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== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== クラブ ===
=== クラブ ===
[[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]でキャリアをスタート、1987-88シーズンのリーグ優勝をディフェンスの要で迎える。翌シーズン終了後に[[ウディネーゼ・カルチョ]]へと旅立つと初めてのワールドカップを挟み、4シーズンプレーし、[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマAC]]へ移籍する。ここでチームのディフェンスの要へと成長すると1998-99シーズンに[[コッパ・イタリア]]と[[UEFAカップ1998-99|UEFAカップ]]制覇の2冠を経験する。
[[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]でキャリアをスタート、1987-88シーズンのリーグ優勝をディフェンスの要で迎える。翌シーズン終了後に[[ウディネーゼ・カルチョ]]へと旅立つと初めてのワールドカップを挟み、4シーズンプレーし、[[パルマ・カルチョ1913|パルマAC]]へ移籍する。ここでチームのディフェンスの要へと成長すると1998-99シーズンに[[コッパ・イタリア]]と[[UEFAカップ1998-99|UEFAカップ]]制覇の2冠を経験する。


翌シーズン[[SSラツィオ]]でスクデットを獲得。その後パルマへ戻り、2シーズンを過ごした。その後古巣ウディネーゼへと復帰し、ディフェンスの要として活躍。2005-06シーズン途中に選手兼監督就任の要請を受けるも監督業一本に絞るために現役を引退。
翌シーズン[[SSラツィオ]]でスクデットを獲得。その後パルマへ戻り、2シーズンを過ごした。その後古巣ウディネーゼへと復帰し、ディフェンスの要として活躍。2005-06シーズン途中に選手兼監督就任の要請を受けるも監督業一本に絞るために現役を引退。
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=== 指導者 ===
=== 指導者 ===
2006年2月10日、当時監督ライセンスを持っていなかったセンシーニは、[[セルセ・コズミ]]の後任として[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマAC]]を[[ロリス・ドミニッシーニ]]との共同監督として率いるも、低迷を阻止する事は出来ず、シーズン途中で退任しクラブを去った。
2006年2月10日、当時監督ライセンスを持っていなかったセンシーニは、[[セルセ・コズミ]]の後任として[[パルマ・カルチョ1913|パルマAC]]を[[ロリス・ドミニッシーニ]]との共同監督として率いるも、低迷を阻止する事は出来ず、シーズン途中で退任しクラブを去った。


その後アルゼンチンに帰国し、2007年には[[ディエゴ・シメオネ]]の後任として[[エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ]]の監督に就任した。2009年からは2011年までは古巣ニューウェルスで指揮を執った。
その後アルゼンチンに帰国し、2007年には[[ディエゴ・シメオネ]]の後任として[[エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ]]の監督に就任した。2009年からは2011年までは古巣ニューウェルスで指揮を執った。

2020年2月4日 (火) 11:54時点における版

ネストル・センシーニ
名前
本名 ロベルト・ネストル・センシーニ
Roberto Néstor Sensini
ラテン文字 Néstor SENSINI
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1966-12-10) 1966年12月10日(57歳)
出身地 アローヨ・セコスペイン語版
身長 178cm
体重 75kg
選手情報
ポジション DF / MF (DH)
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1986-1989 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ 74 (2)
1989-1993 イタリアの旗 ウディネーゼ 149 (9)
1993-1999 イタリアの旗 パルマ 156 (11)
1999-2000 イタリアの旗 ラツィオ 24 (1)
2000-2002 イタリアの旗 パルマ 35 (0)
2002-2006 イタリアの旗 ウディネーゼ 91 (7)
代表歴
1987-2000 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 60 (0)
監督歴
2006 イタリアの旗 ウディネーゼ
2007-2008 アルゼンチンの旗 エストゥディアンテス
2009-2011 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ
2012-2013 アルゼンチンの旗 コロン
2014-2015 アルゼンチンの旗 アトレティコ・デ・ラファエラ
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1996 アトランタ サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ロベルト・ネストル・センシーニRoberto Néstor Sensini, 1966年12月10日 - )は、アルゼンチン出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。抜群の判断力とディフェンス能力が持ち味で、ボランチ、両サイドバック、センターバック等、ディフェンシブなポジションなら何処でもこなすユーティリティープレーヤーである。

経歴

クラブ

ニューウェルズ・オールドボーイズでキャリアをスタート、1987-88シーズンのリーグ優勝をディフェンスの要で迎える。翌シーズン終了後にウディネーゼ・カルチョへと旅立つと初めてのワールドカップを挟み、4シーズンプレーし、パルマACへ移籍する。ここでチームのディフェンスの要へと成長すると1998-99シーズンにコッパ・イタリアUEFAカップ制覇の2冠を経験する。

翌シーズンSSラツィオでスクデットを獲得。その後パルマへ戻り、2シーズンを過ごした。その後古巣ウディネーゼへと復帰し、ディフェンスの要として活躍。2005-06シーズン途中に選手兼監督就任の要請を受けるも監督業一本に絞るために現役を引退。

代表

代表としては1987年ドイツ戦でデビュー、その後ディフェンスリーダーとして、FIFAワールドカップに3大会連続(199019941998)で出場した。1990年大会は決勝では ペナルティエリアで西ドイツのルディー・フェラーを倒してしまい、PKを献上、これをアンドレス・ブレーメに決めれれて、アルゼンチンはワールドカップ連覇を逃した。1996年にはオーバーエイジでアトランタオリンピックに参加、決勝でナイジェリアに敗れたが、銀メダルを手にした。2002 FIFAワールドカップ・南米予選にも出場したが、本大会メンバーからは外れた。

指導者

2006年2月10日、当時監督ライセンスを持っていなかったセンシーニは、セルセ・コズミの後任としてパルマACロリス・ドミニッシーニとの共同監督として率いるも、低迷を阻止する事は出来ず、シーズン途中で退任しクラブを去った。

その後アルゼンチンに帰国し、2007年にはディエゴ・シメオネの後任としてエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタの監督に就任した。2009年からは2011年までは古巣ニューウェルスで指揮を執った。

2012年2月21日、CAコロンの監督に就任。