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セリエA昇格後もゴールを量産し、1993-94シーズンより[[ASローマ]]へ加入。翌シーズンに加入した[[ダニエル・フォンセカ]]と絶妙のコンビで、この年の得点ランク2位となる22ゴールを記録した。1997-98シーズンにはキャプテンを務めるなど、若き[[フランチェスコ・トッティ]]らと共にローマを牽引した。
セリエA昇格後もゴールを量産し、1993-94シーズンより[[ASローマ]]へ加入。翌シーズンに加入した[[ダニエル・フォンセカ]]と絶妙のコンビで、この年の得点ランク2位となる22ゴールを記録した。1997-98シーズンにはキャプテンを務めるなど、若き[[フランチェスコ・トッティ]]らと共にローマを牽引した。


その後移籍した[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマAC]]ではあまりゴールを残せなかったものの、[[UEFAカップ1998-99|UEFAカップ]]、[[コッパ・イタリア]]の二冠を達成。復帰したローマでも[[セリエA (サッカー)#スクデット|スクデット]]を掲げている。セリエA通算117ゴールは同胞の[[ガブリエル・バティストゥータ]]に抜かれるまで、セリエA外国人最多記録であった。
その後移籍した[[パルマ・カルチョ1913|パルマAC]]ではあまりゴールを残せなかったものの、[[UEFAカップ1998-99|UEFAカップ]]、[[コッパ・イタリア]]の二冠を達成。復帰したローマでも[[セリエA (サッカー)#スクデット|スクデット]]を掲げている。セリエA通算117ゴールは同胞の[[ガブリエル・バティストゥータ]]に抜かれるまで、セリエA外国人最多記録であった。


==アルゼンチン代表経歴==
==アルゼンチン代表経歴==

2020年2月4日 (火) 12:17時点における版

アベル・バルボ
名前
本名 アベル・エドゥアルド・バルボ
Abel Eduardo Balbo
ラテン文字 Abel BALBO
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1966-06-01) 1966年6月1日(58歳)
出身地 エンパルメ・ビジャ・コンスティトゥシオンスペイン語版
身長 180cm
体重 78kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1987-1988 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ・オールドボーイズ 23 (9)
1988-1989 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 38 (12)
1989-1993 イタリアの旗 ウディネーゼ 134 (65)
1993-1998 イタリアの旗 ローマ 171 (78)
1998-1999 イタリアの旗 パルマ 25 (4)
1999-2000 イタリアの旗 フィオレンティーナ 19 (3)
2000-2002 イタリアの旗 ローマ 3 (0)
2002 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 4 (0)
通算 417 (171)
代表歴
1989-1998 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 37 (11)
監督歴
2009 イタリアの旗 トレヴィーゾ
2010-2011 イタリアの旗 アレッツォ
2012 イタリアの旗 アレッツォ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アベル・エドゥアルド・バルボAbel Eduardo Balbo, 1966年6月1日 - )は、アルゼンチンサンタフェ州エンパルメ・ビジャ・コンスティトゥシオン出身の元同国代表のサッカー選手、指導者、解説者である。

略歴

1987年に母国のニューウェルズ・オールドボーイズでキャリアをスタートさせ、その年のリーグ優勝に貢献。引き抜かれたCAリーベル・プレートでも活躍し、翌シーズンからセリエAへ戦いの場を移した。ウディネーゼ・カルチョでの1年目、チームはセリエBに降格するが、バルボ自身は11ゴールと活躍、セリエBでは22ゴールを挙げ、得点王を獲得している。

セリエA昇格後もゴールを量産し、1993-94シーズンよりASローマへ加入。翌シーズンに加入したダニエル・フォンセカと絶妙のコンビで、この年の得点ランク2位となる22ゴールを記録した。1997-98シーズンにはキャプテンを務めるなど、若きフランチェスコ・トッティらと共にローマを牽引した。

その後移籍したパルマACではあまりゴールを残せなかったものの、UEFAカップコッパ・イタリアの二冠を達成。復帰したローマでもスクデットを掲げている。セリエA通算117ゴールは同胞のガブリエル・バティストゥータに抜かれるまで、セリエA外国人最多記録であった。

アルゼンチン代表経歴

アルゼンチン代表では、1989年コロンビアとの親善試合でデビュー。 同年のコパ・アメリカでもメンバーに選ばれている。 1990年1994年1998年ワールドカップに3大会連続で出場。1994年アメリカ大会ではクラウディオ・カニーヒア、バティストゥータらと攻撃を活性化、全試合にスタメン出場、ルーマニア戦でゴールをあげた。

しばらく代表を離れていたが、1998年フランス大会では、大会直前にサプライズ選出されクラウディオ・ロペスとの交代出場で、日本戦、オランダ戦にも途中出場するなど、ワールドカップ通算7試合1得点、代表通算では37試合出場11得点をあげている。

引退後

2002年ボカ・ジュニアーズで4試合に出場し、引退。現役時代に語っていた「サッカー選手になっていなかったら、歌手を目指していた。」[1]との言葉通り歌手になり、もうひとつの夢をかなえた。

2007年UEFAのコーチングライセンスを取得。その後、RAI Radio1(イタリアのFMラジオ局)でサッカー解説者となった。

2009年2月24日ルカ・ゴッティの後任としてセリエBで下位に喘いでいたASDトレヴィーゾ2009の監督に就任したが、わずか4週間後の3月18日、チームのプロフェッショナリズムの欠如を理由に辞任した。

熱心なカトリック信者としても知られる。

脚注

  1. ^ footy - 1997.6

外部リンク