「ルイス・マウントバッテン」の版間の差分
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[[File:Edward VIII with his staff wearing Happi 1922.jpg|thumb|220px|[[人力車]]夫に扮したマウントバッテン(写真右。名入り[[法被]])、[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]](写真中央。[[髙島屋]]呉服店配達部の法被/ 1922年)]] |
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[[1913年]]に{{仮リンク|オズボーン海軍幼年学校 (イギリス)|en|Royal Naval College, Osborne}}に入校し、[[第一次世界大戦]]勃発後の[[1916年]]7月には16歳で「[[ライオン (巡洋戦艦)|HMSライオン]]」に配置された。その後8月には「[[クイーン・エリザベス (戦艦)|HMSクイーン・エリザベス]]」に乗務している。なお[[1917年]]には、敵国の[[ドイツ]]の「バッテンベルグ」から、イギリス風の「マウントバッテン」に改名している。 |
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2020年6月15日 (月) 21:58時点における版
ルイス・マウントバッテン Louis Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma | |
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マウントバッテン・オヴ・バーマ伯爵 | |
全名 | ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン |
出生 |
1900年6月25日 イギリス |
死去 |
1979年8月27日(79歳没) アイルランド、ドネゴール湾 |
配偶者 | エドウィナ・アシュレイ |
子女 |
パトリシア パメラ |
父親 | 初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン |
母親 | ヴィクトリア |
ビルマの初代マウントバッテン伯爵ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン(Louis Francis Albert Victor Nicholas Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma、1900年6月25日 - 1979年8月27日)は、イギリスの貴族。ガーター勲章勲爵士(KG)、バス勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCB)、メリット勲章勲爵士(OM)、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー勲爵士(GCSI)、ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCVO)、殊功勲章受勲者(DSM)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)[1]。
初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンの子(次男)で、ヴィクトリア女王の曾孫(祖母がヴィクトリア女王の次女)。ドイツのバッテンベルク家出身。海軍元帥。
生涯
生い立ち
初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンとヴィクトリアの子(次男)として生まれた。幼少時には「ディッキー」もしくは「リチャード」と呼ばれていた。
軍歴
1913年にオズボーン海軍幼年学校 (イギリス)に入校し、第一次世界大戦勃発後の1916年7月には16歳で「HMSライオン」に配置された。その後8月には「HMSクイーン・エリザベス」に乗務している。なお1917年には、敵国のドイツの「バッテンベルグ」から、イギリス風の「マウントバッテン」に改名している。
その後は「HMSレナウン」や「HMSレパルス」に乗務した。「HMSレパルス」時代には、第一次世界大戦時に一緒に戦った同盟国の日本や、植民地のイギリス領インド帝国などを訪れている。
中将
32歳の時、プリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード8世→ウィンザー公)と同格の三軍中将(格)に任ぜられた。実際、戦闘の面では大いに不安があったが、マウントバッテンが発揮したのは、結果的には戦闘面よりもそれ以外の面であった。
第二次世界大戦
1939年9月に第二次世界大戦が勃発するや志願して現役に復帰し、海軍大佐に任ぜられた。第5駆逐艦戦隊(5th Destroyer Flotilla)の司令(Captain (D))として駆逐艦「HMSケリー」に乗り、同艦が1941年のクレタ島の戦いで沈没するまで勤務した。この期間中、彼はマウントバッテンピンクという迷彩を考案している。
