コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ロバート・ダグラス (第12代モートン伯爵)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: historyofparliamentonline.orgへの外部リンクをhttpsに変更 - log
2行目: 2行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[ジェームズ・ダグラス (第10代モートン伯爵)|第10代モートン伯爵ジェームズ・ダグラス]]とアン・ヘイ({{lang|en|Anne Hay}}、初代準男爵ジェームズ・ヘイの娘)の三男として生まれた<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1690|url=http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1690-1715/member/douglas-hon-robert-1730|title=DOUGLAS, Hon. Robert (d. 1730)|last=Wilkinson|first=David|accessdate=2 July 2019}}</ref>。
[[ジェームズ・ダグラス (第10代モートン伯爵)|第10代モートン伯爵ジェームズ・ダグラス]]とアン・ヘイ({{lang|en|Anne Hay}}、初代準男爵ジェームズ・ヘイの娘)の三男として生まれた<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1690|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1690-1715/member/douglas-hon-robert-1730|title=DOUGLAS, Hon. Robert (d. 1730)|last=Wilkinson|first=David|accessdate=2 July 2019}}</ref>。


{{仮リンク|1702年スコットランド総選挙|en|Scottish general election, 1702}}でコート派([[ジェイムズ・ダグラス (第2代クイーンズベリー公爵)|クイーンズベリー公爵]]派)の一員として影響力を発揮、自身が{{仮リンク|カークウォール選挙区|en|Kirkwall (Parliament of Scotland constituency)}}で{{仮リンク|スコットランド議会 (スコットランド王国)|en|Parliament of Scotland|label=スコットランド議会}}議員に当選したほか、カントリ派([[ジェイムズ・ハミルトン (第4代ハミルトン公爵)|ハミルトン公爵]]派)候補の当選を妨げた<ref name="HOP" />。スコットランド議会では常にクイーンズベリー公爵派として行動、クイーンズベリー公爵が公職を追われたときはカントリ派側で投票することも厭わなかった<ref name="HOP" />。[[イングランド王国]]との合同ではコート派側で投票したものの、[[第1回グレートブリテン議会]]への指名を受けず翌年の[[1708年イギリス総選挙]]にも出馬しなかった<ref name="HOP" />。翌1709年にクイーンズベリー公爵の要請を受けて{{仮リンク|テイン・バーグス選挙区|en|Tain Burghs (UK Parliament constituency)}}の補欠選挙に出馬して当選したものの、目立った動きはなく[[1710年イギリス総選挙]]で出馬を辞退した(ただし、1710年と[[1713年イギリス総選挙|1713年の総選挙]]では他候補を支持しての選挙活動はあった)<ref name="HOP" />。
{{仮リンク|1702年スコットランド総選挙|en|Scottish general election, 1702}}でコート派([[ジェイムズ・ダグラス (第2代クイーンズベリー公爵)|クイーンズベリー公爵]]派)の一員として影響力を発揮、自身が{{仮リンク|カークウォール選挙区|en|Kirkwall (Parliament of Scotland constituency)}}で{{仮リンク|スコットランド議会 (スコットランド王国)|en|Parliament of Scotland|label=スコットランド議会}}議員に当選したほか、カントリ派([[ジェイムズ・ハミルトン (第4代ハミルトン公爵)|ハミルトン公爵]]派)候補の当選を妨げた<ref name="HOP" />。スコットランド議会では常にクイーンズベリー公爵派として行動、クイーンズベリー公爵が公職を追われたときはカントリ派側で投票することも厭わなかった<ref name="HOP" />。[[イングランド王国]]との合同ではコート派側で投票したものの、[[第1回グレートブリテン議会]]への指名を受けず翌年の[[1708年イギリス総選挙]]にも出馬しなかった<ref name="HOP" />。翌1709年にクイーンズベリー公爵の要請を受けて{{仮リンク|テイン・バーグス選挙区|en|Tain Burghs (UK Parliament constituency)}}の補欠選挙に出馬して当選したものの、目立った動きはなく[[1710年イギリス総選挙]]で出馬を辞退した(ただし、1710年と[[1713年イギリス総選挙|1713年の総選挙]]では他候補を支持しての選挙活動はあった)<ref name="HOP" />。

2020年6月2日 (火) 11:48時点における版

第12代モートン伯爵ロバート・ダグラス英語: Robert Douglas, 12th Earl of Morton、1662年以前 – 1730年1月22日)は、スコットランド貴族、政治家。

生涯

第10代モートン伯爵ジェームズ・ダグラスとアン・ヘイ(Anne Hay、初代準男爵ジェームズ・ヘイの娘)の三男として生まれた[1]

1702年スコットランド総選挙英語版でコート派(クイーンズベリー公爵派)の一員として影響力を発揮、自身がカークウォール選挙区英語版スコットランド議会英語版議員に当選したほか、カントリ派(ハミルトン公爵派)候補の当選を妨げた[1]。スコットランド議会では常にクイーンズベリー公爵派として行動、クイーンズベリー公爵が公職を追われたときはカントリ派側で投票することも厭わなかった[1]イングランド王国との合同ではコート派側で投票したものの、第1回グレートブリテン議会への指名を受けず翌年の1708年イギリス総選挙にも出馬しなかった[1]。翌1709年にクイーンズベリー公爵の要請を受けてテイン・バーグス選挙区英語版の補欠選挙に出馬して当選したものの、目立った動きはなく1710年イギリス総選挙で出馬を辞退した(ただし、1710年と1713年の総選挙では他候補を支持しての選挙活動はあった)[1]

1715年12月7日に兄ジェームズが生涯未婚のまま死去すると、モートン伯爵の爵位を継承した[2]。以降も国政で大きな役割を果たすことはなかったが、スコットランド貴族代表議員選挙での投票は第12代モートン伯爵がアーガイル公爵派であることを示している[1]

1730年1月22日に死去、生涯未婚だったため弟ジョージが爵位を継承した[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f Wilkinson, David (2002). "DOUGLAS, Hon. Robert (d. 1730)". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月2日閲覧
  2. ^ a b Burke's Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (99th ed.). London: Burke's Peerage Limited. 1949. p. 1429.
スコットランド王国議会英語版
先代
サー・アレクサンダー・ヒューム
議会英語版議員(カークウォール選挙区英語版選出)
1702年 – 1707年
次代
グレートブリテン議会
グレートブリテン議会英語版
先代
ストラスネイヴァー卿英語版
庶民院議員(テイン・バーグス選挙区英語版選出)
1709年 – 1710年
次代
ロバート・マンロー英語版
スコットランドの爵位
先代
ジェームズ・ダグラス
モートン伯爵
1715年 – 1730年
次代
ジョージ・ダグラス