コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「エドワード・ハーレー (第2代オックスフォード=モーティマー伯爵)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m bot: 解消済み仮リンク初代ニューカッスル公爵ジョン・ホールズを内部リンクに置き換えます
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: historyofparliamentonline.orgへの外部リンクをhttpsに変更 - log
3行目: 3行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)|初代オックスフォード=モーティマー伯爵ロバート・ハーレー]]と1人目の妻エリザベス・フォーリー({{lang|en|Elizabeth Foley}})の息子として、1689年6月2日に生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|year=1895|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (N to R)|volume=6|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|page=179|url=https://archive.org/details/completepeerage06cokahrish/page/n180}}</ref>。幼年期を{{仮リンク|ブランプトン・ブライアン|en|Brampton Bryan}}で過ごし、宗教的な家庭で育った<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1690|url=http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1690-1715/member/harley-edward-1689-1741|title=HARLEY, Edward, Ld. Harley (1689-1741), of Wimpole, Cambs|last=Hayton|first=D. W.|accessdate=2 July 2019}}</ref>。1705年頃から1707年まで[[ウェストミンスター・スクール]]で教育を受けた後<ref name="HOP" />、1707年10月30日に[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]に入学、1712年1月2日に{{仮リンク|マスター・オブ・アーツ (オックスフォード、ケンブリッジ、ダブリン大学)|en|Master of Arts (Oxford, Cambridge, and Dublin)|label=M.A.}}の学位を、1730年6月4日に{{仮リンク|民法学博士|en|Doctor of Civil Law|label=D.C.L.}}の学位を修得した<ref name="Oxon">{{Cite book2|editor-last=Foster|editor-first=Joseph|editor-link=ジョセフ・フォスター (系図学者)|location=Oxford|publisher=University of Oxford|year=1891|pages=626–651|title=Haak-Harman|work=[[オックスフォード大学同窓生名簿|Alumni Oxonienses 1500-1714]]|language=en|url=https://www.british-history.ac.uk/alumni-oxon/1500-1714/pp626-651 }}</ref>。
[[ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)|初代オックスフォード=モーティマー伯爵ロバート・ハーレー]]と1人目の妻エリザベス・フォーリー({{lang|en|Elizabeth Foley}})の息子として、1689年6月2日に生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|year=1895|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (N to R)|volume=6|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|page=179|url=https://archive.org/details/completepeerage06cokahrish/page/n180}}</ref>。幼年期を{{仮リンク|ブランプトン・ブライアン|en|Brampton Bryan}}で過ごし、宗教的な家庭で育った<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1690|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1690-1715/member/harley-edward-1689-1741|title=HARLEY, Edward, Ld. Harley (1689-1741), of Wimpole, Cambs|last=Hayton|first=D. W.|accessdate=2 July 2019}}</ref>。1705年頃から1707年まで[[ウェストミンスター・スクール]]で教育を受けた後<ref name="HOP" />、1707年10月30日に[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]に入学、1712年1月2日に{{仮リンク|マスター・オブ・アーツ (オックスフォード、ケンブリッジ、ダブリン大学)|en|Master of Arts (Oxford, Cambridge, and Dublin)|label=M.A.}}の学位を、1730年6月4日に{{仮リンク|民法学博士|en|Doctor of Civil Law|label=D.C.L.}}の学位を修得した<ref name="Oxon">{{Cite book2|editor-last=Foster|editor-first=Joseph|editor-link=ジョセフ・フォスター (系図学者)|location=Oxford|publisher=University of Oxford|year=1891|pages=626–651|title=Haak-Harman|work=[[オックスフォード大学同窓生名簿|Alumni Oxonienses 1500-1714]]|language=en|url=https://www.british-history.ac.uk/alumni-oxon/1500-1714/pp626-651 }}</ref>。


[[1710年イギリス総選挙]]で議席を得られなかったものの、翌1711年の{{仮リンク|ラドノー選挙区|en|Radnor (UK Parliament constituency)}}の補欠選挙で当選、議会で父の政策を支持した<ref name="HOP" />。しかし、[[1715年イギリス総選挙]]で落選、さらに父が長い弾劾裁判にかけられて影響力を失った<ref name="HOP" />。[[1722年イギリス総選挙]]で{{仮リンク|ケンブリッジシャー選挙区|en|Cambridgeshire (UK Parliament constituency)}}で当選して議員に返り咲いたものの、以降も影響力を発揮することなく、1722年から1724年まで庶民院で発言や投票した記録がなかったという<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1715|url=http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1715-1754/member/harley-edward-1689-1741|title=HARLEY, Edward, Lord Harley (1689-1741), of Wimpole, Cambs|last=Cruickshanks|first=Eveline|accessdate=2 July 2019}}</ref>。
[[1710年イギリス総選挙]]で議席を得られなかったものの、翌1711年の{{仮リンク|ラドノー選挙区|en|Radnor (UK Parliament constituency)}}の補欠選挙で当選、議会で父の政策を支持した<ref name="HOP" />。しかし、[[1715年イギリス総選挙]]で落選、さらに父が長い弾劾裁判にかけられて影響力を失った<ref name="HOP" />。[[1722年イギリス総選挙]]で{{仮リンク|ケンブリッジシャー選挙区|en|Cambridgeshire (UK Parliament constituency)}}で当選して議員に返り咲いたものの、以降も影響力を発揮することなく、1722年から1724年まで庶民院で発言や投票した記録がなかったという<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1715|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1715-1754/member/harley-edward-1689-1741|title=HARLEY, Edward, Lord Harley (1689-1741), of Wimpole, Cambs|last=Cruickshanks|first=Eveline|accessdate=2 July 2019}}</ref>。


