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|1727年7月6日~1754年 |
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|ブロディ城<small>([[:en: Brodie Castle|英語版]])</small>の城主であり、1720年にエルギンシャー<small>([[:en: County of Moray|英語版]])</small>から庶民院議員に選出され、[[ウォルポール=タウンゼンド内閣]]の熱心な支持者であった。そのことによってリヨン卿に任命され、年間300ポンドの報酬を与えられた。<br>権威に対して遠慮したりひいきをしたりすることなく業務を行うことで知られ、また、[[ハノーヴァー朝]]の支持者であったのにもかかわらず、[[ジャコバイト|ジャコバイト派]]の職員を守り、給料の減額を防いだり死刑からの恩赦を得たりした。 |
|ブロディ城<small>([[:en: Brodie Castle|英語版]])</small>の城主であり、1720年にエルギンシャー<small>([[:en: County of Moray|英語版]])</small>から庶民院議員に選出され、[[ウォルポール=タウンゼンド内閣]]の熱心な支持者であった。そのことによってリヨン卿に任命され、年間300ポンドの報酬を与えられた。<br>権威に対して遠慮したりひいきをしたりすることなく業務を行うことで知られ、また、[[ハノーヴァー朝]]の支持者であったのにもかかわらず、[[ジャコバイト|ジャコバイト派]]の職員を守り、給料の減額を防いだり死刑からの恩赦を得たりした。 |
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2020年6月2日 (火) 12:03時点における版
ロード・リヨン・キング・オブ・アームス(Lord Lyon King of Arms)は、コート・オブ・ザ・ロード・リヨン(リヨン裁判所)の長であり、スコットランドにおける紋章の記録や新たな紋章の認可を管轄する。スコットランドの国務大官の中では最下位に位置し、敬称は「閣下」。なお、リヨン裁判所は現存する紋章を管轄する裁判所として、世界最古のものである。
以前はHigh Sennachieと呼ばれており、「ロード・リヨン」という呼び名はスコットランドの紋章の一部であるライオンから来ている[1]。19世紀まではリヨン補佐官が置かれ、実務を執り行っていたが、1866年以降設けられていない。
職務
リヨン卿はスコットランドにおいての国家儀式の監督、個人や団体への新たな紋章の認可、系図や既存の紋章の使用権の承認、クランの氏族長やクランタータンの記録を行う。リヨン卿が紋章を記録する登録簿(Public Register of All Arms and Bearings in Scotland)は1672年からのものである[2]。
リヨン裁判所は政府機関であるため、紋章の付与に支払われる手数料は大蔵省に納められる。許可なき紋章の使用はスコットランドでは脱税とみなされ、犯罪とされる。紋章に関する裁判はリヨン卿を唯一の裁判官とするリヨン裁判所にてなされ、控訴は民事上級裁判所(Court of Session)に対して行われる。ただし、紋章の不認可に関しては行政手続きの一環であるため控訴はできず、司法審査(英語版)が可能なのみである。
イングランドでの相当職
イングランドにおいてのロード・リヨン・キング・オブ・アームスに相当する職は分野によって複数存在する[要出典]。
- 国家儀式の統括と紋章の交付という点では軍務伯がこれに相当する。
- 紋章官としてはイングランドには以下の3人のキング・オブ・アームスが存在する。なお、ロード・リヨン・キング・オブ・アームスとは異なり紋章の交付は軍務伯の権限である。
- ガーター・プリンシパル・キング・オブ・アームス(Garter Principal King of Arms)…全体の統括
- クラレンスー・キング・オブ・アームス(Clarenceux King of Arms)…イングランド南部
- ノロイ・アンド・アルスター・キング・オブ・アームス(Norroy and Ulster King of Arms)…イングランド北部・北アイルランド
- 紋章を管轄する裁判所としてはハイ・コート・オブ・シバリー(High Court of Chivalry)が存在するが、民事専門の裁判所であり、最後に開かれたのは1954年である。これに対しリヨン裁判所は刑事裁判所としての機能を併せ持ち、紋章が不正に使用されている部分の破壊を行うことができるなど強い権限を持つ。
リヨン卿はスコットランド国王旗(英語版)である「ライオン・ランパント」を使用することのできる数少ない人の一人である[3]。
シンボル
1998年にリヨン卿の職位を示すカラー(英語版)が新調された。これは40の金の環をつなぎ合わせたもので、スコットランド専用のものとしては1746年のカロデンの戦い後に行方不明になったもの以来である(新調以前はイングランドのキング・オブ・アームスと同様のものを使用していた)[4]。
