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「エドワード・スミス=スタンリー (第12代ダービー伯爵)」の版間の差分

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2020年6月2日 (火) 11:29時点における版

第12代ダービー伯爵
エドワード・スミス=スタンリー
Edward Smith-Stanley, 12th Earl of Derby
12代ダービー伯(トマス・ゲインズバラ画、1785年)
生年月日 1752年9月12日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国ランカシャー州、プレストン
没年月日 1834年10月21日 (満82歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスランカシャー州、ノウズリー
出身校 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
所属政党 ホイッグ党
称号 枢密顧問官 (PC)
配偶者 (1) レディ・エリザベス・ハミルトン
(2) エリザベス・ファーレン
親族 ストレンジ卿 (父)
ジョン・バーゴイン (義叔父)
第14代ダービー伯爵 (孫)

内閣 第1次ポートランド公爵内閣
在任期間 1783年4月29日 - 1783年12月17日
国王 ジョージ3世

内閣 グレンヴィル男爵内閣
在任期間 1806年2月12日 - 1807年3月31日
国王 ジョージ3世
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第12代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー: Edward Smith-Stanley, 12th Earl of Derby1752年9月12日 - 1834年10月21日)は、イギリス貴族政治家馬主競走馬生産者。

ホイッグ党に所属し、第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクと初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルの政権でランカスター公領大臣Chancellor of the Duchy of Lancaster)を務めた。

競馬のオークスダービーステークスの発案者としても知られる。

経歴

1752年、イングランド北部のランカシャープレストンで、第11代ダービー伯爵エドワード・スタンリーの嫡子ストレンジ卿ジェイムズ・スミス=スタンリー英語版[註釈 1]の長男として生まれる[1][2][3]1764年イートン・カレッジに入学。卒業後の1771年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進み、1773年学位M.A.)を取得[4]

1774年よりランカシャー州選挙区選出の庶民院議員[5]1776年に祖父が死去したため第12代ダービー伯爵となり貴族院へ移り、また祖父が務めていたランカシャー州統監英語版[訳語疑問点]および主席治安判事英語版[訳語疑問点]を引き継いだ[6]

1783年に成立した第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクを名目上の首班とするチャールズ・ジェイムズ・フォックスとノース卿フレデリック・ノースの連立政権(第1次ポートランド公爵内閣/フォックス・ノース連立内閣; Fox-North Coalition)ではランカスター公領大臣として入閣、同時に枢密顧問官にも列せられた[7]1806年グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィル政権英語版で再びランカスター公領大臣となった[8][註釈 2]

1834年ランカシャー州のノウズリー英語版[註釈 3]で死去し、同州のオームスカーク英語版に葬られた[1]。伯爵位は長男のスタンリー卿エドワードが相続した。

オークス、ダービーの創設

1778年、ダービー伯爵の別荘「オークス荘」で催された晩餐会の席上で、3歳の牝馬を集めた距離1マイル(約1600メートル)の競馬の競走が発案された[註釈 4]。翌1779年に行われたこの競走は、アイディアが出された別荘の名を取って「オークス」と名付けられ、この時の優勝馬はダービー伯爵が出走させたBrigetであった。

そのオークス後の祝賀会の席で、今度は3歳の牡馬による同様の競走を創設しようという流れになり、その競走の命名を巡ってダービー伯爵と友人のサー・チャールズ・バンベリー準男爵との間で譲り合いが続き、ついにはコイントスが行われた。結果ダービー伯爵が勝利し、この競走には彼の爵名から取った「ダービー」という名が付けられた。このオークスとダービーという二競走は現在に至るまで続いており、イギリスの3歳戦で最重要の競走となっているのみならず、これに範を取りオークス、ダービーと名付けられた同様の競走が世界中に広がる事となった。第1回ダービーではバンベリーの所有馬ダイオメドが優勝を果たした。ダービー伯爵自身は、1787年の第8回をサーピーターティーズルで優勝している。2005年2006年ジャパンカップウィジャボードと共に来日した第19代ダービー伯爵エドワード・スタンリーは直系7代目の子孫にあたる。

家族

ダービー伯爵は2度結婚している。最初の妻は第6代ハミルトン公爵ジェイムズ・ダグラス=ハミルトンの娘レディ・エリザベス・ハミルトンイタリア語版で、1774年6月23日にサリー州[註釈 5]リッチモンドのアーガイル・ハウスにて結婚した[1][2][3]。彼女との間に後に第13代ダービー伯爵となるスタンリー卿エドワードを含め一男二女を儲けたが、別居状態が長く続いた後1797年に死別[1][3]。同年5月1日、喜劇女優のエリザベス・ファーレン英語版と再婚し、彼女との間にも一男二女を儲けた[1][2][3]

脚注

註釈

  1. ^ この儀礼称号で知られるが、本来はこの儀礼称号を帯びる権利はなかった。
  2. ^ ただしこのときは閣僚ではなかった。
  3. ^ 当時。1974年にマージーサイド州へ移管された。
  4. ^ 1784年に距離が1マイル半(約2400メートル)に変更された
  5. ^ 当時。1965年にグレーター・ロンドンへ移管された。

出典

  1. ^ a b c d e Cokayne, George Edward [in 英語], ed. (1916). "DERBY". The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain, and the United Kingdom Extant, Extinct, or Dormant (英語). Vol. 4 (2 ed.). London: The St. Catherine Press, ltd. pp. 218–219. 2013年6月30日閲覧
  2. ^ a b c Doyle, James William Edmund [in 英語], ed. (1886). "DERBY.". The Official Baronage of England: Showing the Succession, Dignities, and Offices of Every Peer from 1066 to 1885 (英語). Vol. 1. London: Longmans. p. 563. 2013年6月30日閲覧
  3. ^ a b c d Burke, Bernard, Sir [in 英語], ed. (1869). "DERBY.". A genealogical and heraldic dictionary of the peerage and baronetage of the British Empire (英語) (31 ed.). London: Harrison. p. 328. 2013年6月30日閲覧
  4. ^ "Stanley, Edward (smith), Hon. (STNY771E)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  5. ^ Brooke, John [in 英語] (1964). "STANLEY, Edward, Lord Stanley (1752-1834).". In Namier, L.; Brooke, J. [in 英語] (eds.). The History of Parliament: the House of Commons 1754-1790. London: Secker & Warburg. 2013年6月30日閲覧
  6. ^ "No. 11648". The London Gazette (英語). 12 March 1776. 2013年6月30日閲覧
  7. ^ "No. 12470". The London Gazette (英語). 26 August 1783. 2013年6月30日閲覧
  8. ^ "No. 15889". The London Gazette (英語). 11 February 1806. 2013年6月30日閲覧

外部リンク

先代
初代アシュバートン男爵
ランカスター公領大臣
1783
次代
初代クラレンドン伯爵
先代
第2代ハーロウビー男爵
ランカスター公領大臣
1806-1807
次代
スペンサー・パーシヴァル
先代
エドワード・スタンリー
ダービー伯爵
第12代: 1776-1834
次代
エドワード・スミス=スタンリー