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「国共内戦」の版間の差分

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2020年6月17日 (水) 21:12時点における版

国共内戦

上から時計回りに:四平戦役における共産党軍、国民革命軍(八路軍)のムスリム戦士達、1930年代の毛沢東、兵士を視察する蒋介石、孟良崮戦役の直前に前線を調査する粟裕
戦争:国共内戦
年月日
[注釈 1]1945年9月10日[注釈 2]または1946年6月26日[注釈 3] - 1950年5月1日[注釈 4]または1979年1月1日[注釈 5]
場所中国
結果
交戦勢力
1927–1949年
中華民国の旗 中華民国
共産党
指導者・指揮官
中華民国の旗 蒋介石
中華民国の旗 白崇禧
中華民国の旗 陳誠
中華民国の旗 李宗仁
中華民国の旗 閻錫山
中華民国の旗 何応欽
中華民国の旗 王耀武
中華民国の旗 衛立煌
中華民国の旗 傅作義
中華民国の旗 劉峙
中華民国の旗 孫立人
中華民国の旗 杜聿明
中華民国の旗 薛岳
中華民国の旗 張学良
中華民国の旗 馮玉祥(1930年まで)
毛沢東
朱徳
彭徳懐
林彪
劉伯承
周恩来
陳毅
鄧小平
聶栄臻
粟裕
陳賡
徐向前
葉飛
賀竜
葉挺
戦力
4,300,000(1946年6月)[3][4]

3,650,000(1948年6月)
1,490,000(1949年6月)

1,200,000(1945年7月)[4]

2,800,000(1948年6月)
4,000,000(1949年6月)

損害
最大150万(1945–1949年)[5] 最大25万(1945–1949年)[5]

国共内戦(こっきょうないせん、: 国共内战/國共內戰)は、20世紀前半の中国において、中華民国国民政府率いる国民政府軍中国共産党率いる紅軍との間で行われた内戦である。

第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦1927年 - 1937年、別項)と、第二次国共合作の破綻によって生じた第二次国共内戦: 第二次国共内战/第二次國共內戰1946年 - 1950年、本項)とに大別される[6]が、単に「国共内戦」と言う場合には一般に第二次国共内戦を指すことが多い[7]

なお、中国共産党及び中華人民共和国政府は、1921年中国共産党成立から第一次国共合作を経て、1927年の国共分裂までを「第一次国内革命戦争」、第一次国共内戦を「第二次国内革命戦争」と称しており、第二次国共内戦についても解放戦争(かいほうせんそう)、人民解放戦争(じんみんかいほうせんそう)、または第三次国内革命戦争(だいさんじこくないかくめいせんそう)と呼称している[7][8]

背景

宋美齢とともに台湾島を訪問する蒋介石(1946年

日本の敗戦によって中華民国は戦勝国となり、国際連合常任理事国となった。しかし、国内では国民党と共産党が共通の敵を失ったことで統一戦線を維持する意義も名目も消滅し、戦後構想の違いから両党は早くも1945年10月から再び武力衝突へと転じ、1946年6月より全面的な内戦を開始した。

共産党は、戦後シベリアに抑留される日本軍から最新式の兵器を鹵獲する作戦を遂行していたほか、ソ連からの援助も継続して受けており、国民政府軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得た。共産党軍は、徐々に南下して国民政府軍を圧迫。また日本軍の前面に立って戦力を消耗していた国民政府軍に対して共産党軍は、後方で力を蓄えると共に巧みな宣伝活動で一般大衆からの支持を得るようになっていった。

重慶会談

1945年8月の終戦によって内戦の不安が中国国民につのり、その結果、蒋介石は国民政府の呉鼎昌の提案を受け入れ、毛沢東に対して重慶で国内の和平問題について討議すべく三度にわたって会談を呼びかけた。この呼びかけに応じた毛沢東と周恩来、王若飛は8月28日、アメリカのパトリック・ハーレー大使と共に延安から重慶を訪れ、中国共産党の代表として中国国民党の代表である王世杰張治中邵力子と会談を行った[9]