また、2003年には、スコットランド国王冠(英語版)のデザインをベースに、リヨン卿の宝冠も新調された[5]。エリザベス王太后の宝冠と同様、不敬にあたるのを防ぐために戴冠式の際にはアーチの部分が取り外せるようになっている[6]。
歴代リヨン卿・補佐官
ロード・リヨン・キング・オブ・アームス
個人紋章 | 名前 | 在職期間 | 備考 | 脚注[7] |
---|---|---|---|---|
不明 | (1377年)~1399年 | 1318年にロバート1世がリヨン卿を設けたという説があるが、真偽は不明である。アブロアス修道院の修道士であったウィリアム・デ・ピッテンウィームが15世紀に唱えたのがこの説のはじめとされる。 大蔵省などの記録によれば、リヨン卿(当時は「リヨン・ヘラルド(Lyoun Herauld)」)が設けられたのは1377年だとされている。 |
[8] | |
ヘンリー・グレーヴ Henry Greve |
1399年頃 | リヨン卿自体は1999年以前から存在したと思われているが、在職者の記録は1399年が初めである。 1399年のイングランドの公文書に「スコットランドの紋章官の長(King of Scottish Heralds)」であるヘンリー・グレーヴがイングランド王ヘンリー4世の戴冠式(あるいはその直後)にロンドン塔にいたという記録が残されている。 このころ、リヨン卿はイングランド及びフランスに対する外交使節の一員として度々記録されている。 |
[9] | |
?・ダグラス ... Douglas |
1400年~1421年 | 1391年以降、ダグラスの名前がHerald of the Kingとして頻繁に記録されている。また、1421年にはLyon Heraldとして記録されている。 | ||
アレクサンダー・ネアーン・オブ・サンドフォード Alexander Nairne of Sandford |
1437年~1450年 | サンドフォード家創設者、リヨン卿、王室会計官(英語版) | [10] | |
ダンカン・ダンダス・オブ・ニューリストン Duncan Dundas of Newliston |
1450–1471 | ジェームス・ダンダス・オブ・ザット・イルクの次男。イングランドへの外交使節として頻繁に派遣された。ニューリストン男爵量を得て、ダンダス家の分家であるダンダス・オブ・ニューリストン家を創設した。 | [11] | |
ザ・レアード・オブ・ウッドヘッド The Laird of Woodhead |
1471年~1481年 | [12] | ||
不明 | 1481年~1489年 | 名前は不明だが、このリヨン卿は1484年に国王の「sympell servant」としてフレミング卿夫人の苦情によってカンバーノールドに派遣されている。 公文書につけられた印章が残っており、それは3つのミュレット(星)の間に三日月が配置されていることから、名前がアーバスノットもしくはマレーだったのではないかとも推測される。 |
[13] | |
サー・アンドリュー・マレー・オブ・トリュイム Sir Andrew Murray of Truim |
1489年~1496年 | 前職はアルバニー・ヘラルド(英語版)もしくはイズレー・ヘラルド(英語版)。 | ||
ヘンリー・トムソン・オブ・ケイルー Henry Thomson of Keillour |
1496年~1512年 | トムソンはリヨン卿として複数の外交使節としての派遣を経験している。1505年にはジェームス4世の代理としてデンマークに赴き、ジェームス4世のいとこにあたるデンマーク王ハンスにスコットランドがデンマーク・スウェーデン戦争(英語版)に艦船を派遣することができないことを伝える役目を負っている。
前職はイズレー・ヘラルド。 |
[14] | |
サー・ウィリアム・カミング・オブ・インバーアロッキー Sir William Cumming of Inverallochy |
1512年~1519年 | カミングはジェームス4世からイングランド王ヘンリー8世への最後通牒を1513年8月11日にフランスのテルアンヌ(英語版)にて手渡すという重責を負っている。この時の会話の記録が残されており、また、ヘンリー8世がこの条件をのまなかったことでスコットランドとイングランドの間に戦争が勃発した。このことからフロデンの戦いでの敗北には立ち会っていないが、1513年9月21日のジェームス5世の戴冠式には出席している。 1514年には、アンガス伯爵(英語版)とジェームス4世の未亡人であるマーガレット・テューダーの結婚についての伯爵の召喚状を届けた際、祖父にあたるドラモンド卿(英語版)によって暴行を受けた。リヨン卿の地位の神聖さにより、ドラモンド卿はブラックネス城に監禁され、全財産を没収されたが、数か月の獄中生活ののち放免された。 前職はマーチモント・ヘラルド(英語版)。 |
[15][16] | |
トマス・ペティグリュー・オブ・マグダーレンサイド Thomas Pettigrew of Magdalensyde |
1519年~1542年 | ペティグリューについてはあまり記録が残っていないが、任期の大半の期間において実際の業務はペティグリューの死後リヨン卿についたサー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウントによって行われていたという。
