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[[1971年]]、一年近くサンフランシスコに住み、写真家の福田という人物に連れられコミューン「モーニングスター(Morningstar)」に出入りする。
[[1971年]]、一年近くサンフランシスコに住み、写真家の福田という人物に連れられコミューン「モーニングスター(Morningstar)」に出入りする。


その後ファッションブランド「I Am A Boy」を立ち上げ、[[島屋]]デパートで企画を担当していたが、もう一度音楽の仕事に戻りたいと考えていた1974年に、KBSラジオのディレクター[[奥田靖彦]]と出会い、[[1975年]]4月2日から[[1978年]]3月までラジオ番組「ファズ・ボックス・イン」でDJをつとめる<ref>『DOLL』2009年4月号「実録・関西パンク反逆の軌跡 第3回 阿木譲とメディアミックス ギャザーズ・ノー・モス」、DOLL</ref>。
その後ファッションブランド「I Am A Boy」を立ち上げ、[[島屋]]デパートで企画を担当していたが、もう一度音楽の仕事に戻りたいと考えていた1974年に、KBSラジオのディレクター[[奥田靖彦]]と出会い、[[1975年]]4月2日から[[1978年]]3月までラジオ番組「ファズ・ボックス・イン」でDJをつとめる<ref>『DOLL』2009年4月号「実録・関西パンク反逆の軌跡 第3回 阿木譲とメディアミックス ギャザーズ・ノー・モス」、DOLL</ref>。


同番組で雑誌編集を企画し若者に呼びかけ、集まってきた三田村善衛、渡辺仁らと共に、1976年2月、阿木を編集長に『ロック・マガジン』を創刊。この雑誌のディスクレビューで[[テクノポップ]]という言葉を初めて使用したことがよく知られている(1978年、[[クラフトワーク]]『[[人間解体|THE MAN MACHINE]]』の評において)。
同番組で雑誌編集を企画し若者に呼びかけ、集まってきた三田村善衛、渡辺仁らと共に、1976年2月、阿木を編集長に『ロック・マガジン』を創刊。この雑誌のディスクレビューで[[テクノポップ]]という言葉を初めて使用したことがよく知られている(1978年、[[クラフトワーク]]『[[人間解体|THE MAN MACHINE]]』の評において)。

2020年6月15日 (月) 23:58時点における版

阿木 譲(あぎ ゆずる 1947年4月14日 - 2018年10月21日)は歌手音楽評論家編集者

本名近藤周平

略歴

父・近藤恒三と母・琴の家庭で7人兄妹の5番目に生まれる。父親はクラリネット奏者で、戦前は楽器屋を営んでいたが、戦災で店が焼けてしまった。戦後、周平が小学6年生の時に母親は大阪の料理屋・天山閣で仲居をはじめ家にいなくなる[1]堺市立商業高等学校に通い生徒会では副会長を務め、淋しさを紛らわすように演劇に熱中した。この頃、関西テレビの知り合いのつてでテレビの単発番組や、松竹の映画「嵐を呼ぶ十八人」に出演[2]

高校卒業後は関西の劇団に所属し、テレビや映画に脇役で出演していたが、芽が出ず、歌手に転向することを決め上京。四谷のクリーニング屋に3ヶ月勤めたが辞める。少しでも歌の勉強ができるところを探そうと、新宿の喫茶店やキャバレーのボーイなど店を転々とし、1966年ホテルニュージャパンのボーイとして働く。ホテルに来ていた巨人軍私設応援団長の関谷文栄に頼み込み、第一共栄プロダクションを紹介してもらう。関谷は舟木一夫を発掘した人物として知られていた。第一共栄は舟木の所属するプロダクションである。

1967年1月、東芝の作曲家・吉川実の門をくぐりレッスンを重ね[3]、同年5月19日に東京八王子公会堂で初ステージ、5月28日にテレビ番組「ロッテ歌のアルバム」出演、6月5日にシングル『高原の慕情』でデビュー。芸名の「阿」は所属の第一共栄プロ阿部社長から、「木」は先輩の舟木一夫から「譲」りうけたもの[4]。最初の雑誌取材は舟木と同じく『女学生の友』であった。当時は水戸浩二のライバルとして売り出され、またデビュー時は母親と幼くして別れたという設定があり、読売TV「そっくりショー」で念願の“再会”を果たし話題をふりまいた。また骨董品を集めたり、浅草国際劇場のレッスン場で灰原勝彦にモダンバレエのレッスンを受けたり、現代詩を書くなど多様な趣味も持つ歌手として知られた。

