コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ジョン・フィッツパトリック (第2代アッパー・オソリー伯爵)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: historyofparliamentonline.orgへの外部リンクをhttpsに変更 - log
3行目: 3行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[ジョン・フィッツパトリック (初代アッパー・オソリー伯爵)|初代アッパー・オソリー伯爵ジョン・フィッツパトリック]]とイヴリン・ルーソン=ゴア({{lang|en|Evelyn Leveson-Gower}}、1763年4月14日没、[[ジョン・ルーソン=ゴア (初代ゴア伯爵)|初代ゴア伯爵ジョン・ルーソン=ゴア]]の娘)の長男として、1745年5月2日に生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|year=1898|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (U to Z, appendix, corrigenda, occurrences after 1 January 1898, and general index to notes, &c.)|volume=8|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|page=11|url=https://archive.org/details/completepeerage00cokagoog/page/n20}}</ref>。1758年9月23日に父が死去すると、[[アッパー・オソリー伯爵]]の爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。1754年から1760年まで[[ウェストミンスター・スクール]]で教育を受けた後、1760年に[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学した<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1790|url=http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/fitzpatrick-john-1745-1818|title=FITZPATRICK, John, 2nd Earl of Upper Ossory [I] (1745-1818), of Ampthill, Beds|last=Fisher|first=David R.|accessdate=10 July 2019}}</ref>。
[[ジョン・フィッツパトリック (初代アッパー・オソリー伯爵)|初代アッパー・オソリー伯爵ジョン・フィッツパトリック]]とイヴリン・ルーソン=ゴア({{lang|en|Evelyn Leveson-Gower}}、1763年4月14日没、[[ジョン・ルーソン=ゴア (初代ゴア伯爵)|初代ゴア伯爵ジョン・ルーソン=ゴア]]の娘)の長男として、1745年5月2日に生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|year=1898|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (U to Z, appendix, corrigenda, occurrences after 1 January 1898, and general index to notes, &c.)|volume=8|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|page=11|url=https://archive.org/details/completepeerage00cokagoog/page/n20}}</ref>。1758年9月23日に父が死去すると、[[アッパー・オソリー伯爵]]の爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。1754年から1760年まで[[ウェストミンスター・スクール]]で教育を受けた後、1760年に[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学した<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/fitzpatrick-john-1745-1818|title=FITZPATRICK, John, 2nd Earl of Upper Ossory [I] (1745-1818), of Ampthill, Beds|last=Fisher|first=David R.|accessdate=10 July 2019}}</ref>。


1763年、愛書家の{{仮リンク|トパム・ボークレア|en|Topham Beauclerk}}とともにイタリアに滞在、そこで絵画を購入したり、{{仮リンク|ゲイヴィン・ハミルトン (画家)|en|Gavin Hamilton (artist)|label=ゲイヴィン・ハミルトン}}に絵画を注文したりした<ref>I. Bignamini, C. Hornsby, ''Digging And Dealing In Eighteenth-Century Rome'' (2010), pp. 334-335.</ref>。帰国の後、アッパー・オソリー伯爵が首相[[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|グラフトン公爵]]の妻アン・フィッツロイと愛人関係になったため、グラフトン公爵も{{仮リンク|アン・パーソンズ|en|Anne Parsons}}と不倫関係になり、最終的にはグラフトン公爵が離婚、アン・フィッツロイがアッパー・オソリー伯爵と結婚することとなった<ref name="con">{{Cite ODNB|last=Durrant|first=Peter|title=FitzRoy, Augustus Henry, third duke of Grafton (1735–1811)|id=9628}}</ref>。
1763年、愛書家の{{仮リンク|トパム・ボークレア|en|Topham Beauclerk}}とともにイタリアに滞在、そこで絵画を購入したり、{{仮リンク|ゲイヴィン・ハミルトン (画家)|en|Gavin Hamilton (artist)|label=ゲイヴィン・ハミルトン}}に絵画を注文したりした<ref>I. Bignamini, C. Hornsby, ''Digging And Dealing In Eighteenth-Century Rome'' (2010), pp. 334-335.</ref>。帰国の後、アッパー・オソリー伯爵が首相[[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|グラフトン公爵]]の妻アン・フィッツロイと愛人関係になったため、グラフトン公爵も{{仮リンク|アン・パーソンズ|en|Anne Parsons}}と不倫関係になり、最終的にはグラフトン公爵が離婚、アン・フィッツロイがアッパー・オソリー伯爵と結婚することとなった<ref name="con">{{Cite ODNB|last=Durrant|first=Peter|title=FitzRoy, Augustus Henry, third duke of Grafton (1735–1811)|id=9628}}</ref>。
35行目: 35行目:


== 関連図書 ==
== 関連図書 ==
*{{HistoryofParliament|1754|url=http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/member/fitzpatrick-john-1745-1818|title=FITZPATRICK, John, 2nd Earl of Upper Ossory [I] (1745-1818), of Ampthill, Beds|last=Drummond|first=Mary M.|accessdate=11 July 2019}}
*{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/member/fitzpatrick-john-1745-1818|title=FITZPATRICK, John, 2nd Earl of Upper Ossory [I] (1745-1818), of Ampthill, Beds|last=Drummond|first=Mary M.|accessdate=11 July 2019}}


