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「三木淳」の版間の差分

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2020年6月15日 (月) 22:46時点における版

三木 淳(みき じゅん、1919年大正8年)9月14日 - 1992年平成4年)2月22日)は日本写真家

吉田茂の葉巻をくわえた姿のポートレートなどを撮ったことで知られる報道写真家。1940年代末から国際的なフォトジャーナリストとして活躍。その作品は雑誌LIFEに掲載され、日本の報道写真の基礎を築いた。 また三木が機材にニコンを使用していたことから、ニコンが海外に知られるきっかけともなった。

ニッコールクラブ会長、日本大学芸術学部教授、日本写真家協会会長、日本写真作家協会会長などを務めた。

1999年には彼の功績を讃え、「三木淳賞」が設立された。

経歴

  • 1919年 岡山県児島郡藤戸村(現・倉敷市藤戸町)に生まれる。
  • 1943年 慶應義塾大学経済学部卒業。在学中から国際報道工芸(1939年名取洋之助が創設した第二次日本工房の後身)にて亀倉雄策土門拳に師事。同郷の写真家・写真誌編集者の石津良介に土門を紹介し、土門のアルス写真文化賞受賞のきっかけをつくる。卒業後、貿易会社に入社。その後、戦争のため陸軍に入隊。
  • 1947年 名取の誘いを受け、友人の写真家稲村隆正(たかまさ)(1923―89)とともにサンニュースフォトス社に入社、極東軍事裁判の撮影を担当。グラフ雑誌『週刊サンニュース』に東京の停電の様子、銀座、職業安定所、常磐炭鉱などを取材したドキュメントを多数発表。
  • 1948年 INP通信社に移籍。
  • 1949年 シベリア抑留者の舞鶴港上陸をルポした作品「日本の赤色部隊 祖国に帰る」が米『LIFE』誌に掲載され、タイム・ライフ社入社のきっかけに。その後「マッカーサー元帥東京を去る」「板門店の捕虜交換」「日本の皇太子」「暴動メーデー」などの作品を次々と発表。
  • 1950年 木村伊兵衛、土門拳を顧問にむかえ「集団フォト」を結成(両者のわだかまりを解消するきっかけにもなる)。アンリ・カルティエ=ブレッソンマーガレット・バーク=ホワイトの生写真を日本に紹介した。また、デビット・ダグラス・ダンカンに日本光学(ニコン)を紹介し、これが、ダンカンとニコンとの生涯の関係をつくるきっかけとなった。
  • 1951年 サンフランシスコ講和条約調印当時に首相吉田茂を撮影し「葉巻をくわえた吉田首相」を同誌に発表、世界的な反響を呼ぶ(9月10日号)。
  • 1954年 タイム・ライフ社の招きで渡米し米国内を取材。
  • 1957年 タイム・ライフ社を退社しフリーに。58年から翌年にかけ中南米各国を取材撮影。
  • 1960年 雑誌『日本』にルポルタージュ「麻薬を捜せ」を発表、講談社写真賞受賞。
  • 1962年 個展『メキシコ写真展 ―新興国の表情』(高島屋、東京・日本橋)開催、日本写真協会年度賞受賞。
  • 1967年 『三木淳写真集 サンバ・サンバ・ブラジル 』刊行
  • 1977年 日本大学芸術学部写真学科教授に就任して以降、後進の指導にも力を注ぐ。
  • 1983年 国内初の写真専門美術館、土門拳記念館(山形県酒田市)の初代館長に就任。
  • 1992年 逝去、享年72。

受賞歴

  • 1951年:アルス写真年鑑特別賞
  • 1952年:日本写真批評家協会作家賞
  • 1959年:第3回日本写真批評協会作家賞
  • 1960年:第1回講談社写真賞、富士プロフェショナル年間最高賞
  • 1962年:第12回日本写真協会年度賞、ICIE優秀賞
  • 1964年:ICIE優秀賞 / ICIE最優秀賞
  • 1965年:ADC銅賞 / 全国PR誌コンクール最優秀賞
  • 1967年:全国カタログポスター展最優秀賞
  • 1969年:ICIE最優秀賞
  • 1983年:紫綬褒章
  • 1988年:第38回日本写真協会年度賞
  • 1989年:勲三等瑞宝章[1]
  • 1990年:第40回日本写真協会功労賞
  • 1992年:正五位叙位