前職はアンガス・ヘラルド(英語版)。 |
[17][18] | |
サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウント Sir David Lindsay of the Mount |
1542–1554 | リンジーはリヨン卿であるとともにスコットランド朝廷の桂冠詩人でもあり、前者として紋章に関わる業務に携わったり外交使節として海外に派遣されたほか、後者としては宗教や国体の改革について自由に意見を述べ、スコットランド宗教改革の中心的詩人になった。
1531年6月の最初のリヨン卿としての海外への派遣では、神聖ローマ皇帝カール5世の朝廷に出向き、スコットランドとオランダとの同盟を100年間延長した。 |
[19] | |
サー・ロバート・フォーマン・オブ・ルスリー Sir Robert Forman of Luthrie |
1555年~1567年 | フォーマンは1540年にパーシバントになり、その年の11月にはロス・ヘラルド(英語版)に昇格した。1561年にメアリー・オブ・ギーズによってリヨン卿に任命され、収入は前任者の多くと異なりコレシー(英語版)ではなくラシレットから得た。1567年に引退。
複数の紋章記録簿を統合した「リヨン卿記録簿(Register of Lord Lyon)」を作成した。 |
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サー・ウィリアム・ステュアート・オブ・ルスリー Sir William Stewart of Luthrie |
1567年 | 前職はロス・ヘラルドで1568年2月20日付でリヨン卿に就任した。しかし、摂政ジェームス・ステュアートに対する殺害未遂疑惑によって半年もしないうちに職を解かれて逮捕され、翌1569年8月16日にセント・アンドリュースにて火刑に処された。 | [20] | |
サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ラシレット Sir David Lindsay of Rathillet |
1568年9月13日年9月13日~1591年 | 3代前にリヨン卿を務めたサー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウントとは兄弟もしくは異父母兄弟の関係にあたるとされる。
1554年以前にはディングウォール・パーシバント(英語版)を務めており、1561年にロスシー・ヘラルド(英語版)、1568年にリヨン卿に昇格した。 |
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サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウント(2世) Sir David Lindsay of the Mount (Secundus) |
1591年12月25日~1620年 | リヨン卿に就く2人目のサー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウントは1人目の兄弟のアレクサンダー・リンジーの子供であった。
就任式は1592年5月2日に行われ、ジェームス6世自らが戴冠を行った。 |
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サー・ジェローム・リンジー・オブ・アナットランド Sir Jerome Lindsay of Annatland |
1620年11月8日~1630年 | リンジー・オブ・デュニオ・アンド・アナットランドは前任者サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウントの娘と結婚しており、一族のリヨン卿就任者の最後にあたる。 | ||
サー・ジェームス・バルフォー・オブ・デンミルン・アンド・キナード初代準男爵 Sir James Balfour of Denmilne and Kinnaird, 1st Baronet |
1630年4月20日~1654年 | バルフォーは1630年に30歳でリヨン卿に任命され、紋章官経験もなかったが、よく務めていたという。
1654年の退任はオリバー・クロムウェルによるもの。 |
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サー・ジェームス・キャンベル・オブ・ローヤー Sir James Campbell of Lawers |
1658年5月13日~1660年 | 王政を撤廃し共和制を打ち立てたクロムウェルであったが、紋章官制度については維持し、2人のリヨン卿を任命している。 1人目にあたるのがこのキャンベルで、1658年5月13日にウェストミンスターにて任命されている。 |
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サー・アレクサンダー・ダーハム・オブ・ラーゴ Sir Alexander Durham of Largo |
