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[[1906年]]3月に創刊。当初は若者たちに実用的な[[文章]]を習得させるための投書・指導を目的としていたがため、[[大槻文彦]]や[[芳賀矢一]]などの[[学者]]が多かったが、初代の編集責任者に[[作家]]の[[田山花袋]]が就任したことから、[[小説]]や[[詩]]などの投稿も受け付けるようになり、やがてそちらが主流となっていった。田山とのつながりで[[国木田独歩]]・[[島崎藤村]]ら[[自然主義文学|自然主義系]]の作家が多く連載し、投書の撰者も田山・島崎をはじめ[[正宗白鳥]]や[[徳田秋声]]・[[北原白秋]]・[[窪田空穂]]・[[内藤鳴雪]]などが名を連ね、明治末期には自然主義文学の拠点とみなされるようになった。また、投書者の中からは[[室生犀星]]・[[吉屋信子]]・[[内田百閒|内田百{{CP932フォント|閒}}]]・[[今東光]]・[[横光利一]]、[[尾崎翠]]らを輩出した。 |
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大正に入り、田山が編集から退くと徐々に衰退し、[[1920年]]12月に通巻204冊(臨時増刊を含む)をもって終刊する。[[1921年]]1月より『新文学』として[[リニューアル]]したものの、同年12月に終刊した。[[1922年]]1月より巻号数を引き継いで『[[新趣味]]』が創刊されるが、[[1923年]]11月号で廃刊。 |
2020年6月17日 (水) 02:26時点における版
『文章世界』(ぶんしょうせかい)は、明治・大正期に博文館が刊行していた文芸雑誌。
概要
1906年3月に創刊。当初は若者たちに実用的な文章を習得させるための投書・指導を目的としていたがため、大槻文彦や芳賀矢一などの学者が多かったが、初代の編集責任者に作家の田山花袋が就任したことから、小説や詩などの投稿も受け付けるようになり、やがてそちらが主流となっていった。田山とのつながりで国木田独歩・島崎藤村ら自然主義系の作家が多く連載し、投書の撰者も田山・島崎をはじめ正宗白鳥や徳田秋声・北原白秋・窪田空穂・内藤鳴雪などが名を連ね、明治末期には自然主義文学の拠点とみなされるようになった。また、投書者の中からは室生犀星・吉屋信子・内田百閒・今東光・横光利一、尾崎翠らを輩出した。
大正に入り、田山が編集から退くと徐々に衰退し、1920年12月に通巻204冊(臨時増刊を含む)をもって終刊する。1921年1月より『新文学』としてリニューアルしたものの、同年12月に終刊した。1922年1月より巻号数を引き継いで『新趣味』が創刊されるが、1923年11月号で廃刊。
1986年に日本近代文学館よりマイクロフィッシュにて復刻されている。
参考文献
- 和田謹吾「文章世界」(『国史大辞典 12』(吉川弘文館、1991年)ISBN 978-4-642-00512-8)
- 小林一郎[要曖昧さ回避]「文章世界」(『日本史大事典 5』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5)
- 小仲信孝「文章世界」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-09-523003-0)