同年8月30日重慶において「蒋介石・毛沢東巨頭会談(重慶会談)」が開かれる[10]。会議は43日にも及んだが、10月10日に「双十協定」としてまとめられ、内戦は一時的に回避された。

上党戦役

しかし、同10月には会談空しく、双十協定調印の日に、山西省で上党戦役がはじまる[11]。共産党軍は三日で、国民党軍が投入した三分の一にあたる35000人を殲滅した[10]。この戦争で鄧小平は活躍し、その名声が高まる。

アメリカの関与

アメリカは第二次世界大戦中から蒋介石政権崩壊と共産主義拡大を防止する対策を行った。日本の降伏とともにアメリカは、抗日戦末期の時点で既に弱体化の著しかった国民党軍に大量の援助を行い、これによって新たに39個師団に武装・訓練をほどこした。また、アメリカ船をもって在中国日本人の本国送還を急ぎ、空路・海路から約40万の国民党軍兵士とアメリカ海兵隊5万人を華北に派遣・上陸させて北京、天津など重要都市を占領、かつ国民党軍に代わってアメリカ軍自ら華北の炭坑鉄道等を接収した(ブリーガー作戦英語版)。 こうしたアメリカ軍による北上作戦援助は、公式には日本軍勢力一掃による中国の急速な主権回復のためと理由づけられていたが、アメリカの目的はそれだけではなく、華北の主要都市および輸送・産業上の戦略拠点が中共軍の手に落ちないよう先手を打ち、さらに国民党の東北(旧満州)支配の足場をいち早く固めることにあった。

揚子江に展開するアメリカ第7艦隊の艦艇

アメリカは、戦後の東アジアの政治地図として、日本が再び台頭してくるのを抑えるためにも、中国になんらかの形で民主的な政権が生まれ、それが東アジアの安定勢力になることを期待していた。本国政府や中国駐留アメリカ軍の間で、多少の意見の相違はあったものの、「国民党のリーダーシップのもとに中国の統一を図る」、「国民党をできるだけ支援するが、共産党との対立が内戦に発展することは極力回避する」、「アメリカが中国の内戦に地上軍を派遣したりすることはしない」とする点では大筋大体一致していた。中国駐留のアメリカ軍総司令官・アルバート・ウェデマイヤー中将の次の会見談話は、なぜアメリカ軍が中国に駐留し続けるのか、中国の内戦にどういう関与をするのか、という連合国の記者の質問に答えたものであるが、アメリカの大体の姿勢が窺える。「米軍は中国における内戦に捲き込まれないだろう。しかし米陸軍省からの指令で、米国人の生命財産を保護するために軍隊を使用する必要があり、余の麾下司令官にはその旨指令してある。米軍が中国の内戦に参加し、中共軍に対し攻撃を加えているといった向きもあるようだが、これまで米軍がかかる侵略的行為に出たことはないことを断言する。余はこれまで個人的に国共が妥協するよう極力努めてきたし、部下にも中国の政争や陰謀画策に参加しないよう命令していた[12]。」[13]

ビルマ戦線の司令官衛立煌は国共内戦に反対し、共産党との問題は政治交渉により解決すべきと主張していた。傅作義は国共内戦に内心反対であった。商震李済深も国共内戦に反対していた。

トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、「ルーズベルトの戦後構想」を基調とするものとして始まったといえる。12月15日、対中戦後政策に関する包括的な公式声明を発した。この声明は⑴中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立、⑵共産党軍の国民党軍への編入、⑶安定政権の基礎づくりのため、土地改革をはじめとする社会改革への着手の諸点を要求し、さらに⑷以上が実行されない場合、アメリカは対中援助の拒否権を使用することを宣明した[14]。マーシャルが重慶に到着したころ、在華米軍兵力は11万を超えるピークに達していた。こうしてアメリカは、国民党軍に莫大な支援を集中して共産党側を圧倒しつつ、他方でアメリカのさらなる国家資本援助を報償として提示して国民党の譲歩をせまることによって国共両党を統一交渉のテーブルにつかせようとしたのである。アメリカ政府が統一新政府に中共の参加を要求した背景には、激しい経済混乱とみずからの腐敗を一掃しえずにいる現状のままの国民党では全土の統一は望みえず、かつ共産党を排除するとすでに東北を占領しているソ連の共産党援助を誘発し、その結果国共の主導権争いが米ソ代理戦争の様相を呈して泥沼化するのではないかという恐れがあった。