1942年8月19日にはノルマンディー上陸作戦のリハーサルとも言うべきディエップ港奇襲作戦を指揮。作戦そのものは大損害を蒙ったものの、後年「ディエップでひとりが戦死したために、Dデーでは10人が助かった」と回想している。
1941年12月に日本軍との間に開戦した後は、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官に就任。ビルマの戦いなどで日本軍との戦いの総指揮を執ったものの、質、量ともに勝る日本軍に痛めつけられ、インド洋からイギリス海軍艦隊が一時的に撤退するに至った。この際に連絡将校としてマラヤ統一戦線との窓口になっていたのがマラヤ共産党の指導者陳平である。陳平はマウントバッテンとの交流から、大英帝国の敵でありながらイギリスから叙勲されている。
バイティング作戦
イギリスはドイツの早期警戒レーダー「フライヤ」と標定レーダー「ヴュルツブルク」の2本立てのレーダー技術の情報をつかみドイツが自国よりレーダー技術が進んでいると考え(実際はイギリスの方が進んでいた)レーダー重要部分の強奪を考えた。
これによりバイティング作戦がルイス・マウントバッテンにより立案された。地上レーダーは持ち込まれることがないため困難であり敵地へ突入する必要があったが、1942年2月27日から28日に作戦は実行され、ヴュルツブルクの心臓部入手とヴュルツブルク操作員1名通信兵1名の捕虜を確保し、ドイツのレーダー技術の実情と詳細を把握できた[2]。
戦時会議
1943年1月には、イギリスのウィンストン・チャーチル首相とアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、連合国軍のイタリア上陸作戦についての戦略について会談する「カサブランカ会談」に出席した。
また、11月22日からエジプトのカイロで、チャーチル首相とアメリカのルーズベルト大統領、中華民国の蒋介石主席による、対日戦と戦後の方針を決めるための首脳会談「カイロ会議」に出席した。12月1日に発表された「カイロ宣言」における対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。
終戦
その後1国でイギリスやアメリカ、中華民国やオランダ、オーストラリアなどの連合国軍と戦う日本軍の戦線が伸び切り、1944年に入ると敗色が強くなってきたことから、1945年に入りようやくイギリス軍が攻勢を取るにいたったビルマでの一連の戦いが評価され、「ビルマのマウントバッテン」と謳われるようになる。
SEAC時代には情報戦を駆使した戦術を多用し、戦闘を進める一方で、戦後処理の方策も同時に研究させていた。日本の降伏後、イギリスの手に戻ったシンガポールのシティ・ホールで第7方面軍司令官板垣征四郎を引見して降伏文書を交わしている。
インド総督
日本軍が速やかに撤退した東南アジア方面の処理が一段落した後、インド副王兼総督に転じる。第二次世界大戦において本土がドイツ軍の空襲にさらされ、マレーやシンガポール、ビルマや香港などの植民地を日本軍に奪われ、疲弊したイギリスは戦勝国となったものの、もはやかつてのように遠方の植民地を統治する国力は残っていなかった。さらに1946年にイギリス植民地政府が行った、インド国民軍裁判に反発するインド人の暴動などを経て、すでにインド独立は確定していたものの、宗教を理由とする民族対立が激化しつつあった。
マウントバッテンは本国から「インドの統一を保ち撤退せよ」との命を帯びてインドに赴任したが、マハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルー、ムハンマド・アリー・ジンナーら指導者との会談を重ねていくうちに民族及び宗教対立の現実を目の当たりにし、イスラム教徒でパキスタンの分離を唱えるジンナーにやや押し切られる形で1947年のインド・パキスタン分離独立への道筋をつけた。分離独立後はインド連邦総督に横滑りし、1948年6月21日にチャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリーに座を譲るまで在任した[3]。
要職
1948年には「軍は純粋に政治的な性格の裁判にかかわるべきでない」と述べ、イギリスを含めた連合国の主導によって行われた東京裁判を事実上批判したこともあるが、上記のように自らを痛めつけ、その権威を失墜させた日本軍に対する怨念は消えなかった。
最後のインド総督としての役目を終えイギリスに帰国した後は、イギリス海軍の地中海艦隊司令長官や第一海軍卿、国防参謀総長などのイギリス軍の要職を歴任した。退役後は維持費捻出のために自宅を一般公開した。
クーデター計画関与
元MI5のピーター・ライトは1987年の著書『スパイキャッチャー』(Spycatcher)において、1968年にデイリー・ミラー紙社主のセシル・キングや30人に及ぶMI5職員らによる、ハロルド・ウィルソン率いる労働党内閣を倒す秘密会合が開かれ、マウントバッテンも出席したと暴露した。キングはマウントバッテンに救国内閣の指導者となることを求めたが、マウントバッテンの躊躇によりクーデターは未遂に終わったと述べた[4]。 一方で、アンドリュー・ロウニーは女王がマウントバッテンを説得して思いとどまらせたと示唆している[5]。