1660年8月28日~1663年 | スコットランド王党派においての働きに対する報酬として任命。1663年に死去。 | ||
サー・チャールズ・アースキン・オブ・カンボ準男爵 Sir Charles Erskine of Cambo, Baronet |
1663年1月4日~1677年 |
1663年にチャールズ2世によって任命。 |
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サー・アレクサンダー・アースキン・オブ・カンボ第2代準男爵 Sir Alexander Erskine of Cambo, 2nd Baronet |
1677年~1726年 | 前述の計らいにより、サー・チャールズの死後、リヨン卿の座は息子のアレクサンダーにわたった。 有能な人材であり、1702年には時期リヨン卿を息子のアレクサンダーにする特許を得て、世襲のものとする事を宣言したが、息子に先立たれてしまった。 |
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アレクサンダー・ブロディ第19代オブ・ザット・イルク Alexander Brodie, 19th of that Ilk |
1727年7月6日~1754年 | ブロディ城(英語版)の城主であり、1720年にエルギンシャー(英語版)から庶民院議員に選出され、ウォルポール=タウンゼンド内閣の熱心な支持者であった。そのことによってリヨン卿に任命され、年間300ポンドの報酬を与えられた。 権威に対して遠慮したりひいきをしたりすることなく業務を行うことで知られ、また、ハノーヴァー朝の支持者であったのにもかかわらず、ジャコバイト派の職員を守り、給料の減額を防いだり死刑からの恩赦を得たりした。 |
[21][22] | |
ジョン・フック=キャンベル・オブ・バンゲストン John Hooke-Campbell of Bangeston |
1754年4月3日~1795年 | キャンベル・オブ・コーダー氏族(英語版)の一員でジョン・キャンベル初代コーダー男爵(英語版)の甥にあたる。母親の一族からウェールズの資産を受け継いだとみられ、紋章一覧簿に「キャンベル=フック」の名前で紋章を登録している。
特に任期後半においてはエディンバラにいることは少なかった。1795年に急死した。 |
[23] | |
ロバート・ボスウェル・オブ・セント・ボスウェルズ Robert Boswell of St. Boswells |
1795年~1796年 | サミュエル・ジョンソンの伝記を書いたジェームス・ボスウェルのいとこにあたり、1770年からリヨン官吏とリヨン補佐官を務めていた。
1789年にはリヨン補佐官としてエディンバラ大学に対する紋章交付状に署名している。 |
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ロバート・オーレオル・ヘイ=ドラモンド第10代キノール伯爵 Robert Aureol Hay-Drummond, 10th Earl of Kinnoull |
1796年5月26日~1804年 | 1751年にヨーク大主教ロバート・ヘイ・ドラモンド(英語版)の子として生まれる。
ドラモンドの姓と紋章は父親のロバートが曾祖父であるストラスアラン子爵(英語版)から1739年に、キノール伯爵(英語版)の地位はロバート・ヘイ=ドラモンドが伯父のトーマス・ヘイ(英語版)の死を受けて1787年12月27日に受け継いだものである。 |
[24] | |
トーマス・ロバート・ヘイ=ドラモンド第11代キノール伯爵 Thomas Robert Hay-Drummond, 11th Earl of Kinnoull |
1804年4月12日~1866年 | 前任者ロバート・ヘイ=ドランモンドとその2番目の妻サラ・ハーレー(ロンドン市長トマス・ハーレー(英語版)の娘)の間にバースで生まれた。 1804年に父親の跡を継いでリヨン卿となったが、父親同様職務は補佐官に代行させた。 リヨン卿以外では1809~55年にパースシャー民兵の大佐を、1830~66年にはパースシャー(英語版)統監を務めた。 1866年にトーキーで死去。 |
[24][25][26] | |
ジョージ・バーネット George Burnett |
1866年7月26日~1890年 | 1822年にケムネー(英語版)第5代当主ジョン・バーネットの息子として誕生。 1845年に法廷弁護士会(英語版)に入会が認められ、1863年にリヨン補佐官に任命され事実上の紋章官トップとなった。3年後にキノール伯爵の跡を継ぎ四半世紀近くの間リヨン卿を務めた。 |
[27] | |
サー・ジェームス・バルフォー・ポール Sir James Balfour Paul |
1890年3月12日~1926年 | 1846年に誕生、エディンバラ王立高校(英語版)、エディンバラ大学で教育を受け、1870年に法廷弁護士に認められた。1879~90年に友愛組合(英語版)登記官、1883~1902年に法廷弁護士会会計を務め、1890年にリヨン卿に就任した。1900年に騎士号を与えられ、1926年の引退直前にはロイヤル・ヴィクトリア騎士団ナイト・コマンダーに叙せられている。また、貴族として認められ、聖ヨハネ騎士団コマンダー、シッスル騎士団秘書官、スコットランド歴史学会(英語版)フェローなどの称号を受けている。 | [28][29] | |
