「吉田六郎」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m →参考文献 |
|||
1行目: | 1行目: | ||
'''吉田 六郎'''(よしだ ろくろう、[[1908年]] - [[1986年]][[3月8日]])は、ドイツ文学者、文芸評論家、[[東京都立大学]]名誉教授。 |
'''吉田 六郎'''(よしだ ろくろう、[[1908年]] - [[1986年]][[3月8日]])は、ドイツ文学者、文芸評論家、[[東京都立大学 (1949-2011)]]名誉教授。 |
||
[[栃木県]][[足利市]]生まれ。[[松本高等学校 (旧制)|松本高等学校]]文科乙類を経て、1932年[[東京大学|東京帝国大学]]独文科卒。33年[[桐生高等工業学校]]教授。37-38年文部省から派遣され[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]に学ぶ。39年陸軍教授、42年[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]]教授、戦後50年[[金沢大学]]助教授、51年東京都立大学助教授、60年教授。1971年「[[E.T.A.ホフマン|ホフマン]] - 浪漫派の芸術家」で[[東京大学]][[文学博士]]。72年都立大を定年退官。E・T・A・ホフマンの翻訳・研究と[[夏目漱石]]に関する評論を書き、[[藤代素人]]、[[秋山六郎兵衛]]、[[板垣直子]]らの、『[[吾輩は猫である]]』がホフマンの『[[牡猫ムルの人生観]]』に影響を受けたという説を論駁し、漱石は聞きかじってはいたが『猫である』はオリジナルな作であると論じた(吉田六郎教授略歴「人文学報」都立大、1972年)。 |
[[栃木県]][[足利市]]生まれ。[[松本高等学校 (旧制)|松本高等学校]]文科乙類を経て、1932年[[東京大学|東京帝国大学]]独文科卒。33年[[桐生高等工業学校]]教授。37-38年文部省から派遣され[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]に学ぶ。39年陸軍教授、42年[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]]教授、戦後50年[[金沢大学]]助教授、51年東京都立大学助教授、60年教授。1971年「[[E.T.A.ホフマン|ホフマン]] - 浪漫派の芸術家」で[[東京大学]][[文学博士]]。72年都立大を定年退官。E・T・A・ホフマンの翻訳・研究と[[夏目漱石]]に関する評論を書き、[[藤代素人]]、[[秋山六郎兵衛]]、[[板垣直子]]らの、『[[吾輩は猫である]]』がホフマンの『[[牡猫ムルの人生観]]』に影響を受けたという説を論駁し、漱石は聞きかじってはいたが『猫である』はオリジナルな作であると論じた(吉田六郎教授略歴「人文学報」都立大、1972年)。 |
2020年3月25日 (水) 00:40時点における版
吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年 - 1986年3月8日)は、ドイツ文学者、文芸評論家、東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。
栃木県足利市生まれ。松本高等学校文科乙類を経て、1932年東京帝国大学独文科卒。33年桐生高等工業学校教授。37-38年文部省から派遣されベルリン大学に学ぶ。39年陸軍教授、42年第四高等学校教授、戦後50年金沢大学助教授、51年東京都立大学助教授、60年教授。1971年「ホフマン - 浪漫派の芸術家」で東京大学文学博士。72年都立大を定年退官。E・T・A・ホフマンの翻訳・研究と夏目漱石に関する評論を書き、藤代素人、秋山六郎兵衛、板垣直子らの、『吾輩は猫である』がホフマンの『牡猫ムルの人生観』に影響を受けたという説を論駁し、漱石は聞きかじってはいたが『猫である』はオリジナルな作であると論じた(吉田六郎教授略歴「人文学報」都立大、1972年)。
著書
- 作家以前の漱石 弘文堂書房 1942
- 『吾輩は猫である』論 漱石の「猫」とホフマンの「猫」 勁草書房 1968
- 漱石文学の心理的探究 勁草書房 1970
- ホフマン 浪曼派の芸術家 勁草書房 1971
- 幽霊に殺された男 短篇小説集 勁草出版サービスセンター 1981.10
翻訳
- エ・テ・ア・ホフマン選集 第1集 白山書房 1947
- ドイツ文学撰 ホフマン 白山書房新社 1948
- スキュデリー嬢 ホフマン 1956 (岩波文庫)
- 生死を越えて ツックマイアー 1957 (角川文庫)
- マルチンくんの旅 ルイーゼ・リンザー 白水社 1960
参考文献
- 『アルペン颪 旧制高等学校物語 松本高校編』(財界評論新社 1967年)