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*『萩原三圭の留学』富村太郎著、郷学舎、[[1981年]] |
*『萩原三圭の留学』富村太郎著、郷学舎、[[1981年]] |
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*『近世土佐の群像(2)萩原三圭のことなど』渋谷雅之著 |
*『近世土佐の群像(2)萩原三圭のことなど』渋谷雅之著 |
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*『独逸日記』[[森 |
*『独逸日記』[[森鷗外]]記述 |
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*『土佐医学史考』平尾道雄著 |
*『土佐医学史考』平尾道雄著 |
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2020年6月18日 (木) 11:42時点における版
萩原 静安(はぎわら せいあん、1804年(文化元年) - 1879年(明治12年)9月16日)は、江戸時代後期の土佐藩医、萩原三圭の父。号は静安、のち萩原復斎と称した。
来歴
- 1804年(文化元年)に生まれる。
- 長じて医を学び町医者となり、土佐国土佐郡一宮村(現 高知県高知市一宮)に住す。
- 1843年(天保14年)、おこぜ組の獄に連座して高知城下四ヵ村(小高坂・潮江・井口・江ノ口)禁足処分となり香美郡深淵村(現 高知県香南市野市町深淵)へ籠居する。
- 1850年(嘉永3年)5月25日、土佐国幡多郡にて種痘を行う。
- 1860年(万延元年)12月26日、積年医業の心掛け宜しく、手広く治療をしていた名声によって三人扶持を下し置かれ、格式御用人格にて召し出され藩医となる。
- 1861年(文久元年)12月8日、土佐の町郷浦にて種痘御用を仰せ付けられる。
- 1862年(文久2年)2月10日、山内豊範参勤の際、療治御用を以って江戸表へ出立し、同3月1日より、御船便次第、浦戸通乗船を仰せ付けられる。
- 同年3月28日、自力(徒歩)により北山通へ参上するよう申し付けられるが、以前からの持病の症状があり、北山越えは困難であるとされ、御先達「御駄荷物御用船」へ乗り加えることの願いが許可される。
- 同年4月22日、大坂表で麻疹の流行により、山内豊範の発駕が延期となり、28日となる。
- 1863年(文久3年)1月10日、山内容堂に随行し、乾退助らと筑前藩の蒸気船大鵬丸に乗って江戸の品川を出航し、途中悪天候に遭う。この時、静安は和歌を詠んで容堂へ奉り、容堂の気持ちを慰めた。船は伊豆の下田に漂着し、一行は上陸して宝福寺に滞在した。
- 同年1月25日、山内容堂に随行し上洛する。
- 同年4月12日、山内容堂に随行し土佐に帰藩した。
- 同年11月11日、種痘御用を御免仰せ付けられる。
- 1864年(文久4年)1月22日、爾来の名前「静安」を藩主の許可を得て「復斎」と改める。
- 1866年(慶応2年)2月10日、開成館医局の教授下役を仰せ付けられる。
- 同年7月22日、爾来の役目を御免仰せ付けられる。
- 1867年(慶応3年)3月21日、「持病が思わしく無いため、長崎表で養生を致したい」旨を届出、翌年3月迄の休暇を願い出て許可されるが、実際には嫡男の萩原三圭の長崎・ドイツ留学を支援する目的での休暇願いであったと思われている[1]。
- 1868年(明治元年)10月3日、長崎表より土佐に帰藩する。
- 1879年(明治12年)9月16日逝去。墓は東京の谷中霊園にある。
家族
萩原氏の先祖は、甲斐国山梨郡萩原邑(現 山梨県甲州市塩山下萩原)を貫して氏とした。萩原静安の曾祖父萩原恪斎は遠江国掛川の人である。世々掛川藩小笠原侯に儒を以て仕えたが、幼君(小笠原長堯)を諌めたことが発端で咎められて致仕し、以後江戸に住して家塾を開いた[2]。
- 養曾祖父:萩原守道(恪斎、伴次)
- 祖父:萩原舗兼(昌助)(守道の親族の子)
- 本人:萩原静安(復斎)
- 妻:田内氏の娘(亀)