共産党軍の戦闘力の強さを誰よりもよく認識していたアメリカは調停に乗り出し、腐敗した国民党軍の崩壊を恐れ、蒋介石に大量の軍事援助を与えつつ、国民党軍が強化されるまで衝突を先にのばそうとしたのであり[15]、1946年1月にジョージ・マーシャルを派遣した。マーシャルは、国民党が軍事手段で共産党を圧迫しようとすれば、国民政府の崩壊をもって終り、中国に共産党の支配をもたらすであろうと見ていた。そこで、彼は共産党を含めた連立政府を樹立し、双方の軍隊を国民軍に統一するという計画をもって乗り込んできたのである。マーシャル使節団は、国民党と共産党の和解のためにひたすら奔走した。共産党を少数派として政府に参加させることで、彼らを認め彼らの敵対性を除去することを考えた。国民党代表・張群、共産党代表・周恩来とアメリカ代表・マーシャルによる軍事調処執行部中国語版(三人委員会)が成立し、1月10日には「国共停戦協定」が調印された。2月25日の基本法案によると、陸海空三軍の最高統帥者が中華民国国民政府主席(蒋介石)であることを再確認した上で、一年以内にその陸上兵力を国民党軍90個師団、共産党軍18個師団に削減し、更にその半年後にはそれぞれ50個師団と10個師団にまで縮小することが取り決めされていた。多くの人から期待された。マーシャルは、中国国民から「平和の使徒」としてもてはやされた。同年1月、協定に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は、国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割りあてられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。

しかし、3月の党大会において国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議し、国共両軍の衝突はやまなかった。同年3月5日にはチャーチルが「鉄のカーテン演説」を行い、冷戦構造が固まって行く。また6月にアメリカは国民党政府に向けて対中軍事援助法案を採択した。1946年6月28日、ディーン・アチソン国務次官は記者招待会の席上、アメリカの対中政策について演説し、アメリカの対中援助に関するさまざな行為は「破壊的な長期間にわたる日本との戦争による影響を除去するため、一国家としての中国を援助するというこれまでに確認された計画」を完遂するためであって、これが目標とするところは中国の統ーでありアメリカ政府としては「中国共産党を含むすべての重要な政党の十分かつ公平な代表からなる政府によってこうしたアメリカの援助が実行に移されることを特に希望する」のであり、「中国の各政党聞において統一政府を成立させるという協定が実現されない限り、アメリカ政府は対中援助を行うことはできない」と強調した[16]

中国共産党はこれに対して1946年6月22日に「アメリカの蒋介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求した[16]。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった[16][17]。8月10日にはトルーマンが蒋介石にその行動を非難するメッセージを送っている[16]。マーシャルは当時トルーマン大統領に、国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蒋介石にあるとして非難している[18][16]。またトルーマン大統領自身も、国民党への不満を後に表明している[19]。1946年8月31日にトルーマンは再度、国共聞の政治的解決こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならばアメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したがそれもなんら効力を発揮することなし国民党の軍事攻勢は続けられた。1946年12月18日、トルーマン大統領は「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する[16]。アチソンによれば「中国で内戦が再開されたならば国民政府とは関係を維持しつつ、合衆国兵力を中国から撤収し、物質的援助を停止することを考慮する」とし、「もしソ連が中国共産党を支持することになった場合には合衆国は政策を大幅に再検討することが必要になろう」というものであった[16]

つまり、マーシャル・プランのような中国の工業および農業改革の復興を援助する計画は、内戦を行ったことで破綻となったのである。またアメリカ軍を撤退させたことにより、後に共産化を招くこととなり、国民政府が台湾への遷都後に米華相互防衛条約の締結・在台米軍の駐留などアメリカの庇護を受けることになる。