1724年5月21日に父が死去すると、[[オックスフォード=モーティマー伯爵]]の爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。以降は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に移籍、1741年には[[ロバート・ウォルポール]]の罷免動議に反対票を投じた<ref name="HOP2" />。
1724年5月21日に父が死去すると、[[オックスフォード=モーティマー伯爵]]の爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。以降は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に移籍、1741年には[[ロバート・ウォルポール]]の罷免動議に反対票を投じた<ref name="HOP2" />。

2020年6月2日 (火) 11:48時点における版

ジョナサン・リチャードソンによる肖像画

第2代オックスフォード=モーティマー伯爵エドワード・ハーレー英語: Edward Harley, 2nd Earl of Oxford and Earl Mortimer FRS1689年6月2日1741年6月16日)は、グレートブリテン王国の貴族、政治家。1711年から1724年までハーレー卿儀礼称号を使用した。

生涯

初代オックスフォード=モーティマー伯爵ロバート・ハーレーと1人目の妻エリザベス・フォーリー(Elizabeth Foley)の息子として、1689年6月2日に生まれた[1]。幼年期をブランプトン・ブライアン英語版で過ごし、宗教的な家庭で育った[2]。1705年頃から1707年までウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[2]、1707年10月30日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1712年1月2日にM.A.の学位を、1730年6月4日にD.C.L.英語版の学位を修得した[3]

1710年イギリス総選挙で議席を得られなかったものの、翌1711年のラドノー選挙区英語版の補欠選挙で当選、議会で父の政策を支持した[2]。しかし、1715年イギリス総選挙で落選、さらに父が長い弾劾裁判にかけられて影響力を失った[2]1722年イギリス総選挙ケンブリッジシャー選挙区英語版で当選して議員に返り咲いたものの、以降も影響力を発揮することなく、1722年から1724年まで庶民院で発言や投票した記録がなかったという[4]

1724年5月21日に父が死去すると、オックスフォード=モーティマー伯爵の爵位を継承した[1]。以降は貴族院に移籍、1741年にはロバート・ウォルポールの罷免動議に反対票を投じた[4]

1727年11月23日、王立協会フェローに選出された[5]。また、1739年に創設された捨子養育院英語版の初代総裁の1人だった[6]

1741年6月16日に死去、25日に埋葬された[1]。存命中に収集した書籍、硬貨、絵画などは売却され[5]、書簡は1万ポンドで大英博物館に売却された[4]

人物

文人との交流を好み、アレキサンダー・ポープジョナサン・スウィフトマシュー・プライアー英語版の友人だった[7]。ポープとは1721年から1739年まで文通を交わし、プライアーはウィンポールにあるハーレーの邸宅で死去した[7]

コーンベリー子爵英語版は1735年にジェームズ老僭王に対し、第2代オックスフォード=モーティマー伯爵を「定まっておらず、人気のあることをするようにみせかけることを好む」(pretty unfixed, fond of seeming to do what is popular)と述べ[4]英国人名事典は「無能というよりは怠惰」が原因となって、政務に関わらず社会に関心を持たなかったと評した[7]

家族

1713年8月31日、ヘンリエッタ・キャヴェンディッシュ・ホールズ英語版(1694年 – 1755年、初代ニューカッスル公爵ジョン・ホールズの娘)と結婚、1男1女を儲けた[2]

ヘンリエッタとの結婚で50万ポンドの持参金を得たにもかかわらず、借金がかさみ1740年にウィンポール英語版を売却せざるを得なかった[5]初代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨークが86,740ポンドで購入した[4])。

脚注

  1. ^ a b c Cokayne, George Edward, ed. (1895). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (N to R) (英語). Vol. 6 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 179.
  2. ^ a b c d e Hayton, D. W. (2002). "HARLEY, Edward, Ld. Harley (1689-1741), of Wimpole, Cambs". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月2日閲覧
  3. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Haak-Harman. pp. 626–651. {{cite book}}: |work=は無視されます。 (説明)
  4. ^ a b c d e Cruickshanks, Eveline (1970). "HARLEY, Edward, Lord Harley (1689-1741), of Wimpole, Cambs". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月2日閲覧
  5. ^ a b c "Harley; Edward (1689 - 1741); 2nd Earl of Oxford and Mortimer" (英語). Royal Society. 2019年7月2日閲覧
  6. ^ A Copy of the Royal Charter Establishing an Hospital for the Maintenance and Education of Exposed and Deserted Young Children (英語). p. 4.
  7. ^ a b c d Goodwin, Gordon (1890). "Harley, Edward (1689-1741)" . In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 24. London: Smith, Elder & Co. pp. 394–396.

関連図書

グレートブリテン議会英語版
先代
ロバート・ハーレー
庶民院議員(ラドノー選挙区英語版選出)
1711年 – 1715年
次代
トマス・ルイス英語版
先代
サー・フランシス・ウィッチコート準男爵英語版
サー・ロバート・クラーク準男爵英語版
庶民院議員(ケンブリッジシャー選挙区英語版選出
1722年 – 1724年
同職:サー・ジョン・ハインド・コットン準男爵
次代
サー・ジョン・ハインド・コットン準男爵
サミュエル・シェパード英語版
グレートブリテンの爵位
先代
ロバート・ハーレー
オックスフォード=モーティマー伯爵
1724年 – 1741年
次代
エドワード・ハーレー