「大阪市立聖賢小学校」の版間の差分
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2020年3月23日 (月) 16:12時点における版
大阪市立聖賢小学校 | |
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過去の名称 |
東成郡鯰江尋常小学校分教場 東成郡鯰江第二尋常小学校 大阪市鯰江第二尋常小学校 大阪市聖賢国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 大阪市 |
設立年月日 | 1918年4月1日 |
創立者 | 東成郡鯰江村 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
所在地 | 〒536-0015 |
外部リンク | 公式サイト |
プロジェクト:学校/小学校テンプレート |
大阪市立聖賢小学校(おおさかしりつ せいけん しょうがっこう)は、大阪府大阪市城東区にある公立小学校。
学校名は、地域を流れていた鯰江川(現在は埋め立てられている)にかかっていた「聖賢橋」からとられた。
沿革
当時の東成郡鯰江村に1915年、東成郡鯰江尋常小学校(現在の大阪市立鯰江小学校)の分教場として設置されたことが、学校の始まりとなっている。その後1918年に東成郡鯰江第二尋常小学校として独立校となった。
1934年の室戸台風では校舎が倒壊し、児童22人・訓導(教員)1人・保護者1人が倒壊した校舎の下敷きになって死亡し、児童59人と教員2人が重軽傷を負った。同台風による大阪市内小学校での死傷者数では、鶴橋第二尋常小学校(現在の北鶴橋小学校)・鯰江第三尋常小学校(現在の今福小学校)に次ぐ大きな被害となった。
1941年の国民学校令により大阪市聖賢国民学校に改称した。大阪市では、「地域名+創立順の番号」の形式の小学校名称については、国民学校への改編と同時に番号での校名を廃止し、地名などを取り入れた校名へと改称する方針があわせて出された。そのため、地域の聖賢橋からとった聖賢の校名が採用されている。
1943年2月には旭区(同年4月行政区再編で城東区となる)蒲生町3丁目に分校を設置した。分校は1954年に廃止された。
太平洋戦争の戦局悪化により、大阪市を含む大都市の3年生以上の国民学校児童に対し、1944年以降学童疎開の指示が出された。大阪市での学童疎開は縁故疎開を原則としたものの、縁故のない児童は学校から集団疎開に参加させることにした。疎開先の府県は各行政区ごとに割り当てられ、城東区の国民学校は福井県へ集団疎開することが指定された。
聖賢国民学校では1944年以降、福井県福井市および足羽郡下文珠町(現在は福井市に編入)への疎開を実施している。しかし疎開先は1945年7月19日の福井空襲で被災した。児童・教職員に人的被害はなかったが、宿舎を焼失している。
年表
- 1915年9月1日 - 東成郡鯰江尋常小学校分教場として開設。
- 1918年4月1日 - 東成郡鯰江第二尋常小学校として独立開校。
- 1925年4月1日 - 鯰江村が大阪市に編入されたことに伴い、大阪市鯰江第二尋常小学校と改称。
- 1934年9月21日 - 室戸台風で校舎倒壊。
- 1941年4月1日 - 国民学校令により、大阪市聖賢国民学校と改称。
- 1943年2月22日 - 分校を設置。
- 1944年 - 福井県へ学童集団疎開。
- 1947年4月1日 - 学制改革により、大阪市立聖賢小学校と改称。
- 1954年8月31日 - 分校を廃止。
- 1963年 - 標準服を制定。
- 1968年2月8日 - 道徳教育推進校に指定される。
- 1968年4月1日 - 養護学級を設置。
通学区域
- 大阪市城東区 中央1丁目、中央3丁目(一部)、蒲生1丁目-4丁目、今福南1丁目(一部)、新喜多1丁目・2丁目、新喜多東1丁目(一部)、鴫野東3丁目(一部)、今福西1丁目(一部)。
- 卒業生は大阪市立蒲生中学校に進学する。