主な作品集

  • 三木淳『写真・メキシコ 遺跡の中の青春』社会思想研究会出版部〈現代教養文庫〉、1961年。 
  • 三木淳『サンバ・サンバ・ブラジル』研光社、1967年。 
  • 三木淳『三木淳写真集 慶應義塾』美術出版社、1979年。 
  • 三木淳『昭和写真・全仕事SERIES 7 三木淳』朝日新聞社〈昭和写真・全仕事SERIES 7〉、1982年。 
  • 三木淳『宮中歳時記』中央公論社、1984年。 
  • 三木淳『三木淳写真集 LIFEのカメラ・アイ』小学館、1989年。ISBN 4096804711 
  • 三木淳『英国物語』グラフィック社、1990年。ISBN 4766105648 
  • 三木淳『蘭嶼』ニッコールクラブ〈ニコンサロンブックス20〉、1993年。 

主な写真展

  • グループ展『日仏米英連合写真展』(『第1回集団フォト展』)、銀座三越、1951年6月2日-10日[2]
  • グループ展『第2回集団フォト展』、銀座松坂屋、1952年5月30日-6月4日[3]
  • グループ展『第3回集団フォト展』、銀座松坂屋、1953年6月13日-17日[4]
  • グループ展『第4回集団フォト展』、銀座松坂屋、1954年8月6日-11日[5]
  • グループ展『第5回集団フォト展』、髙島屋富士フォトギャラリー、1955年6月21日-26日[6]
  • グループ展『第6回集団フォト展』、日本橋高島屋、1956年11月6日-11日[7]
  • グループ展『第7回集団フォト展』、富士フォトサロン、1957年10月5日-24日[8]
  • 個展『メキシコ写真展』、日本橋高島屋、1959年10月20日-10月25日[9]
  • グループ展『第8回集団フォト展』、東京富士フォトサロン、1959年11月18日-28日[10]
  • 個展『インカとブラジリア』、東京富士フォトサロン、1961年6月28日-7月7日[11]
  • グループ展『第9回集団フォト展』、東京富士フォトサロン、1961年12月13日-22日[12]
  • 個展『蘭嶼―石に生きる』、1963年9月11日-20日、東京富士フォトサロン[13]
  • 個展『ニューヨーク五番街物語』、日本橋高島屋、1964年9月22日-27日[14]
  • 個展『サンバ・サンバ・ブラジル』、東京富士フォトサロン、1965年10月28日-11月10日[15]
  • 個展『命を賭ける』
  • 個展『邪馬台国への道』
  • 個展『私のニューヨーク』
    • 銀座ニコンサロン、1977年1月18日-23日[20]
    • 大阪ニコンサロン、1977年4月12日-18日[21]
  • 個展『なぜ写真を撮るか PartⅠ』、フォトギャラリーワイド、1982年2月20日-3月5日[22]
  • 個展『なぜ写真を撮るか PartⅡ』、ナガセフォトサロン、1982年9月27日-10月2日[23]
  • 銀座ニコンサロン開館20周年記念展『三木淳展-ある日そのとき』、銀座ニコンサロン、1988年1月5日-17日[24]
  • 個展『あなた知っていますか』、コダックフォトサロン、1988年1月6日-12日[25]
  • 個展『ビートルズリヴァプール
    • 銀座ニコンサロン、1990年4月3日-15日[26]
    • 大阪ニコンサロン、1990年5月1日-10日[27]
  • 追悼写真展『新東京百景』
    • 銀座ニコンサロン、1993年2月16日-3月1日
    • 大阪ニコンサロン、1993年3月15日-3月26日[28]
  • 『目撃者 写真が語る20世紀』、Bunkamuraザ・ミュージアム、企画 朝日新聞社、1999年6月11日-7月25日[29]
  • 銀座ニコンサロン移転記念企画展『LIFEの眼-1950年代の日本・韓国・アメリカ』
    • 銀座ニコンサロン、2000年3月27日-4月15日
    • 大阪ニコンサロン、2000年5月18日-5月30日[28]
  • 『ドキュメンタリーの時代 名取洋之助木村伊兵衛土門拳・三木淳の写真から 』、東京都写真美術館、2001年2月3日-3月30日[30]
  • 清里フォトアートミュージアム開館10周年記念展『第二次世界大戦日本の敗戦 : キャパ、スミス、スウォープ、三木淳の写真 』
  • THE GALLERY企画展 生誕100年記念三木淳写真展『Happy Shooting Every Day of Your Life!』
    • ニコンプラザ新宿THE GALLERY 1+2、2019年9月10日-9月30日
    • ニコンプラザ大阪THE GALLERY、2019年10月10日-10月23日[32][33][34]