全面侵攻

1946年6月26日、蒋介石は国民党正規軍160万人を動員し、全面侵攻の命令を発した[20]。毛沢東は「人民戦争」「持久戦争」の戦略によって抵抗した。毛沢東は国民党内部の内戦消極分子の獲得や、また「土地革命」を行うことで大量の農民を味方につけた。1946年年末には各都市で「内戦反対、反米愛国」というデモが発生、規模は50万以上であった[21]

共産党軍と残留日本軍

国民政府軍は約430万(正規軍200万)でアメリカ合衆国の援助も受けており、共産党軍の約420万(正規軍120万)と比べ優位に戦闘を進め中国全土で支配地域を拡大したが、東北に侵入したソ連軍の支援を受ける共産党軍(八路軍)は日本によって大規模な鉱山開発や工業化がなされた満洲をソ連から引き渡されるとともに、残留日本人を徴用するなどして戦力を強化していた。日本女性は看護婦などとして従軍させられた[22]

八路軍の支配地域では通化事件が起き、数千人の日本人居留民が処刑された。また、航空戦力を保持していなかった八路軍は捕虜となった日本軍軍人を教官とした東北民主連軍航空学校を設立した。日本人に養成された搭乗員は共産軍の勝利に大きく貢献することとなった[23]

形勢の逆転

1947年初頭、延安陥落
1948年9月、三大戦役の開始

中華民国を率いる国民党の指導者の蒋介石は満洲の権益と引き換えにイデオロギーを棚上げにしてソ連のスターリンと協定を結んだため、ソ連から中国共産党への支援は消極的なものとなる。その間に国民政府軍は満洲で大攻勢をかけ、1947年中頃になると共産党軍は敗退・撤退を重ね、国民党は大陸部の大部分を手中に収めようとしていた。

だが、法幣の大量発行がインフレーションを招き、農民を中心とした民衆の支持を失う。そしてアメリカの国民党への支援も、第二次世界大戦の終結以降ヨーロッパにおける冷戦の開始や日本の占領政策への集中、政府内の共産党シンパの活動等の理由により、先細りになっていった。

1947年3月には蒋介石は「全面侵攻」から「重点攻撃」へと方針を転換する[21]。対象地域は共産党軍の根拠地である延安などであったが、毛沢東は3月28日、延安を撤退。山岳地域に国民党軍を誘導した。5月から6月にかけて、共産軍は83000人の国民党軍を殲滅する[24]。1947年6月の時点で共産党員は46年の136万から276万に急増、兵力も120万から195万へと増大。対する国民党軍の兵力は430万から373万へと減少していた[24]

農村部を中心に国民党の勢力は後退、共産党が勢力を盛り返してゆき、1948年9月から1949年1月にかけての「三大戦役中国語版」で、共産党軍は決定的に勝利する。まず、1948年9-11月の遼瀋戦役では国民党軍47万が殲滅され、国共軍事比は290万人対300万と逆転した[25]。そして、1948年11月-1949年1月の徐州を中心に展開された淮海戦役では、国民党軍80万、共産党軍60万とが衝突するという大規模な戦闘が発生し、後に改革開放路線で市場経済を導入することで知られる鄧小平が指揮官の一人として参戦し、国民党軍55万5500人を殲滅した[25]。更に1948年12月-1949年1月までの平津戦役でも、52万の国民党軍が壊滅した[25]。これにより、中華民国国軍(国民党軍)は主戦力を喪失し、「重点攻撃」を仕掛けることもできずに支配地域を一気に喪失していくこととなる。中国全土を支配することを意識し始めた毛沢東は、中国北部に集中している数多くの幹部を南下させ、南方地域の接収管理工作を担わせる戦略を考えていた。しかし、国共の形勢は逆転していたが、日中戦争や国共内戦を経て疲弊する中国社会において共産党の南下動員は限界に直面し、幹部の逃亡など様々な矛盾が起きていた[26]

