「ネストル・センシーニ」の版間の差分
20行目: | 20行目: | ||
|年1=1986-1989|クラブ1={{Flagicon|ARG}} [[ニューウェルズ・オールドボーイズ|ニューウェルズ]]|出場1=74|得点1=2 |
|年1=1986-1989|クラブ1={{Flagicon|ARG}} [[ニューウェルズ・オールドボーイズ|ニューウェルズ]]|出場1=74|得点1=2 |
||
|年2=1989-1993|クラブ2={{Flagicon|ITA}} [[ウディネーゼ・カルチョ|ウディネーゼ]]|出場2=149|得点2=9 |
|年2=1989-1993|クラブ2={{Flagicon|ITA}} [[ウディネーゼ・カルチョ|ウディネーゼ]]|出場2=149|得点2=9 |
||
|年3=1993-1999|クラブ3={{Flagicon|ITA}} [[ |
|年3=1993-1999|クラブ3={{Flagicon|ITA}} [[パルマ・カルチョ1913|パルマ]]|出場3=156|得点3=11 |
||
|年4=1999-2000|クラブ4={{Flagicon|ITA}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]|出場4=24|得点4=1 |
|年4=1999-2000|クラブ4={{Flagicon|ITA}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]|出場4=24|得点4=1 |
||
|年5=2000-2002|クラブ5={{Flagicon|ITA}} パルマ|出場5=35|得点5=0 |
|年5=2000-2002|クラブ5={{Flagicon|ITA}} パルマ|出場5=35|得点5=0 |
||
42行目: | 42行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
=== クラブ === |
=== クラブ === |
||
[[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]でキャリアをスタート、1987-88シーズンのリーグ優勝をディフェンスの要で迎える。翌シーズン終了後に[[ウディネーゼ・カルチョ]]へと旅立つと初めてのワールドカップを挟み、4シーズンプレーし、[[ |
[[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]でキャリアをスタート、1987-88シーズンのリーグ優勝をディフェンスの要で迎える。翌シーズン終了後に[[ウディネーゼ・カルチョ]]へと旅立つと初めてのワールドカップを挟み、4シーズンプレーし、[[パルマ・カルチョ1913|パルマAC]]へ移籍する。ここでチームのディフェンスの要へと成長すると1998-99シーズンに[[コッパ・イタリア]]と[[UEFAカップ1998-99|UEFAカップ]]制覇の2冠を経験する。 |
||
翌シーズン[[SSラツィオ]]でスクデットを獲得。その後パルマへ戻り、2シーズンを過ごした。その後古巣ウディネーゼへと復帰し、ディフェンスの要として活躍。2005-06シーズン途中に選手兼監督就任の要請を受けるも監督業一本に絞るために現役を引退。 |
翌シーズン[[SSラツィオ]]でスクデットを獲得。その後パルマへ戻り、2シーズンを過ごした。その後古巣ウディネーゼへと復帰し、ディフェンスの要として活躍。2005-06シーズン途中に選手兼監督就任の要請を受けるも監督業一本に絞るために現役を引退。 |
||
51行目: | 51行目: | ||
=== 指導者 === |
=== 指導者 === |
||
2006年2月10日、当時監督ライセンスを持っていなかったセンシーニは、[[セルセ・コズミ]]の後任として[[ |
2006年2月10日、当時監督ライセンスを持っていなかったセンシーニは、[[セルセ・コズミ]]の後任として[[パルマ・カルチョ1913|パルマAC]]を[[ロリス・ドミニッシーニ]]との共同監督として率いるも、低迷を阻止する事は出来ず、シーズン途中で退任しクラブを去った。 |
||
その後アルゼンチンに帰国し、2007年には[[ディエゴ・シメオネ]]の後任として[[エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ]]の監督に就任した。2009年からは2011年までは古巣ニューウェルスで指揮を執った。 |
その後アルゼンチンに帰国し、2007年には[[ディエゴ・シメオネ]]の後任として[[エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ]]の監督に就任した。2009年からは2011年までは古巣ニューウェルスで指揮を執った。 |
2020年2月4日 (火) 11:54時点における版
![]() |
| ||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||||||||||
本名 |
ロベルト・ネストル・センシーニ Roberto Néstor Sensini | |||||||||||||
ラテン文字 | Néstor SENSINI | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 |
![]() ![]() | |||||||||||||
生年月日 | 1966年12月10日(57歳) | |||||||||||||
出身地 | アローヨ・セコ | |||||||||||||
身長 | 178cm | |||||||||||||
体重 | 75kg | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | DF / MF (DH) | |||||||||||||
利き足 | 右足 | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1986-1989 |
![]() | 74 | (2) | |||||||||||
1989-1993 |
![]() | 149 | (9) | |||||||||||
1993-1999 |
![]() | 156 | (11) | |||||||||||
1999-2000 |
![]() | 24 | (1) | |||||||||||
2000-2002 |
![]() | 35 | (0) | |||||||||||
2002-2006 |
![]() | 91 | (7) | |||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||
1987-2000 |
![]() | 60 | (0) | |||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
2006 |
![]() | |||||||||||||
2007-2008 |
![]() | |||||||||||||
2009-2011 |
![]() | |||||||||||||
2012-2013 |
![]() | |||||||||||||
2014-2015 |
![]() | |||||||||||||
| ||||||||||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ロベルト・ネストル・センシーニ(Roberto Néstor Sensini, 1966年12月10日 - )は、アルゼンチン出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。抜群の判断力とディフェンス能力が持ち味で、ボランチ、両サイドバック、センターバック等、ディフェンシブなポジションなら何処でもこなすユーティリティープレーヤーである。
経歴
クラブ
ニューウェルズ・オールドボーイズでキャリアをスタート、1987-88シーズンのリーグ優勝をディフェンスの要で迎える。翌シーズン終了後にウディネーゼ・カルチョへと旅立つと初めてのワールドカップを挟み、4シーズンプレーし、パルマACへ移籍する。ここでチームのディフェンスの要へと成長すると1998-99シーズンにコッパ・イタリアとUEFAカップ制覇の2冠を経験する。
翌シーズンSSラツィオでスクデットを獲得。その後パルマへ戻り、2シーズンを過ごした。その後古巣ウディネーゼへと復帰し、ディフェンスの要として活躍。2005-06シーズン途中に選手兼監督就任の要請を受けるも監督業一本に絞るために現役を引退。
代表
代表としては1987年のドイツ戦でデビュー、その後ディフェンスリーダーとして、FIFAワールドカップに3大会連続(1990・1994・1998)で出場した。1990年大会は決勝では ペナルティエリアで西ドイツのルディー・フェラーを倒してしまい、PKを献上、これをアンドレス・ブレーメに決めれれて、アルゼンチンはワールドカップ連覇を逃した。1996年にはオーバーエイジでアトランタオリンピックに参加、決勝でナイジェリアに敗れたが、銀メダルを手にした。2002 FIFAワールドカップ・南米予選にも出場したが、本大会メンバーからは外れた。
指導者
2006年2月10日、当時監督ライセンスを持っていなかったセンシーニは、セルセ・コズミの後任としてパルマACをロリス・ドミニッシーニとの共同監督として率いるも、低迷を阻止する事は出来ず、シーズン途中で退任しクラブを去った。
その後アルゼンチンに帰国し、2007年にはディエゴ・シメオネの後任としてエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタの監督に就任した。2009年からは2011年までは古巣ニューウェルスで指揮を執った。
2012年2月21日、CAコロンの監督に就任。