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*1952.3 [[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]][[社会学部|社会学科]]<ref>きっかけは[[マックス・ヴェーバー]]。</ref>卒業([[産業社会学]]専攻)。
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*1952-1955 東京大学[[大学院]]特別研究生(経営社会学・[[経営学]]専攻、[[尾高邦雄]]研究室)
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*1955-1958 [[立教大学]]専任講師(東京大学、[[東京都立大学]]、[[成蹊大学]]の非常勤講師を兼務)<ref>[[小山栄三]](当時・立教大学教員)より「誰か“産業関係論”を教えられる若手教員を求めている」との事で立教大学へ赴任。</ref>
*1955-1958 [[立教大学]]専任講師(東京大学、[[東京都立大学 (1949-2011)]]、[[成蹊大学]]の非常勤講師を兼務)<ref>[[小山栄三]](当時・立教大学教員)より「誰か“産業関係論”を教えられる若手教員を求めている」との事で立教大学へ赴任。</ref>
*1958-1960 立教大学助教授
*1958-1960 立教大学助教授
*1960-1962 [[マサチューセッツ工科大学]][[フェロー|ポストドクトラルフェロー]](企業経営の国際比較研究)
*1960-1962 [[マサチューセッツ工科大学]][[フェロー|ポストドクトラルフェロー]](企業経営の国際比較研究)

2020年3月24日 (火) 23:18時点における版

野田 一夫(のだ かずお、1927年6月22日 - )は、日本事業家経営学者。一般財団法人社会開発研究センター会長、一般社団法人全国経営者団体連合会会長、一般社団法人日本マネジメントスクール会長、一般財団法人日本教育推進財団最高顧問、多摩大学名誉学長、高崎商科大学客員教授、グロービス経営大学院大学理事。

一般社団法人ニュービジネス協議会設立にあたり初代理事長、一般財団法人日本総合研究所初代会長、多摩大学初代学長、宮城大学初代学長、事業構想大学院大学初代学長などを歴任した。

概要

  • 日本人ではじめて航空力学を学んだ父親(当時は三菱重工業技師)[1]が憧れだったが、戦後に航空への道が失われ、理系から文系に転じた。
  • “大学改革”や“日本企業の経営近代化”の推進者として大きく貢献。その成果が様々な組織の初代代表歴任などに表れている。
  • 幅広い人脈を持ち、孫正義が師匠と崇め、 平成吉田松陰と呼ばれて経営者より慕われている[2]

来歴

主著

関連人物

関連項目

脚注

  1. ^ 野田家は先祖代々南部藩士。父親までが盛岡出身。
  2. ^ 日刊スゴい人(2010-06-07)
  3. ^ 堀越二郎糸川英夫三菱重工業技師だった父親などの影響で航空技術者を目指し理科で入学したが、戦後のGHQの影響で東京大学工学部航空学科廃止・父親の失業などがあり、希望がないと判断し、1年で文科に入り直した
  4. ^ きっかけはマックス・ヴェーバー
  5. ^ 小山栄三(当時・立教大学教員)より「誰か“産業関係論”を教えられる若手教員を求めている」との事で立教大学へ赴任。
  6. ^ 後任の中村秀一郎が第2代学長就任直後に体調不良となったため、後に第3代学長となるグレゴリー・クラークに引き継ぐまでのリリーフ。
  7. ^ 元々は委員長の西沢が候補に挙がっていたが、当時東北大学総長任期途中であったため、野田が選ばれた(西沢は1997.9に宮城大学名誉学長となる)。なお野田は公立大学の宮城大学ではあまり改革を望めなかったため、退任後の名誉学長職を県に返還している。
  8. ^ 寺島実郎の第5代学長就任が諸事情で1年延期となった影響による穴埋め。
  9. ^ 野田が立教大学助教授時代のゼミ生、1960年立教大学社会学部社会学科卒業
  10. ^ 創業前に野田の赤坂にあるオフィスを訪れ、野田からアドバイスを頂く。

外部リンク


先代
宮城大学学長
初代:1997年-2001年
次代
福田正