中華人民共和国の成立と中華民国の大陸拠点喪失

1948年11月、三大戦役の終結

三大戦役後、毛沢東率いる共産党は総攻撃をしかけ、国民党が拠点を置く大都市部を相次いで占領した。1948年時点で中華民国は主要都市として全国の12都市を直轄市に指定しており、三大戦役終結直後の1949年2月1日時点ではソ連軍占領下の大連と人民解放軍に占領された哈爾浜瀋陽、天津、北京を除く7都市を未だに支配していた。だが、三大戦役で主戦力を失っていた国民党にはもはや共産党の侵攻を食い止める余力がなくなっていた。

人民解放軍に占領された南京の総統府(1949年4月)

1949年1月、蒋介石が三大戦役での敗走の責任をとって総統を辞任すると、副総統だった李宗仁が総統(代理)に就任し、同年4月1日に共産党との和平交渉団を南京から北平(北京)に派遣して北平和談中国語版を行い、交渉団が最終案である国内和平協定を持ち帰ってきた。しかし、同年4月20日に国民党は署名を拒否する電報を共産党に打って交渉は決裂し、同年4月23日には渡江戦役で人民解放軍によって首都・南京を占領されたのを皮切りに、漢口(同年5月16日)、西安5月20日)、上海5月27日)、青島6月12日)を人民解放軍がなし崩し的に占領していった。さらにアメジスト号事件(4月20日)においてはアヘン戦争以来中国に駐留していたイギリス艦隊を撤退させた。

国民党に代わる「新中国」建設の準備を進めていた共産党は、1949年10月1日中華人民共和国の建国を宣言したが、この時点で国民党はまだ華南三省と西南部三省の広範囲を支配していた。そのため、共産党は中国大陸からの国民党勢力一掃を目指して広州10月14日)、重慶11月30日)、成都12月27日)と国民党の拠点を相次いて占領し、さらに旧第二次東トルキスタン共和国の残存勢力と協力して新疆の全域を1950年春までに占領した(新疆侵攻)。そのため、1950年1月の時点で国民党に残された台湾以外の拠点は、西南軍政長官公署中国語版の支配下にある西康省西昌一帯と東南軍政長官公署中国語版の支配下にある海南島海南特別行政区)のほか、江蘇省嵊泗県 [注釈 6])、浙江省舟山群島の大部分及び大陳列島など)、福建省金門島馬祖列島及び烏坵)、広東省万山群島)沿岸の島々のみとなった。

これを受け、人民解放軍は国民党の反攻拠点となる西昌一帯と海南島の制圧を目指し、1950年3月から本格的な軍事作戦を展開した。その結果、西昌は西昌戦役中国語版によって同年4月7日、海南島は海南戦役中国語版によって5月1日に中華人民共和国の支配下に入り、国民党は中国大陸における大規模な軍事作戦を展開するための拠点を全て喪失した。これにより、中華民国国軍による中国大陸への反攻は事実上不可能となり、国共両軍による全面的な戦争は事実上収まることとなった。なお、同時期には舟山戦役中国語版万山群島戦役中国語版が勃発しており、1950年5月16日に舟山群島、8月4日に万山群島が人民解放軍によって占領され、終結している。さらに人民解放軍は10月にチベット地域で事実上独立していたチベットに侵攻した(チベット侵攻)。

その後も雲南省ビルマラオス国境地帯では雲南反共救国軍によるゲリラ戦が引き続きを行われた。雲南反共救国軍は1951年(民国40年)5月に滄源耿馬瀾滄双江の4県で大規模な攻勢に出るが、人民解放軍の反撃によって7月までにビルマやタイ北部に脱出した。その後、国連決議に伴って雲南反共救国軍の兵士たちは武装解除の上、台湾に退去することが決まり、1954年(民国43年)までに6,986人が台湾に退去した。しかし一部の兵士は現地に残留し、雲南人民反共志願軍を結成して1960年(民国49年)までゲリラ戦を行った。その後、雲南人民反共志願軍兵士のうち4,200人は台湾に退去したが、一部はタイ北部に残留した。残留した元国民党兵士たちは黄金の三角地帯麻薬の製造や密輸を行っていたが、1972年タイ王国軍に帰順して共産ゲリラの掃討作戦に参加している[27]。ゲリラ掃討後、元国民党兵士たちは武装解除された上でタイ政府から居住権が与えられ、観光や農業に従事するようになった。(2017年)現在でもメーサロン英語版近辺には末裔が居住している[27]