脚注

  1. ^ 「秋の叙勲 「わが道」に光 三木淳・芦田伸介・田端義夫さん」『読売新聞』1989年11月3日朝刊
  2. ^ 『フォトアート』1951年9月号p.102。
  3. ^ 『写真の教室』1952年8月号p.55。
  4. ^ 『フォトアート』1953年6月号p.123。
  5. ^ 『フォトアート』1954年11月号p.175。
  6. ^ 『カメラ』1955年9月号p.164。
  7. ^ 『アサヒカメラ』1957年1月号p.228。
  8. ^ 『アサヒカメラ』1957年12月号p.161。
  9. ^ 『アサヒカメラ』1959年12月号p.161。
  10. ^ 『カメラ毎日』1960年1月号p.207。
  11. ^ 『カメラ毎日』1961年8月号p.201。
  12. ^ 『カメラ毎日』1962年2月号p.199。
  13. ^ 『フォトアート』1963年11月号p.199。
  14. ^ 『アサヒカメラ』1964年12月号p.214。
  15. ^ 『アサヒカメラ』1965年11月号p.216。
  16. ^ 『アサヒカメラ』1973年2月号p.75。
  17. ^ 『アサヒカメラ』1976年5月号p.75。
  18. ^ 『アサヒカメラ』1976年7月号p.75。
  19. ^ 『アサヒカメラ』1976年9月号p.75。
  20. ^ 『フォトアート』1977年1月号p.118。
  21. ^ 『フォトアート』1977年4月号p.118。
  22. ^ 『アサヒカメラ』1982年3月号p.221。
  23. ^ 『日本カメラ』1982年10月号p.129。
  24. ^ 『アサヒカメラ』1988年1月号p.178。
  25. ^ 『アサヒカメラ』1988年1月号p.178。
  26. ^ 『アサヒカメラ』1990年4月号p.136。
  27. ^ 『アサヒカメラ』1990年5月号p.143。
  28. ^ a b 須田慎太郎 2017, p. 436.
  29. ^ 『目撃者 写真が語る20世紀』図録、Bunkamuraザ・ミュージアム、1999年6月。
  30. ^ 『ドキュメンタリーの時代 名取洋之助・木村伊兵衛・土門拳・三木淳の写真から 』図録、東京都写真美術館、 2001年。
  31. ^ 『第二次世界大戦日本の敗戦:キャパ、スミス、スウォープ、三木淳の写真』図録、清里フォトアートミュージアム、 2005年7月。
  32. ^ 『CAPA』2019年9月号p.103。
  33. ^ 『アサヒカメラ』2019年9月号p.130。
  34. ^ 『日本カメラ』2019年9月号p.155。

参考文献

  • 伊奈信男『写真昭和五十年史』朝日新聞社、1975年4月10日。 
  • 小堺昭三『カメラマンたちの昭和史-写真家物語-』平凡社、1983年。 
  • 須田慎太郎『写真家 三木淳と「ライフ」の時代』平凡社、2017年9月13日。ISBN 978-4-582-23128-1 
  • 三木ゼミOB会事務局『三木ゼミナール15周年記念 写真は哲学である』(限定500部)三木ゼミOB会事務局、1992年2月29日。 

関連項目