西を向いているが、当麻の方向の西に向いた時、奈良盆地は一円泥の海と化すと伝えられている<ref>[https://asukamura.com/?page_id=351 明日香村観光ポータルサイト 旅する飛鳥「亀石」]2019年8月5日閲覧</ref>。実際に、亀の背地すべり地区の調査で、古代には地すべりで[[大和川]]がせき止められ、亀の背地区からかなり上流まで湖水状になっていたことがある<ref>{{Cite journal |和書|author=高田理夫 |authorlink=高田理夫 |title=亀の瀬地域の地すべりについて |date=1964 |publisher= 公益社団法人 日本地すべり学会|journal= 地すべり|volume=1 |issue=2 |issn =1884-3956 |doi=10.3313/jls1964.1.2_61|naid= |url = https://doi.org/10.3313/jls1964.1.2_61|accessdate = 2019-10-20|pages= 61-63|ref= }}</ref>。 |
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2020年1月25日 (土) 07:54時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f5/Kameishi.jpg/300px-Kameishi.jpg)
亀石(かめいし)
亀石(かめいし)とは、奈良県高市郡明日香村川原にある石造物。益田岩船や酒船石と並び、飛鳥の石造物の代表的な遺跡として知られる。
形状
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Kameisi_02.jpg/300px-Kameisi_02.jpg)
長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。そのユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている。
亀石と呼ばれているが、亀であれば顔は楕円形で目は横に付くが、顔が三角形であることや目が上に飛び出しているなど、むしろカエルだとの説がある[1][2]。しかし、「野中寺旧伽藍跡」の塔舎利心礎に同様のレリーフ加工がされていたことから、亀石も亀を表した説が大きくなっている[3][注釈 1]。顔部分の仕上げは丁寧だが、背などは手を加えられておらず、下腹部東半面には、益田岩船と同様の格子状の溝がある[2][4]。上部が自然石のままで下面東半分が格子状、西半分が平面に加工されていると指摘し、現在の下面が本来の上面で実は上下逆であったという説も奈良国立文化財研究所の報告書で出されてはいるが[4]、有力視はされていない[3]。
建造時期・目的
建造時期、目的共に不明で、いくつかの説が出されているものの、結論は出ていない。
- 川原寺の所領の西南隅を示す石標[5]、条里の境界[2]
- 猿石未完の像という説[2]
- 大化3年(647年)新羅の金春秋王子の外交使節としての来朝時に歓迎用に、新羅渡来石工により造形して設置し、周囲で舞楽をした[6]。
- 仏教伝来以前の土着信仰の対象物(神像)[要出典]
- 斉明天皇の時代にグリフィン像を造ろうとしたが加工途中で放棄されたもの[7]
伝説
伝説によれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻のヘビと川原のナマズの争いの結果前者が勝ち、水を吸い取られた結果、干上がってしまい、湖のカメはみんな死んでしまった。これを哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って供養をしたという。亀石は最初は北を向いていたが、次に東を向いたという。そして、現在は南西を向いているが、当麻の方向の西に向いた時、奈良盆地は一円泥の海と化すと伝えられている[8]。実際に、亀の背地すべり地区の調査で、古代には地すべりで大和川がせき止められ、亀の背地区からかなり上流まで湖水状になっていたことがある[9]。
脚注
注釈
出典
- ^ 奧田尚『石の考古学』学生社 2002年 p.226
- ^ a b c d 井上光貞、門脇禎二『飛鳥』吉川弘文館 1987年 p.279-280
- ^ a b c 河上 2003第1章4節
- ^ a b 奈良国立文化財研究所編『川原寺発掘調査報告』奈良文化財研究所学報第9冊 1981年、p.53
- ^ 奈良国立文化財研究所編『川原寺発掘調査報告』奈良文化財研究所学報第9冊 1981年、p.50-51
- ^ 門脇禎二『新版 明日香 - その古代史と風土』NHKブックス 1977年、p.212-216
- ^ 松本清張による説
- ^ 明日香村観光ポータルサイト 旅する飛鳥「亀石」2019年8月5日閲覧
- ^ 高田理夫「亀の瀬地域の地すべりについて」『地すべり』第1巻第2号、公益社団法人 日本地すべり学会、1964年、61-63頁、doi:10.3313/jls1964.1.2_61、ISSN 1884-3956、2019年10月20日閲覧。
参考文献
- 河上邦彦『飛鳥を掘る』講談社〈講談社選書メチエ〉、2003年。ISBN 4-06-258258-9。
関連項目
外部リンク
- 奈良県観光公式サイト 亀石なら旅ネット
座標: 北緯34度28分16秒 東経135度48分41.8秒 / 北緯34.47111度 東経135.811611度