ジョージ・シットウェル・キャンベル・スウィントン George Sitwell Campbell Swinton |
1927年~1929年 | 1859年に生まれ。陸軍の軍人として第71歩兵連隊(ハイランド)(英語版)に配属され、1888~94年にはインド総督副官を務めた。保守党の政治家として複数の地方職を務め、また、マーチ・パーシヴァント(英語版)を務めた。1923-26年にアルバニー・ヘラルド、1927~29年にリヨン卿およびシッスル騎士団秘書官を務めた。 | [30] | |
サー・フランシス・ジェームス・グラント Sir Francis James Grant |
1929年~1945年 | 1884-88年にマーチモント・ヘラルドを務めたジョン・グラントの息子として、1863年に生まれた。
1886年5月17日にカリック・パーシヴァント(英語版)に任命され、1898年9月8日にはロスシー・ヘラルド兼リヨン官吏記録管理官に昇格した。1929年5月10日にリヨン卿に任命され、1935年にはロイヤル・ヴィクトリア騎士団ナイト・コマンダーに叙せられた。1945年6月30日に引退。 |
[31] | |
サー・トーマス・インズ・オブ・レアニー Sir Thomas Innes of Learney |
1945年~1969年 | 1893年に生まれ、1926~35年にカリック・パーシヴァント、1935~45年にアルバニー・ヘラルドを務めた。1967年6月10日にロイヤル・ヴィクトリア騎士団ナイト・コマンダーに叙せられ、1969年に引退した。 | [32] | |
サー・ジェームス・モンテイス・グラント Sir James Monteith Grant |
1969年~1981年 | 1903年に生まれ、エディンバラ・アカデミー(英語版)およびエディンバラ大学で教育を受けた。1927年にライター・トゥー・ザ・シグネット(英語版)に認定され、1946~57年にカリック・パーシヴァント、1957~69年にマーチモント・ヘラルドを務めた。1969年にリヨン卿に任命され、ロイヤル・ヴィクトリア騎士団ナイト・コマンダーに叙せられた。1981年に引退。 | [33] | |
サー・マルコム・インズ・オブ・エディンガイト Sir Malcolm Rognvald Innes of Edingight |
1981年~2001年 | サー・トーマス・インズ・オブ・レアニーの息子として1938年に生まれる。1957~58年にフォークランド・パーシヴァント(英語版)、1958年~1971年にカリック・パーシヴァント、1971年~81年にマーチモント・ヘラルドを務め、1966年以降はリヨン官吏も兼任していた。1981年にリヨン卿に任命され2001年に引退、オークニー・ヘラルドとなった。スコットランド紋章学会(英語版)共同発起人、元会長、フェローであるとともに、スコットランド系譜学会名誉会長を務める。1990年にロイヤル・ヴィクトリア騎士団ナイト・コマンダーに叙せられている。 | [34][35] | |
ロビン・オー・ブレア Robin Orr Blair |
2001年~2008年 | 1940年生まれで元事務弁護士。法律事務所のダンダス&ウィルソン(英語版)及びトルカン・コネルでパートナーを務めた。2001年2月9日にリヨン卿に任命されており、EUの公共職任命規則にのっとったリヨン卿として初めての任命であるとともに、王室府(英語版)の上級職としてロンドンのイギリス政府ではなくスコットランド行政部(現在のスコットランド政府)によって任命された初の例である。2008年に引退し、ロイヤル・ヴィクトリア騎士団コマンダーに叙せられている。 | [36] | |
ウィリアム・・デイヴィッド・ハミルトン・セラー William David Hamilton Sellar |
2008年~2014年 | 1941年に生まれ、オックスフォード大学で歴史を学び教養学士を取得した後エディンバラ大学で法学学士(英語版)を取得した。1966年に事務弁護士となり、1968年からのちに名誉フェローの称号を受けるエディンバラ大学法学部に入った。2008年にリヨン卿に就任し2014年に引退、同年ロイヤル・ヴィクトリア騎士団メンバーに叙せられた。 | [37][38] | |
ジョセフ・ジョン・モロー The Reverend Canon Dr. Joseph John Morrow |
2014年~ | 神学と法学で学位を持ち、律修司祭であるとともに法廷弁護士会の会員である。2014年1月17日に任命され、同年2月27日からリヨン卿を務めている。 | [39][40] |
リヨン補佐官
個人紋章 | 名前 | 任命[7][12] | 備考 | |
---|---|---|---|---|
サー・ウィリアム・カミング・オブ・インバーアロッキー Sir William Cumming of Inverallochy |
1508年 | マーチモント・ヘラルド兼任 1512年リヨン卿就任 | ||
サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウント Sir David Lindsay of the Mount |