1968年に映画「俺には天使の君だった」の主題歌がヒットしたが、芸能界の裏側に嫌気がさし1968年に『ヤングレディ』に暴露的自伝を書き引退。その後関西に戻り、フォークシンガーとして活動し、ハプニングス・フォーをバックバンドにした自主制作シングルを残す[5]

1971年、一年近くサンフランシスコに住み、写真家の福田という人物に連れられコミューン「モーニングスター(Morningstar)」に出入りする。

その後ファッションブランド「I Am A Boy」を立ち上げ、髙島屋デパートで企画を担当していたが、もう一度音楽の仕事に戻りたいと考えていた1974年に、KBSラジオのディレクター奥田靖彦と出会い、1975年4月2日から1978年3月までラジオ番組「ファズ・ボックス・イン」でDJをつとめる[6]

同番組で雑誌編集を企画し若者に呼びかけ、集まってきた三田村善衛、渡辺仁らと共に、1976年2月、阿木を編集長に『ロック・マガジン』を創刊。この雑誌のディスクレビューでテクノポップという言葉を初めて使用したことがよく知られている(1978年、クラフトワークTHE MAN MACHINE』の評において)。

1978年に、日本初のインディーズ・レーベル「ヴァニティ・レコード」を設立。関西のバンド「DADA」「Aunt Sally」「EP-4」らのアルバムをリリースする。

1990年に〈M2(Mathematic Modern)〉、1993年に〈cafe blue〉をオープン。

2000年代に入り、〈personnages recordings〉のレコードプロデューサー、クラブミュージック・マガジン『infra』『BIT』の編集・発行人を務めた。2003年2月20日に辰巳哲也の2ndアルバム『Reflection and Integration』(Person002)を発売し、『remix』5月号でインタビューを受けたのを契機に、他誌で書くのを10数年断ってきた文章を同誌に連載で書きはじめる。

2004年1月10日、jazz cafe〈nu things〉をオープン。オーガナイザーなどをつとめている。

2011年からは集大成をとなるZine『0g zero gauge』を刊行。

2018年10月21日に死去したことが、運営するイベントスペース「environment 0g」のTwitterアカウントより発表された[7]

創刊誌

  • 『ロック・マガジン』1976年〜1984年、1988年(復刊)
  • 『fashion』1980年
  • 『EGO』1985年〜1987年
  • 『infra』1999年〜2001年
  • 『BIT』2002年

著書

  • 『ロック・エンド』 工作舎、1980年。
  • 『イコノスタシス』 インピタス、1984年。
  • 『E』 neu product、1990年。

参考文献

  1. ^ 『週刊明星』1967年7月30日号「芸能トピックス 阿木讓のお母さんが見つかった」、集英社
  2. ^ 『女学生の友』9月号 「フレッシュ・ライバル 阿木譲×水戸浩二の過去・現在・未来」、小学館
  3. ^ 『週刊平凡』1967年8月10日号「独占特報 瞼の母と再会した阿木譲」、平凡出版
  4. ^ 『週刊平凡』1967年6月29日号「特集 橋舟木、西郷を追う永井秀和、阿木譲、水戸浩二 フレッシュ〝新ご三家〟誕生!」、平凡出版
  5. ^ 篠原章『日本ロック雑誌クロニクル』「関西発、伝説のカルト雑誌──阿木譲と『ロック・マガジン』」、太田出版
  6. ^ 『DOLL』2009年4月号「実録・関西パンク反逆の軌跡 第3回 阿木譲とメディアミックス ギャザーズ・ノー・モス」、DOLL
  7. ^ 音楽評論家/編集者の阿木譲が逝去”. RA Japan (2018年10月25日). 2018年10月25日閲覧。

外部リンク