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2020年6月16日 (火) 00:13時点における版
永山 美樹(ながやま みき、1886年(明治19年)[1]- 1949年(昭和24年)[1])は、日本の建築家、デザイナー。
略歴
1907年(明治40年)、京都高等工芸学校図案科卒業[1]後、宮内省入省。
内匠寮技手として国会議事堂コンペで三等をとった後、退職[1]。その後、国会議事堂建設の設計嘱託となる[1]。
1922年(大正11年)株式会社髙島屋に入社、また長堀店装飾図案入社[1]。 1932年(昭和7年)に長堀店家具装飾部設計部主任となり、1934年(昭和9年)には設計部長となる[1]。また1938年(昭和13年)には長堀店商事部設計部長となり、1942年(昭和17年)商事部設計課長を経て、1943年(昭和18年)定年退職する[1]。
脚注
参考文献
- 国会議事堂建設過程の記録 : 現在の国会議事堂の建設はどう進められたか 本間義人 『現代福祉研究』 5, 109-145, 2005年3月, NAID 110006184417
- 武田五一の図案教育 : 京都高等工芸学校図案科史 2 宮島久雄 『研究紀要』 19, 19-56, 1998年3月, NAID 110000044192、京都大学
- 9472 辰野金吾作品における木内真太郎のステンドグラス(日本近代:建築家,建築歴史・意匠,2013年度日本建築学会大会(北海道)学術講演会・建築デザイン発表会) 金田美世 , 清水隆宏 , 河田克博 学術講演梗概集 2013(建築歴史・意匠), 943-944, 2013年8月
- UDC 92(72.071.1)OG 建築家小川安一郎について, 山形政昭 : 建築家小川安一郎について [デザイン理論33, P4358,1994](歴史・意匠)(文献抄録) 藤谷 陽悦 建築雑誌 110(1373), 67, 1995年6月
- 小沢朝江、「明治宮殿造営組織における図工の職務と就業状況」 『日本建築学会技術報告集』 2013年 19巻 42号 p.757-760, doi:10.3130/aijt.19.757
- 小野木重勝、皇居造営機構と技術者構成 『日本建築学会論文報告集』 1972年 195巻 p.75-81,98, doi:10.3130/aijsaxx.195.0_75
- 鈴木博之監修、内匠寮の人と作品刊行委員会編『皇室建築 内匠寮の人と作品』建築画報社、2005年。