「タマン (香港)」の版間の差分
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1513年5月、ポルトガルの探検家[[ジョルジ・アルヴァレス]]が[[珠江デルタ]]に到達し、そこのある島を「タマン」と名付けた。これはおそらく、それ以前から[[香港島]]や[[深セン市|深圳]]の西側の地域につけられていた「[[屯門]]」という地名の転訛であると考えられている<ref>{{Cite journal|last=Braga|first=J. M.|year=1956|title=China Landfall 1513, Jorge Alvares Voyage to China|publisher=Imprensa Nacional|location=Macau| |
1513年5月、ポルトガルの探検家[[ジョルジ・アルヴァレス]]が[[珠江デルタ]]に到達し、そこのある島を「タマン」と名付けた。これはおそらく、それ以前から[[香港島]]や[[深セン市|深圳]]の西側の地域につけられていた「[[屯門]]」という地名の転訛であると考えられている<ref>{{Cite journal|last=Braga|first=J. M.|year=1956|title=China Landfall 1513, Jorge Alvares Voyage to China|publisher=Imprensa Nacional|location=Macau|oclc=10673337}}.</ref>。そのため、一般には現在の[[香港]]・[[新界]]の屯門とタマンを結び付けて認識されている。中国側の史料では、ポルトガル人は「屯門澳」付近に入植したと記録されているが、この場所の正確な位置は分かっておらず、現在でも歴史家の間で議論が続いている。これを屯門付近にある2つの湾、すなわち現在の[[屯門新市鎮]]に近い[[青山湾]]と、[[新界]]と[[南東 (深圳)|南東]](現在の深圳市[[南山区 (深セン市)|南山区]])の間に位置する[[后海湾]](深圳湾)のどちらかに比定されることが多い。後者には明の防衛隊が駐留していた<ref>{{Cite book|last=Lau|author=|first=Chi-pang|title=屯門: 香港地區史研究之四|date=|year=2012|accessdate=|publisher=Joint Publishing|language=Chinese|isbn=9789620431470|page=35|location=Hong Kong|last2=Liu|author2=|first2=Shuyong|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|trans_title=History of Tuen Mun}}</ref>。 |
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ポルトガル側の文献でタマンが島と記録されていることも後代の研究者を混乱させる一因となっている。屯門は島ではないため、研究者の間では、タマンとは別の近くにある島を指しているのではないかという説が挙がっている。J・M・ブラガはポルトガルの文献に登場するタマンを[[内伶テイ島|内伶仃島]]に比定し、この説が西洋の学界では定説となっている。しかし最近では中国の学界から、この説は史実的な裏付けが不十分であるとして、より大きな[[大嶼島]]と結びつけるなどいくつかの異説が登場している<ref>{{Cite book|last=Jin|first=Guoping|title=Xili dongjian : Zhong-Pu zaoqi jiechu zhuixi|url=http://library.umac.mo/ebooks/b14413462.pdf|format=PDF|date=2000|publisher=Macao Foundation|language=Chinese|isbn=9993710075|pages=21–42|location=Macau}}</ref>。 |
ポルトガル側の文献でタマンが島と記録されていることも後代の研究者を混乱させる一因となっている。屯門は島ではないため、研究者の間では、タマンとは別の近くにある島を指しているのではないかという説が挙がっている。J・M・ブラガはポルトガルの文献に登場するタマンを[[内伶テイ島|内伶仃島]]に比定し、この説が西洋の学界では定説となっている。しかし最近では中国の学界から、この説は史実的な裏付けが不十分であるとして、より大きな[[大嶼島]]と結びつけるなどいくつかの異説が登場している<ref>{{Cite book|last=Jin|first=Guoping|title=Xili dongjian : Zhong-Pu zaoqi jiechu zhuixi|url=http://library.umac.mo/ebooks/b14413462.pdf|format=PDF|date=2000|publisher=Macao Foundation|language=Chinese|isbn=9993710075|pages=21–42|location=Macau}}</ref>。 |
2020年1月25日 (土) 17:51時点における版
Tamão 屯門 | ||
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貿易拠点 | ||
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国家 | ポルトガル海上帝国 | |
成立 | 1514年 | |
廃止 | 1521年 | |
創設者 | ジョルジ・アルヴァレス |
タマン | |
繁体字 | 屯門 |
---|---|
簡体字 | 屯门 |
漢語拼音 | Tún Mén |
イェール粤拼 | Tyùhn mùhn |
粤拼 | Tyun4 mun4 |
屯門澳 | |
繁体字 | 屯門澳 |
簡体字 | 屯门澳 |
漢語拼音 | Tún Mén Ào |
イェール粤拼 | Tyùhn mùhn ou |
粤拼 | Tyun4 mun4 ou3 |
タマン[1] (ポルトガル語: Tamão) は、ポルトガル人が16世紀前半の一時期に中国・珠江デルタ内の島に建設したとされる貿易拠点。喜望峰まわりで東洋に進出したヨーロッパ人が最初に中国に到達した場所である[2]。この入植地は1514年に建設されたが、1521年に明の海軍により排除された[3]。
位置
1513年5月、ポルトガルの探検家ジョルジ・アルヴァレスが珠江デルタに到達し、そこのある島を「タマン」と名付けた。これはおそらく、それ以前から香港島や深圳の西側の地域につけられていた「屯門」という地名の転訛であると考えられている[4]。そのため、一般には現在の香港・新界の屯門とタマンを結び付けて認識されている。中国側の史料では、ポルトガル人は「屯門澳」付近に入植したと記録されているが、この場所の正確な位置は分かっておらず、現在でも歴史家の間で議論が続いている。これを屯門付近にある2つの湾、すなわち現在の屯門新市鎮に近い青山湾と、新界と南東(現在の深圳市南山区)の間に位置する后海湾(深圳湾)のどちらかに比定されることが多い。後者には明の防衛隊が駐留していた[5]。
ポルトガル側の文献でタマンが島と記録されていることも後代の研究者を混乱させる一因となっている。屯門は島ではないため、研究者の間では、タマンとは別の近くにある島を指しているのではないかという説が挙がっている。J・M・ブラガはポルトガルの文献に登場するタマンを内伶仃島に比定し、この説が西洋の学界では定説となっている。しかし最近では中国の学界から、この説は史実的な裏付けが不十分であるとして、より大きな大嶼島と結びつけるなどいくつかの異説が登場している[6]。
脚注
- ^ “マカオ千夜一夜≪ 1 ≫「マカオ」以前の話…ポルトガルとマカオの不思議な関係”. マカオ観光局. 2018年12月24日閲覧。
- ^ Construction of Lung Kwu Chau Jetty - Cultural Heritage Impact Assessment
- ^ Porter, Jonathan (1996). Macau, the Imaginary City: Culture and Society, 1557 to the Present. Westview Press. ISBN 0813328365
- ^ Braga, J. M. (1956). China Landfall 1513, Jorge Alvares Voyage to China. Macau: Imprensa Nacional. OCLC 10673337..
- ^ Lau, Chi-pang; Liu, Shuyong (2012) (Chinese). 屯門: 香港地區史研究之四. Hong Kong: Joint Publishing. p. 35. ISBN 9789620431470
- ^ Jin, Guoping (2000) (Chinese) (PDF). Xili dongjian : Zhong-Pu zaoqi jiechu zhuixi. Macau: Macao Foundation. pp. 21–42. ISBN 9993710075