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「ネクタネボ2世」の版間の差分

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2020年4月27日 (月) 03:42時点における版

thumb|200px|ネクタネボ2世 ナクトホエルブ(紀元前360年〜342年)とは、古代エジプト王朝最後のファラオ、そして古代エジプトの最後の先住民の支配者。別名には、 ネクタネボ2世という名称がある。統治期間のうち、数年間ネクタネボ2世はエジプトアケメネス朝ペルシア帝国の侵攻から守った。しかし、彼の同盟相手であるロードス島の領主に裏切られた。そして、ペルシウムの戦い(紀元前343年)でペルシャ軍とギリシャ軍の同盟軍に最終的に敗北してしまった。ペルシャ人メンフィスを占領し、その後エジプトの残りを占領し、アルタクセルクセス3世の下でアケメネス朝ペルシア帝国に古代エジプトの王朝を支配されることとなった。それは、古代エジプトの純粋な民族(エジプト文明の担い手であった民族)の、自らによるエジプトの地域の支配の終焉を意味した。そののち、ネクタネボは南のナイル川上流地域(ヌビア地域)へ逃げ、しばらくの間彼の力を維持した。しかし、彼のその後の消息は不明であり、死亡年ははっきりとしていない。

なお、「ナクトホエルブ」の名称よりも、「ネクタネボ2世」の名称のほうがより著名であるため、以後この表記を用いる。

沿革

ネクタネボ2世の石柱

先代のエジプトのファラオ・ネクタネボ1世の時代の王国は安定しており、文化面でも神殿の建設が盛んに行われた。父の死後、跡を継いだテオスは現在のシリアイスラエルにあたるペルシアの領土に攻め入り、ある程度の成功をおさめるが、実の兄弟チャヘプイムの策謀によって王位を失った。チャヘプイムはテオスがエジプト国内で人気がないことを利用して、自分の子でありテオスの孫であるネクタネボ2世とともに即位を宣言したのであった。エジプトの軍はネクタネボのもとで結束したため、テオスは即位してまもなくペルシア王のもとへ落ちのびねばならなかった 。

しかし、そうして王位を手にしたにもかかわらず、ネクタネボ2世の治世は、エジプトを再び征服しようとつとめるペルシアの支配者に左右された。ペルシア王たちにとってエジプトの存在は地方総督の反乱のようなものだったのであり、すでに即位したときには主権を失っていたのであった。アルタクセルクセス3世が国内をかためねばならなかったために、しばらくはペルシアの攻撃をうけずにすんでいた。さらに紀元前351-350年の冬におこなわれたエジプト遠征も成功せず、この敗戦の影響でキプロス、フェニキア、キリキアのペルシアからの離反がすすんだ。ネクタネボ2世は反ペルシアをうたう勢力を支援したが、アルタクセルクセス3世はしだいにこういった抵抗勢力を押さえ込み、紀元前343年に再びエジプトを侵略するだけの余裕がうまれることとなってしまったのである。

アルタクセルクセス3世の二度目の出兵は成功をおさめた。ネクタネボはナイルのデルタ地帯からペルシアの守備兵を引き払い、メンフィスに退くことを余儀なくされた。しかし、そこでネクタネボ2世は自身の権力基盤を失った事を知り、南のヌビアへと逃げ出した。それは、ヌビアの王の庇護をあてにしたものだったが、実際ネクタネボはこのエジプトの南で独立勢力として2年以上もその地位を保った。

また、エドフでみつかった記録には18年という数字がみられる 。ネクタネボ2世の治世は、先々代のそれよりも宗教に力点がおかれていた。しかしただ次々と神殿が建てられただけでなく、そこにそなえられる彫像などもすぐれたものが多くみられる。神々を崇拝し、自らを信心深いファラオと位置づけている点はピーター・クレイトンのいうように、かつての価値観への回帰とみることもできる。 ネクタネボ2世は、ネクタタボ1世よりも数多くの神殿の修復や増築を行った(後述)。

反逆者のカバシ(Khabash)が王を自称した時代が影を落としているが(紀元前338-336年)、ネクタネボはエジプトを支配した最後のエジプト人のファラオとされている人物であり、彼のエジプトからの逃亡は独立した統一体としてのエジプトの終わりを象徴している

ネクタネボ2世の下で、古代エジプトは繁栄の時期を迎えた。彼の治世中に、エジプトの芸術家はプトレマイオス朝のレリーフに独特の印を残した様式を生み出した。彼の間接的な前任者であるネクタネボ1世と同様に、ネクタネボ2世は古代エジプトの宗教における神々の多くに熱意を示し、100を超えるエジプトの遺跡を築いた。ネクタネボ2世は、特に巨大なエジプトのイシス神殿(イセウム)をはじめ、ネクタネボ1世よりも多くの建造物や修復工事を行ったことでも知られる。

この王朝の滅亡後には、再びペルシアの支配下に収まることになるが、その時期であってもこの王朝の時代の建造物は残り続けることとなり、前述したようにエジプトの神々を崇拝する中心地として残り続けることになる。

関連項目