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* 卒業後はドイツに留学、[[ライプツィヒ大学]]で[[カール・ロイカルト]]([[w:Rudolf Leuckart|Rudolf Leuckart]])に師事した。留学中、同大学に留学していた[[森鷗外]]と交遊をもつ。鷗外と同じ下宿で部屋が隣同士であった<ref>森鷗外「[[s:獨逸日記|獨逸日記]]」『鷗外全集 第三十五巻』岩波書店 p.89 1975年</ref>。 |
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* [[1903年]]([[明治]]36年):第5回[[博覧会#内国勧業博覧会など|内国勧業博覧会]]において、[[大阪府]][[堺市]]に開館した[[堺水族館]]の設計、管理を担当 |
* [[1903年]]([[明治]]36年):第5回[[博覧会#内国勧業博覧会など|内国勧業博覧会]]において、[[大阪府]][[堺市]]に開館した[[堺水族館]]の設計、管理を担当 |
2020年6月18日 (木) 11:07時点における版
飯島 魁 | |
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生誕 |
1861年7月24日(文久元年6月17日) 日本 |
死没 | 1921年3月14日(59歳没) |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 動物学、魚類学 |
出身校 | 東京大学 |
プロジェクト:人物伝 |
飯島 魁(いいじま いさお、文久元年6月17日(1861年7月24日) - 大正10年(1921年)3月14日)は明治・大正期の動物学者、魚類学者。海綿の研究と、鳥・寄生虫に関する研究が多く、日本動物学の前進に大きな役割を果たした。
日本鳥学会を創設し、1912年から1921年まで初代会長に就任。また、豪快な性格で、長さ10mに達するミゾサナダムシの幼虫を自ら飲んで、ミゾサナダムシの感染経路を明らかにしたエピソードでも知られる[1]。
経歴
- 1861年7月24日:浜松城下の藩士の家に生まれる。
- 東京開成学校を卒業
- 東京帝国大学理学部に入学。お雇い外国人教師であるモースおよびホイットマンらの指導を受ける。
- 卒業後はドイツに留学、ライプツィヒ大学でカール・ロイカルト(Rudolf Leuckart)に師事した。留学中、同大学に留学していた森鷗外と交遊をもつ。鷗外と同じ下宿で部屋が隣同士であった[2]。
- 1886年(明治19年):帰国後、東京帝国大学理学部教授職を得る
- 1903年(明治36年):第5回内国勧業博覧会において、大阪府堺市に開館した堺水族館の設計、管理を担当
- 1904年(明治37年):三崎臨海実験所所長
- 1906年(明治39年)9月14日 - 1921年(大正10年)3月14日:帝国学士院会員[3]
- 1912年(明治45年)5月3日:日本鳥学会を創設、初代会頭[4]
- 1921年3月14日:没
栄典
- 1900年(明治33年)12月20日 - 勲四等瑞宝章[5]
- 1903年(明治36年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[6]
- 1910年(明治43年)12月26日 - 勲二等瑞宝章[7]
- 1913年(大正2年)8月11日 – 従三位[8]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[9]
- 1920年(大正9年)12月25日 - 勲一等瑞宝章[10]
業績・研究
寄生昆虫類を研究し、その感染経路を明らかにする。また1918年(大正7年)に1000頁を超える「動物学提要」を著す。これは明治・大正期の動物学を総括したもので、長く必読の教科書とされ、日本における動物学の普及に貢献した。日本における水族館の発展にも貢献している。考古学にも興味を持っており、モースの大森貝塚の発掘に参加した。また、1879年(明治12年)、佐々木忠次郎とともに陸平貝塚を発掘調査をして、大森貝塚とは異なる縄文土器の存在を明らかにした。日本鳥学会を創設し、初代会長をつとめるなど、日本における近代的鳥類学の指導者でもあった。
献名された種
- Phylloscopus ijimae (Stejneger, 1882)(イイジマムシクイ)
論文
- 国立情報学研究所収録論文 - 国立情報学研究所
- 飯島魁 (1918), (波江元吉への弔辞), “弔詞”, 動物学雑誌 30 (357): i-ii
脚注
参考文献
- 磯野直秀 (1988), 三崎臨海実験所を去来した人たち : 日本における動物学の誕生, 学会出版センター, ISBN 4-7622-1557-0
- 唐沢孝一 (2012), “初代会頭 飯島 魁 IIJIMA Isao 1861(文久元年) - 1921(大正10) 会頭在任期間 1912-21” (pdf), 日本鳥学会誌, 日本鳥学会100年の歴史 61巻 (特別号): 12
関連項目
外部リンク
- 日本学士院 (2008), 物故会員一覧(50音順)ア行 2013年6月16日閲覧。