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「ヘンリー・ハワード (第4代カーライル伯爵)」の版間の差分

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[[チャールズ・ハワード (第3代カーライル伯爵)|第3代カーライル伯爵チャールズ・ハワード]]とアン・カペル({{lang|en|Anne Capell}}、1752年10月14日没、{{仮リンク|アーサー・カペル (初代エセックス伯爵)|en|Arthur Capell, 1st Earl of Essex|label=初代エセックス伯爵アーサー・カペル}}の娘)の息子として、1694年に生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴィカリー・ギブス (セント・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=Herbert Arthur|year=1913|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts)|volume=3|edition=2nd|location=London|publisher=The St. Catherine Press, Ltd.|language=en|pages=35–36|url=https://archive.org/details/completepeerageo03coka/page/35}}</ref>。[[イートン・カレッジ]]で教育を受けた後、1711年5月2日に[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学、1712年に{{仮リンク|マスター・オブ・アーツ (オックスフォード、ケンブリッジ、ダブリン大学)|en|Master of Arts (Oxford, Cambridge, and Dublin)|label=M.A.}}の学位を修得した<ref name="ACAD">{{Acad|id=MRPT711HH|name=Howard, Henry, Viscount Morpeth}}</ref>。
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1756年11月18日、[[ガーター勲章]]を授与された<ref name="Cokayne" />。
1756年11月18日、[[ガーター勲章]]を授与された<ref name="Cokayne" />。

2020年6月2日 (火) 11:54時点における版

第4代カーライル伯爵ヘンリー・ハワード英語: Henry Howard, 4th Earl of Carlisle KG1694年8月14日1758年9月3日)は、グレートブリテン王国の政治家、貴族。

生涯

第3代カーライル伯爵チャールズ・ハワードとアン・カペル(Anne Capell、1752年10月14日没、初代エセックス伯爵アーサー・カペル英語版の娘)の息子として、1694年に生まれた[1]イートン・カレッジで教育を受けた後、1711年5月2日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1712年にM.A.の学位を修得した[2]

1715年イギリス総選挙モーペス選挙区英語版から出馬して当選、議会で義父の第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーを支持したが、後に野党派ホイッグ党に転じ、1725年にはウィリアム・パルトニーとともに初代マクルズフィールド伯爵トマス・パーカーの弾劾に反対票を投じた[3]。1727年以降には毎年のように陸軍の軍縮議案を提出し[3]、1738年5月1日に父が死去すると、カーライル伯爵の爵位を継承した[1]。以降はヨークシャーにおけるハワード家の影響力を野党側に貢献し、1741年イギリス総選挙では息子チャールズ英語版を当選させた[3]。首相ロバート・ウォルポールが失脚した後もパルトニーの盟友であり続け、1746年のバース=グランヴィル内閣の組閣では王璽尚書に内定されたが、組閣が失敗したため就任することはなかった[3]王太子フレデリック・ルイスの影の内閣では第一大蔵卿となっていたが、フレデリック・ルイスが1751年に死去したため、やはり就任することはなかった[3]

1756年11月18日、ガーター勲章を授与された[1]

1758年9月3日にヨークで死去、カースル・ハワードで埋葬された[1]

家族

1717年11月27日の夜、フランシス・スペンサー(Frances Spencer、1742年7月27日没、第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーの娘)と結婚[1]、3男2女を儲けた[4]

  • チャールズ英語版(1719年5月22日洗礼 – 1741年8月9日) - ホイッグ党所属の庶民院議員
  • ロバート(1726年2月9日 – 1743年10月20日)
  • 男子
  • アラベラ(1746年没) - 初代準男爵ジョナサン・コープ英語版と結婚、子供あり
  • ダイアナ(1770年没) - トマス・ダンコンブ(Thomas Duncombe)と結婚

1743年6月8日、イザベラ・バイロン(Isabella Byron、1721年11月10日 – 1795年1月22日、第4代バイロン男爵ウィリアム・バイロンの娘)と再婚[1]、1男4女を儲けた[4]

  • アン(1744年 – ?) - 生涯未婚
  • フランシス(1808年4月没) - ジョン・ラドクリフ(John Radcliffe)と結婚
  • エリザベス(1813年6月没) - 1769年2月16日、庶民院議員ピーター・デルメ英語版と結婚、子供あり。1794年1月13日、チャールズ・ガーニア(Charles Garnier)と再婚
  • フレデリック(1748年 – 1825年) - 第5代カーライル伯爵
  • ジュリアナ(1749年頃 – 1849年1月22日)

出典

  1. ^ a b c d e f Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 35–36.
  2. ^ "Howard, Henry, Viscount Morpeth (MRPT711HH)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  3. ^ a b c d e Sedgwick, Romney R. (1970). "HOWARD, Henry, Visct. Morpeth (?1693-1758).". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年8月5日閲覧
  4. ^ a b "Carlisle, Earl of (E, 1661)". Cracroft's Peerage (英語). 4 February 2007. 2019年8月5日閲覧
グレートブリテン議会英語版
先代
サー・ジョン・ジャーメイン準男爵英語版
オーリー・ダグラス英語版
庶民院議員(モーペス選挙区英語版選出)
1715年 – 1738年
同職:キャッスルカマー子爵英語版 1715年 – 1717年
ジョージ・カーペンター英語版 1717年 – 1727年
サー・トマス・ロビンソン準男爵英語版 1727年 – 1734年
サー・ヘンリー・リデル準男爵 1734年 – 1738年
次代
サー・ヘンリー・リデル準男爵
ヘンリー・ファーニーズ英語版
イングランドの爵位
先代
チャールズ・ハワード
カーライル伯爵
1738年 – 1758年
次代
フレデリック・ハワード