1528年 | スノーダウン・ヘラルド兼任 1542年リヨン卿就任 | ||
サー・ロバート・フォーマン・オブ・ルスリー Sir Robert Forman of Luthrie |
1554年 | ロス・ヘラルド兼任 1555年リヨン卿就任 | ||
サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウント(2世) Sir David Lindsay of the Mount (Secundus) |
1568年 | 1591年リヨン卿就任 | ||
トーマス・リンジー Thomas Lindsay |
1591年 | |||
トーマス・ドライスデール Thomas Drysdale |
1627年 | イズレー・ヘラルド兼任 | ||
ローレンス・オリファント Laurence Oliphant |
1631年1月31日 | 法廷弁護士 | ||
ハリー・モール・オブ・メルグンド Harry Maule of Melgund |
(1636年) | |||
サー・デイヴィッド・バルフォー Sir David Balfour |
1650年3月20日 | 法廷弁護士 1630年リヨン卿就任 後に民事上級裁判所判事 | ||
サー・ジョン・バード ニュービス卿 Sir John Baird, Lord Newbyth |
1663年8月15日 | 法廷弁護士 1664年民事上級裁判所判事就任 | ||
ウィリアム・トムソン・オブ・フェアリーホープ William Thomson of Fairliehope |
1666年1月4日 | |||
ジェームス・スキーン James Skene |
1677年11月10日 | 共同 キンタイア・パーシヴァント兼任 | ||
ロバート・インズ・オブ・ブレアタウン Robert Innes of Blairtoun |
1677年11月4日 | 共同 1687年11月10日から単独 | ||
ジェームス・ダグラス・オブ・エーンスロー James Douglas of Earnslaw |
1689年5月5日 | |||
デイヴィッド・アースキン David Erskine |
1724年6月6日 | ロスシー・ヘラルド兼任 | ||
ジョン・ダンダス・オブ・ニューホールズ John Dundas of Newhalls |
1728年11月1日 | |||
トーマス・ダンダス・オブ・フィンガスク Thomas Dundas of Fingask |
1744年6月18日 | オークニー&シェトランド選出国会議員 | ||
トーマス・ブロディ Thomas Brodie |
1754年8月30日 | |||
ロバート・ボスウェル・オブ・セント・ボスウェルズ Robert Boswell of St. Boswells |
1770年11月2日 | 1795年のフック=キャンベル卿の死から翌1796年のキノール卿の就任までの間、暫定リヨン卿を務める。 | ||
ジェームス・ホーム・オブ・リンハウス James Home of Linhouse |
1796年8月8日 | |||
デイヴィッド・クライン David Clyne |
1819年2月21日 | 暫定 | ||
ジョージ・テイト George Tait |
1819年4月24日 | 暫定 | ||
ジョージ・クラーク・クレイギー・オブ・ダンバーニー George Clerk Craigie of Dumbarnie |
1823年4月1日 | 法廷弁護士 | ||
ジェームス・ティトラー・オブ・ウッドハウスリー James Tytler of Woodhouselee |
1827年6月2日 | 共同 1845年から単独 | ||
ジョージ・バーネット George Burnett |
1863年11月9日 | 1866年リヨン卿就任 | ||
1866年に廃止 |
リヨン卿紋章
脚注
- ^ Moncrieffe, Ian; Pottinger, Don. Simple Heraldry Cheerfully Illustrated. Thomas Nelson and Sons. pp. 48
- ^ Moncrieffe, Ian; Pottinger, Don. Simple Heraldry Cheerfully Illustrated. Thomas Nelson and Sons. p. 63
- ^ [1] The Court of the Lord Lyon website
- ^ Holme, Chris; Duncan, Raymond (19 October 1998). “A Yankee sorts the Court of Lord Lyon”. The Herald (Glasgow) 25 February 2018閲覧。
- ^ “Lord Lyon gets his crown back”. The Scotsman. (13 July 2003) 25 February 2018閲覧。
- ^ [2]
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