「郭皇后 (宋仁宗)」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
55行目: | 55行目: | ||
[[Category:1012年生]] |
[[Category:1012年生]] |
||
[[Category:1035年没]] |
[[Category:1035年没]] |
||
[[Category:廃位された |
[[Category:廃位された后妃]] |
2020年6月4日 (木) 00:48時点における版
郭皇后 | |
---|---|
北宋の皇后 | |
在位 | 1024年12月24日[1] - 1034年1月16日[2] |
出生 |
大中祥符5年(1012年) |
死去 |
景祐2年11月8日 (1035年12月10日) |
配偶者 | 仁宗 |
父親 | 郭允恭 |
郭皇后(かくこうごう、1012年 - 1035年)は、北宋の第4代皇帝仁宗の最初の皇后。
経歴
応州金城の出身。天聖2年(1024年)に立后されたが、仁宗はもっぱら張氏を寵愛しており、郭皇后が目通りするのは稀であった。仁宗は張氏を皇后に立てたいと望んだが、母の劉皇太后が反対したため沙汰やみとなった。張氏は美人の位にとどまったまま死去した。明道2年(1033年)3月、皇太后劉氏が崩じた後、仁宗は初めて自身の実母が李宸妃であったことを知り、深く悼んだ。
その後、尚美人と楊美人がともに寵愛を受けるに至って、郭皇后はたびたび嫉妬に忿怒したという。尚美人が仁宗の御前において、皇后の言葉を遮って話すという無礼を犯した。怒った郭皇后が尚美人の頬を叩こうとしたところ、止めに入った仁宗の顔を誤って叩いてしまい、また皇后の爪が仁宗の頬を傷つけた。激怒した仁宗は、閻文応や呂夷簡に顔の傷を見せ、廃后の相談をした。呂夷簡は皇后によって職務を罷免されたことで怨みを抱いており、「古にもまた(廃后という)例はございます」と言ったため、同年12月(西暦で1034年)、郭皇后は廃された。中丞の孔道輔、諫官御史の范仲淹や段少連ら10人が「皇后に過ちはありません、廃してはなりません」と訴えたが、かえって罰せられた。
廃后となった郭氏は妃として出家させられ、「浄妃」「玉京沖妙仙師」の称号と「清悟」という道名を下賜された上で、居を長楽宮に移された。景祐元年(1034年)8月、郭妃の身柄は瑤華宮に移り、「金庭教主」「沖静元師」といった称号を賜った。一方、尚美人も廃されて洞真宮で道姑として出家、楊美人も別宅に置かれることとなった。翌月、曹氏が皇后として冊立された。
翌年、仁宗は曹皇后と夫婦仲が悪く、郭妃を想うこと甚だしかった。そこで見舞いの使者を遣わしたところ、妃の返答が大変に沈痛であったので、仁宗は憐れに思い、密かに召し出した。妃は「もし、再びお召しを賜るのなら、百官の立つなかで(皇后に)冊立する場であって下さい。」と言ったという。やがて、郭妃が軽い病を患ったので、仁宗は閻文応を使者に立て、典医を遣わしたが、数日後(11月8日、西暦で12月10日)に郭妃は急死した。宮中でも巷間でも、閻文応が毒を盛ったのではないかと疑ったが、真相は分からなかった。
仁宗は郭氏の死を深く悼み、皇后の位に復せしめたが、諡を賜ることと宗廟に祀ることは停じた。
脚注
- ^ 『宋史』巻9, 仁宗紀 天聖二年十一月乙巳条による。
- ^ 『宋史』巻10, 仁宗紀 明道二年十二月乙卯条 「廢皇后郭氏為淨妃、玉京沖妙仙師、居長寧宮。御史中丞孔道輔率諫官、御史、大呼殿門請對、詔宰相告以皇后當廢狀。」