2006年のBBCのドキュメンタリー番組The Plot Against Harold Wilsonでは、1974から1976年のウィルソンによる第二次内閣期にもマウントバッテンを含んだ別のクーデターの計画があったと報じた。軍とMI5内の同調者がウィルソンをマウントバッテンに代える計画であった[6]。
MI5の最初の公式の局史であるThe Defence of the Realm (2009)は実際にウィルソンに対する計画が存在し、そのファイルがMI5に存在していたことを示している。同時に同書は計画が局公式のものではなく、少数の職員により立案されたものだと明言している[7]。
暗殺
1979年に、アイルランド北西部のドネゴール湾で、休暇でヨットで出航直後、IRA暫定派の仕掛けた爆弾により爆破され、孫たちと共に死亡した。実行犯は終身刑となった。
生存者の証言によると爆弾はエンジンに仕掛けられており、操船していたマウントバッテンは即死状態だった。マウントバッテンは「私のような年寄りに何をするというのかね?」とIRA暫定派からの攻撃が自分らには及ぶまいと高を括っていたのか、大した護衛もつけていなかったという。
なお、このマウントバッテンの死に最もショックを受けたのが、幼少時から慕っていた上に、当時イギリス海軍士官であったチャールズ皇太子だった。マウントバッテンの死の翌年に知り合い、生前のマウントバッテンの事について語り合った相手がダイアナ・スペンサーで、2人はその翌年の1981年に結婚している。
オランダやベルギー、デンマークなど、第二次世界大戦でともに戦ったヨーロッパ諸国の王族がマウントバッテンの葬儀に参加したが、本人の遺言により、かつて戦った日本人の参列を拒否するなど、痛めつけられた旧日本軍に対する感情的なしこりは生涯無くならなかった。
逸話
ロシア皇帝ニコライ2世の三女マリア・ニコラエヴナの面影を生涯追い続け、彼女の写真を部屋に飾っていたと言われている(なお、マリアとマウントバッテンは従姉弟同士である)。
出典
- ^ "Mountbatten; Louis Francis Albert Victor Nicholas(1900 - 1979); 1st Earl Mountbatten of Burma". Record (英語). The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。
- ^ 白石光『ミリタリー選書 29 第二次大戦の特殊作戦』イカロス出版(2008/12/5) 33 - 40頁
- ^ Von Tunzelmann, Alex (2007). Indian summer: the secret history of the end of an empire. Macmillan. p. 276. ISBN 978-0-8050-8073-5
- ^ “House of Commons Proceedings”. Hansard (10 January 1996). 20 September 2012閲覧。
- ^ Sawer, Patrick (17 August 2019). “Revealed: Full extent of Lord Mountbatten's role in '68 plot against Harold Wilson”. The Sunday Times
- ^ Wheeler, Brian (9 March 2006). “Wilson 'Plot': The Secret Tapes”. BBC News 20 September 2012閲覧。
- ^ Leigh, David (10 October 2009). “The Defence of the Realm: The Authorized History of MI5 by Christopher Andrew”. The Guardian (London) 20 September 2012閲覧。
参考文献
この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
- アーイシャ・ジャラール 著、井上あえか 訳『パキスタン独立』勁草書房、1999年9月。ISBN 4-326-39897-3。
- リチャード・オルドリッチ"Intelligence and the War against Japan"2000
関連項目
- イギリス領インド帝国
- 英国総督 最後の家 - インド総督としてのマウントバッテンを描いた、2017年の映画
官職 | ||
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先代 初代ウェーヴェル子爵 |
インド副王兼総督 1947年 |
次代 彼自身 (インド総督) |
次代 ムハンマド・アリー・ジンナー (パキスタン総督) | ||
先代 彼自身 (インド副王兼総督) |
インド総督 1947年–1948年 |
次代 チャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリー |
イギリスの爵位 | ||
先代 新しく創設 |
初代ビルマの初代マウントバッテン伯爵 1947年 - 1979年 |
次代 パトリシア |
初代ビルマの初代マウントバッテン子爵 1946年 - 1979年 |