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「関口慎吾」の版間の差分

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== 人物 ==
'''関口慎吾'''(せきぐちしんご、[[1918年]][[2月25日]] - [[1944年]][[11月4日]])は、[[日本]]の[[将棋棋士]]。
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当時相撲の[[双葉山]]と並んで称された[[木村義雄_(棋士)|木村義雄]]に憧れ、将棋棋士を目指して[[斎藤銀次郎]]に入門
[[升田幸三]]、[[大山康晴]]らと並んで称されたが、[[太平洋戦争]]時に「生きて帰れぬニューギニア」といわれた[[ニューギニア島]]に[[衛生兵]]として出兵し、イドレで「マラリア兼戦争栄養失調」で亡くなった<ref name="将棋世界201907"/>。没後に[[東京都]][[台東区]]の[[静蓮寺]]に墓が建立された<ref>{{Twitter status2|mtmtlife|1013320112814739456|4=関口慎吾六段のお墓 2018-07-01|5=2020-05-13}}</ref>

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2020年5月13日 (水) 03:36時点における版

関口 慎吾(せきぐち しんご、1918年2月25日[1] - 1945年2月18日[1])は、日本将棋棋士

人物

東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)出身[2]

当時相撲の双葉山と並んで称された木村義雄に憧れ、将棋棋士を目指して斎藤銀次郎に入門。

升田幸三大山康晴らと並んで称されたが、太平洋戦争時に「生きて帰れぬニューギニア」といわれたニューギニア島衛生兵として出兵し、イドレで「マラリア兼戦争栄養失調」で亡くなった[1]。没後に東京都台東区静蓮寺に墓が建立された[3]

2017年に昭和史研究者の保阪正康が関口について「生きて帰っていれば将棋界を変えた天才」であったと紹介した一文が毎日新聞に掲載され[2]、『将棋世界』で戦史研究家の渡辺大助による関口の評伝が連載された[1]

[横浜冷凍]]代表取締役会長の吉川俊雄は関口の甥に当たる横浜冷凍(株)が日本将棋連盟「研修会」に支援”. 日本将棋連盟 (2020年4月1日). 2020年5月13日閲覧。

脚注

  1. ^ a b c d 渡辺大助「戦火に消えた幻の天才棋士 関口慎吾六段(7)」『将棋世界』2019年7月号、日本将棋連盟、96-99頁。 
  2. ^ a b 保阪正康 (12 August 2017). "太平洋戦争で散った棋士=保阪正康". デジタル毎日. 毎日新聞社. 2020年5月13日閲覧
  3. ^ 関口慎吾六段のお墓 2018-07-012020年5月13日閲覧。

関連項目