「スコットランド民兵法案」の版間の差分
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'''スコットランド民兵法案'''(スコットランドみんへいほうあん、{{lang-en|Scottish Militia Bill}}または{{lang|en|Scotch Militia Bill}})は[[1708年]]初に[[グレートブリテン王国]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]と[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]を通過した{{仮リンク|法案|en|Bill (law)}}。しかし、1708年3月11日<ref>{{cite web |url= |
'''スコットランド民兵法案'''(スコットランドみんへいほうあん、{{lang-en|Scottish Militia Bill}}または{{lang|en|Scotch Militia Bill}})は[[1708年]]初に[[グレートブリテン王国]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]と[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]を通過した{{仮リンク|法案|en|Bill (law)}}。しかし、1708年3月11日<ref>{{cite web |url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1690-1715/parliament/1705 |title=Parliaments: 1705 |author= |website=The History of Parliament |publisher=Institute of Historical Research |access-date=6 November 2016 |quote="On 11 Mar. 1708, when the Queen attended the Lords to give assent to several bills, she used her prerogative of veto against one, the bill for settling the Scottish militia."}} <!-- Note that per WP:OSNS we record this as 11 March 1708, but contemporary records would put it in 1707 as the legal year did not start until 25 March. --></ref>、[[アン (イギリス女王)|アン女王]]は閣僚から[[民兵]]が忠実でない可能性を指摘されて{{仮リンク|国王の裁可|en|Royal assent|label=裁可}}を拒否した<ref>Queen Anne's veto is recorded as "La Reine se avisera" ("The Queen will consider it") in 18 H.L. Jour. 506 (1707).</ref>。 |
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== 内容 == |
== 内容 == |
2020年6月2日 (火) 11:36時点における版
スコットランド民兵法案(スコットランドみんへいほうあん、英語: Scottish Militia BillまたはScotch Militia Bill)は1708年初にグレートブリテン王国の庶民院と貴族院を通過した法案。しかし、1708年3月11日[1]、アン女王は閣僚から民兵が忠実でない可能性を指摘されて裁可を拒否した[2]。
内容
法案の正式名称は「スコットランドと呼ばれるグレートブリテンの部分の民兵を解決するための法」(An Act for settling the Militia of that Part of Great Britain called Scotland)である。法案の目的は王政復古以降も再設立されていないスコットランド民兵に武器を与えることであった。法案が提出されたのは1707年合同法によりスコットランドとイングランドが合同した以降のことだった。
法案が裁可される予定日、フランスがイギリス侵攻計画通りにスコットランドに向けて出航したとの報せが届いた上、スコットランド民兵には忠実でないとの疑いがかけられていたため、裁可拒否は世論に支持された。
なお、英国君主による法案裁可拒否はこの事例が最後となっており、以後は行われていない[3]。
重要性
以前の国王は拒否権を度々行使しており、例えばウィリアム3世は議会で成立した法案に対し拒否権を6回行使した。しかし、スコットランド民兵法案は国王の裁可が拒否された最後の法案である。それ以降のイギリスにおいて、法案と内閣に対する国王の裁可は法案が議会で成立した、または総選挙が行われた後の単なる手続きと見なされた。
一方、植民地においては1708年以降も拒否権行使が続き、1776年のアメリカ独立宣言で述べられた不満の1つである。
脚注
- ^ “Parliaments: 1705”. The History of Parliament. Institute of Historical Research. 6 November 2016閲覧。 “"On 11 Mar. 1708, when the Queen attended the Lords to give assent to several bills, she used her prerogative of veto against one, the bill for settling the Scottish militia."”
- ^ Queen Anne's veto is recorded as "La Reine se avisera" ("The Queen will consider it") in 18 H.L. Jour. 506 (1707).
- ^ 田中, 嘉彦. “英国ブレア政権下の貴族院改革 : 第二院の構成と機能”. 一橋大学機関リポジトリ. 2020年3月4日閲覧。