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2020年6月4日 (木) 00:36時点における版
昌邑王 劉賀 | |
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前漢 | |
皇帝 | |
海昏侯墓から発見された劉賀の印 | |
王朝 | 前漢 |
在位期間 | 前74年7月18日 - 8月14日 |
都城 | 長安 |
姓・諱 | 劉賀 |
生年 | 征和元年(前92年) |
没年 | 神爵3年(前59年) |
父 | 劉髆 |
年号 | 元平 : 前74年 |
劉 賀(りゅう が)は、前漢の第9代皇帝。霍光に擁立されて即位するも、間もなく廃された。一般的には即位前の王号を取って、昌邑王(しょうゆうおう)と呼ばれることが多い。
生涯
昌邑哀王・劉髆(りゅう はく)の子。武帝の孫にあたる。父の早世により幼くして王位を継いだ。
紀元前74年に叔父の昭帝が急死すると、当時輔政の任に当たっていた大司馬大将軍・霍光の推薦により、昭帝の皇后・上官氏(霍光の外孫)の命で昌邑から都長安に招かれ、帝位に即いた。
しかし、その道中や長安に入り皇帝になってからの不行跡があまりにも酷いということで、霍光・張安世ら重臣の奏上を容れた上官皇太后の詔により、在位27日で帝位を剥奪され、海昏侯4,000戸の領主に降格された。
ただ、劉賀の廃位から宣帝擁立までに至る動きが何かと不自然な行為があったといわれる。西嶋定生は、この事件で劉賀の家臣がことごとく処罰されていることや処刑される際に「やるべきことをやらなかったためにかえってやられてしまった」と嘆いた者がいたことなどから、実権を握っている霍光らを排除して劉賀の権力を確立する計画があったのではないかと推測している。しかし、計画は霍光らに露見し、彼らによる逆クーデターという事態になったのではないかという見方がなされている(この事件で「劉賀を日頃諫めていた」として許された劉賀の家臣、郎中令の龔遂と中尉の王吉と学問の師の王式らが密告者だと疑われている)。
宣帝の密命で様子を見に行った太守の報告によると、当時20代後半の劉賀はすでに中風のため歩行が不自由だったという。また数年後に訪問客に対する発言をとがめられて4,000戸中3,000戸を削られている。33歳で死去した。
劉賀の死後、海昏侯の世襲は認められなかった。『漢書』武五子伝によると、後継ぎとして届け出た劉賀の子が次々と亡くなったため、後継ぎを立てるべきでないという天意があるものとされたという。しかし、元帝の時代に、嗣子の劉代宗が特例として海昏侯位を継いだ。海昏侯は後漢の代まで存続したという。
2016年3月2日に中華人民共和国江西省政府は、同省南昌市新建区大塘坪郷観西村墎墩山の海昏侯墓の被葬者が劉賀であると断定した旨発表した[1]。
脚注
- ^ “漢廃帝・劉賀の海昏侯墓、その貴重な出土品の数々”. China Radio International.CRI.. 2016年3月3日閲覧。