国民党の台湾撤退と日本人軍事顧問(白団)

中国人民解放軍に対して、まともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府と蒋介石は、1949年1月16日に南京から広州への中央政府を撤退させたのを皮切りに、重慶(同年10月13日)、成都(11月29日)へと撤退した挙句、中国大陸から台湾への撤退を決定し、残存する中華民国国軍の兵力や国家・個人の財産など国家の存亡をかけて台湾に運び出し、最終的には1949年12月7日に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。

このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による中華民国政府への軍事行動は一時的に停止する。なおこの間人民解放軍は朝鮮戦争に介入する一方でチベットに侵攻し、さらにベトナム民主共和国に武器の援助や軍事顧問の派遣を行い第一次インドシナ戦争に介入していた。

なお、1949年に根本博中将(元支那派遣軍参謀長)は占領下の日本から台湾に密航し、中華民国の軍事顧問として古寧頭の戦いの作戦指導を行い、中共軍を殲滅している[28]

蒋介石の依頼を受けた元支那派遣軍総司令官の岡村寧次は、密かに富田直亮元陸軍少将(中国名・白鴻亮)率いる旧日本軍将校団(白団)を軍事顧問として台湾に密航させ、蒋介石を支援した[29]。地縁や血縁によって上下関係が構築されるなど、長い戦乱で軍紀が乱れきっていた国民党軍幹部に近代的な軍事技術を伝授し、軍の近代化を推進。特に艦艇、航空機の運用面で改善は著しく、八二三(金門)砲戦防衛に成功、際立った効果をあげた[29]

白団による中華民国国軍への指導は1960年代末まで行われた。

アメリカへの影響

第二次世界大戦/太平洋戦争でアメリカは日本の侵攻に抵抗する中国の親米的な国民党政権を援助するために、そして中国におけるアメリカの利権や市場を守るために日本と戦争を行うことになったにも関わらず、戦後その中国で反米的な共産党政権が成立し、中国におけるアメリカの利権や市場を失うどころか第二の共産主義の大国の成立を許したことは太平洋戦線の帰還兵で上院議員のジョセフ・マッカーシーら反共主義者の批判を浴び、原因は政府内の共産主義者とその同調者だと主張したため、いわゆる赤狩りのきっかけとなった。

赤狩りにおいては特に国務省において中国外交を担当していた外交官たち(チャイナ・ハンズ)は共産中国成立の責任を問われて多くが罷免され、国務省からアジア通の外交官が一掃されたためその後のアメリカのアジア外交に悪影響を及ぼした。

台湾海峡危機

米華相互防衛条約により台湾に駐留した在華米空軍

朝鮮戦争に人民義勇軍が参戦した為、人民解放軍による中華民国への軍事行動は1950年10月から一時的に停止した。朝鮮戦争により、トルーマンは同年1月に発表していた台湾不介入声明[30]を撤回して同年6月に台湾海峡の中立化を名目に第七艦隊を派遣した。それを受け、中華民国国軍は福建省沿岸で南日島戦役1952年)と東山島戦役1953年)を引き起こしたが、いずれも散発的な攻撃で終わった。逆に1954年9月、中国人民解放軍金門島の中華民国国軍に対し砲撃を行い(九三砲戦)、中華民国への攻撃を再開する。同年12月にはトルーマン政権の対中政策への批判を掲げて米国大統領となったアイゼンハワー米華相互防衛条約を締結した。そして翌1955年1月に解放軍は浙江省一江山島中国語版を攻撃し、この地を占領する事に成功した(一江山島戦役)。これを受け、中華民国国軍は同年2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍護衛のもとで大陳島撤退作戦を実施し、大陳島の拠点を放棄した。これにより、中華民国は浙江省にあった実効統治区域を全て喪失し、1950年以降で唯一となる支配地域喪失を喫した。