{{S-start}}
{{S-start}}

2020年6月2日 (火) 11:49時点における版

1767年のジョシュア・レノルズによる肖像画に基づく、サミュエル・ウィリアム・レイノルズ英語版による1820年のメゾチント

第2代アッパー・オソリー伯爵ジョン・フィッツパトリック英語: John FitzPatrick, 2nd Earl of Upper Ossory FRS DL 1745年5月2日1818年2月1日)は、アイルランド貴族グレートブリテン王国庶民院議員。1751年から1758年までゴーラン男爵の称号を使用した。弟に政治家のリチャード・フィッツパトリック英語版がいる。

生涯

初代アッパー・オソリー伯爵ジョン・フィッツパトリックとイヴリン・ルーソン=ゴア(Evelyn Leveson-Gower、1763年4月14日没、初代ゴア伯爵ジョン・ルーソン=ゴアの娘)の長男として、1745年5月2日に生まれた[1]。1758年9月23日に父が死去すると、アッパー・オソリー伯爵の爵位を継承した[1]。1754年から1760年までウェストミンスター・スクールで教育を受けた後、1760年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した[2]

1763年、愛書家のトパム・ボークレア英語版とともにイタリアに滞在、そこで絵画を購入したり、ゲイヴィン・ハミルトン英語版に絵画を注文したりした[3]。帰国の後、アッパー・オソリー伯爵が首相グラフトン公爵の妻アン・フィッツロイと愛人関係になったため、グラフトン公爵もアン・パーソンズ英語版と不倫関係になり、最終的にはグラフトン公爵が離婚、アン・フィッツロイがアッパー・オソリー伯爵と結婚することとなった[4]

1767年4月にベッドフォードシャー選挙区英語版で当選して庶民院議員になり、以降1794年まで議員を務めた[2]。また、1771年から1818年までベッドフォードシャー統監英語版を務めた[1]

1780年2月17日、王立協会フェローに選出された[5]

19世紀初期の第2代アッパー・オソリー伯爵

1794年8月9日、グレートブリテン貴族のアムティルのアッパー・オソリー男爵に叙された[1]

1818年2月1日に死去[2]、13日に埋葬された[1]。後継者となる嫡子を儲けず、爵位は全て断絶した[1]。遺言状で遺産を一代限りで娘ガートルード、庶子アンとジョンに与えた[1]

人物

ホレス・ウォルポールの友人であり、2人の間の手紙が数多く残っている[6]

家族

アッパー・オソリー伯爵夫人アン・リデル、ジョシュア・レノルズ作、1775年頃。
第2代アッパー・オソリー伯爵の娘ガートルード、ジョシュア・レノルズ作、1779年。

1769年3月26日、アン・リデル(Anne Liddell、1738年頃 – 1804年2月24日、初代レイヴェンスワース男爵ヘンリー・リデルの娘)と結婚[1]、下記の子女を儲けた。

  • メアリー(1770年2月24日 – ?) - 夭折
  • ガートルード(1774年8月 – 1841年9月30日) - 生涯未婚

ほかにも下記の庶子を儲けた。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward, ed. (1898). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (U to Z, appendix, corrigenda, occurrences after 1 January 1898, and general index to notes, &c.) (英語). Vol. 8 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 11.
  2. ^ a b c Fisher, David R. (1986). "FITZPATRICK, John, 2nd Earl of Upper Ossory [I] (1745-1818), of Ampthill, Beds". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月10日閲覧
  3. ^ I. Bignamini, C. Hornsby, Digging And Dealing In Eighteenth-Century Rome (2010), pp. 334-335.
  4. ^ Durrant, Peter. "FitzRoy, Augustus Henry, third duke of Grafton (1735–1811)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/9628 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  5. ^ "Fitzpatrick; John (1745 - 1818); 2nd Earl of Upper Ossory" (英語). Royal Society. 2019年7月10日閲覧
  6. ^ "Horace Walpole's Correspondence - Yale Edition" (英語). Yale University Library. 2019年7月11日閲覧

関連図書

グレートブリテン議会英語版
先代
タヴィストック侯爵英語版
ロバート・ヘンリー=オングリー
庶民院議員(ベッドフォードシャー選挙区英語版選出)
1767年 – 1794年
同職:ロバート・ヘンリー=オングリー 1767年 – 1780年
セント・アンドリュー・セント・ジョン英語版 1780年 – 1784年
オングリー男爵 1784年 – 1785年
セント・アンドリュー・セント・ジョン英語版 1785年 – 1794年
次代
セント・アンドリュー・セント・ジョン英語版
ジョン・オズボーン英語版
名誉職
先代
ベッドフォード公爵
ベッドフォードシャー統監英語版
1771年 – 1818年
次代
グランサム男爵
アイルランドの爵位
先代
ジョン・フィッツパトリック
アッパー・オソリー伯爵
1758年 – 1818年
断絶
グレートブリテンの爵位
爵位創設 アッパー・オソリー男爵
1794年 – 1818年
断絶