また1958年8月には中国人民解放軍が金門島の中華民国国軍金門守備隊に対し砲撃を開始した(金門砲戦を参照)。その際、中華民国国軍は人民解放軍との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。アメリカは中華民国の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中共[注釈 7]はまぎれもなく台湾侵略を企図している」とし、中華民国政府に軍事援助を開始した。同年10月6日には人民解放軍が「人道的配慮」から金門島・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言、アメリカとの全面戦争を避けた。これにより、中華民国は金馬地区の防衛に成功し、大陳島に続く拠点の喪失を阻止した。ただし、人民解放軍による金門島への定期的かつ形式的な砲撃はその後も続き、1979年1月1日米中国交樹立をもってようやく砲撃に停止命令が下された。

なお翌1959年9月には前内閣総理大臣であった石橋湛山が私人として中華人民共和国を訪問、周恩来首相との会談を行い、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を主張。周はこの提案に同意し、台湾(中華民国)に武力行使をしないと約束した(石橋・周共同声明)。

1962年大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蒋介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手したが[31][32]、アメリカは国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった[33]。また、1965年には台湾海峡の航行を巡って[34]東引海戦中国語版(5月1日)、東山海戦(8月6日)、烏坵海戦中国語版11月13日 - 14日)がそれぞれ発生したが、いずれも偶発的な戦闘で単発的な衝突に留まった。

1979年1月1日米中国交樹立を受け人民解放軍の金門島砲撃が停止されて以来、中台間での戦闘行為は発生していないが、緊張状態は続いている。

年表

1945年

1946年

1947年

1948年

1949年

  • 1月16日 - 国民政府(蒋介石)、広州へ撤退
  • 1月27日 - 太平輪沈没事故
  • 2月25日 - 重慶号事件
  • 4月-6月 - 渡江戦役
  • 4月20日 - アメジスト号事件
  • 4月23日 - 南京陥落
  • 4月25日 - 太原陥落
  • 同日 - 第二艦隊反乱事件
  • 5月16日 - 漢口陥落
  • 5月20日 - 西安陥落
  • 5月27日 - 上海陥落
  • 6月12日 - 青島陥落
  • 10月1日 - 中華人民共和国建国宣言
  • 10月13日 - 国民政府(蒋介石)、重慶へ撤退
  • 同日 - 新疆陥落
  • 10月14日 - 広州陥落
  • 10月25-27日 - 古寧頭戦役
  • 11月29日 - 国民政府(蒋介石)、成都へ撤退
  • 11月30日 - 重慶陥落
  • 12月7日 - 国民政府(蒋介石)、台湾へ撤退
  • 12月27日 - 成都陥落

1950年

  • 1月5日 - 米トルーマン政権による台湾不干渉声明
  • 4月7日 - 西昌陥落
  • 4月11日 - 中ソ友好同盟相互援助条約調印及び発効
  • 5月1日 - 海南島陥落
  • 5月16日 - 舟山群島陥落
  • 6月25日 - 朝鮮戦争開戦
  • 8月4日 - 万山群島陥落
  • 10月5日 - 「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)、朝鮮戦争に参戦
  • 10月7-25日 - 中国人民解放軍によるチベット侵攻

1951年

  • 5月-7月 - 雲南反共救国軍による雲南反攻失敗

1952年

1953年

1954年

1955年

1956年

1957年

1958年

1959年

1960年

1961年

  • - 国民党政権、大陸反攻作戦(国光計画)に着手(最終的に中止)

1962年

1963年

1964年

1965年

1966年

1968年

  • 10月 - 文化大革命によって現職の国家主席であった劉少奇が打倒される

1969年

  • 3月2日-9月 - 中ソ国境において軍事衝突(中ソ国境紛争
  • 10月12日 - 劉少奇元国家主席死去

1971年

1972年

1975年

  • 4月5日 - 蒋介石死去

1976年

  • 1月8日 - 周恩来国務院総理死去
  • 9月9日 - 毛沢東共産党主席死去

1979年

  • カーター政権、中華人民共和国と国交樹立し中華民国と断交、同時に台湾関係法を制定

その後

中国大陸では、現在に至るまで中国共産党による一党独裁政治が続き、政治や言論の自由が抑圧され[35]ウイグル侵略チベット侵略文化大革命朝鮮戦争中越戦争中越国境紛争中印国境紛争中ソ国境紛争赤瓜礁海戦天安門事件など内乱や対外戦争が発生した。

台湾島澎湖諸島一帯では、中国国民党の圧政に対する二・二八事件の鎮圧以降40年にわたって戒厳令動員戡乱時期臨時条款)が施行され、国民党が強権的に台湾・澎湖一帯を支配する時代が続いた。しかし、1980年代に入り戒厳令が停止され、歴史上初めて台湾生まれの李登輝総統になると、内戦状態の終結を一方的に宣言し[36]、大陸選出議員(万年議員)の強制引退や直接選出による中華民国総統選挙が行われるなど急速に民主化が進み、現在の中華民国は議会制民主主義五権分立を元にした民主主義国家となっている。

脚注

注釈

  1. ^ 公式な終戦日がない。しかし、中国大陸に近く国民党にとって反攻の為の最後の砦であった海南島が陥落した後は戦争が終結したと、歴史家達は広く合意している[1]
  2. ^ 上党戦役が勃発した日
  3. ^ 蒋介石が国民革命軍に全面的な動員を発令した日
  4. ^ 海南特別行政区の置かれた海南島人民解放軍が完全占領した日[2]
  5. ^ 金門砲戦に対し砲撃停止命令が下された日。これ以降、中国人民解放軍中華民国国軍との間で戦闘は起きていない。
  6. ^ 国共内戦後の1953年に江蘇省から浙江省に移管され、(2020年)現在では浙江省の管轄となっている。
  7. ^ 当時、アメリカは中華民国を「中国の正統な国家」として国家承認しており、中華人民共和国を正当な国家と見なしていなかった。

出典

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  2. ^ Gui, Heng Bin (2008). Landing on Hainan Island. China: Great Wall Press. ISBN 9787548300755. http://www.abebooks.com/landing-Hainan-Island-GUI-HENG/5889443437/bd 
  3. ^ http://www.people.com.cn/GB/historic/0626/2077.html
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  6. ^ 国共内戦コトバンク大辞泉より。ただし著者名のない百科事典からの引用であることに注意。WP:RS
  7. ^ a b 中嶋嶺雄「国共内戦」『日本大百科全書⑨』小学館、昭和61年5月1日 初版第一刷発行、1986年5月1日、407頁。コトバンク
  8. ^ 解放战争” (中国語). 中国共产党新闻. 2018年8月11日閲覧。
  9. ^ 中国語では「重慶談判」
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  11. ^ 天児慧 2004, p. 88.
  12. ^ (『朝日新聞』1945年11月12日)
  13. ^ 山東半島に渡った満鉄技術者たち 第11回-オーラル・ヒストリー企画
  14. ^ 三浦陽一, 「「アジアの巨大な疑問符」 : 中国東北をめぐる戦後処理問題とアメリカの極東政策」『一橋研究』 8巻 2号 p.115-131, 一橋研究編集委員会, doi:10.15057/6233, ISSN 0286-861X
  15. ^ 『中国近現代史』小島晋治・丸山松幸 P.190
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  17. ^ フリーダ・アトリー(西川博史・石堂哲也訳「アトリーのチャイナ・ストーリ」日本経済評論社。
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参考文献

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  • 中村祐悦『白団 : 台湾軍をつくった日本軍将校たち』(新版)芙蓉書房出版〈芙蓉選書ピクシス, 4〉、2006年。ISBN 4829503831 
  • 黄文雄『蒋介石神話の嘘 : 中国と台湾を支配した独裁者の虚像と実像』明成社、2008年。ISBN 9784944219704 
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  • 木立順一「救国論 相反する二つの正義から見える人類史の課題と希望」(メディアポート)(Amazon)、2015年、ISBN 978-4865581089

関連項目