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'''渋江 保'''(しぶえ たもつ、[[1857年]][[9月14日]]([[安政]]4年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]) - [[1930年]][[4月7日]])は、[[日本]]の[[翻訳家]]、[[著作家]]<ref name="kb">{{kotobank|渋江保|デジタル版 日本人名大辞典+Plus}}</ref><ref name="yamamoto">{{Cite journal |和書|author=山本勉 |title=明治時代の著述者 渋江保の著述活動 : 出版物「万国戦史」を中心に |url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_DB004300007846 |journal=佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇= The Bukkyo University Graduate School review. 佛教大学学術委員会, 文学部編集委員会 編 |issn=1883-3985 |publisher=佛教大学大学院 |year=2015 |month=mar |issue=43 |pages=91-108 |naid=110009890237}}</ref>、教師。本名は'''成善'''(しげよし)、幼名は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。 |
'''渋江 保'''(しぶえ たもつ、[[1857年]][[9月14日]]([[安政]]4年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]) - [[1930年]][[4月7日]])は、[[日本]]の[[翻訳家]]、[[著作家]]<ref name="kb">{{kotobank|渋江保|デジタル版 日本人名大辞典+Plus}}</ref><ref name="yamamoto">{{Cite journal |和書|author=山本勉 |title=明治時代の著述者 渋江保の著述活動 : 出版物「万国戦史」を中心に |url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_DB004300007846 |journal=佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇= The Bukkyo University Graduate School review. 佛教大学学術委員会, 文学部編集委員会 編 |issn=1883-3985 |publisher=佛教大学大学院 |year=2015 |month=mar |issue=43 |pages=91-108 |naid=110009890237}}</ref>、教師。本名は'''成善'''(しげよし)、幼名は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。 |
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[[森鷗外]]が小説『[[渋江抽斎]]』を執筆した際の情報提供者。 |
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== 参考図書 == |
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* [https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card2058.html 『渋江抽斎』:新字新仮名] - [[青空文庫]]([[森 |
* [https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card2058.html 『渋江抽斎』:新字新仮名] - [[青空文庫]]([[森鷗外]]著) |
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*[[森鷗外]]『渋江抽斎』[[岩波文庫]] |
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* 飯田, 宏 『静岡県英学史』 講談社、1967年。 |
* 飯田, 宏 『静岡県英学史』 講談社、1967年。 |
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2020年6月18日 (木) 11:59時点における版
渋江保 | |
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誕生 |
1857年9月14日 江戸本所亀沢町 |
死没 | 1930年4月7日 |
職業 | 小説家 |
国籍 | 日本 |
ジャンル |
怪奇小説 冒険小説 |
代表作 | 『月世界探検』 |
ウィキポータル 文学 |
渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月26日) - 1930年4月7日)は、日本の翻訳家、著作家[1][2]、教師。本名は成善(しげよし)、幼名は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。
経歴
1857年9月14日(安政4年7月26日) 父の渋江抽斎とその4人目の妻の五百の子[3](三男とも[1]、七男ともいう[2][4])として、江戸本所亀沢町[3]に生まれた[1][4]。本名は、成善(しげよし)[1]。
1860年 - 1861年(万延元年 - 文久元年) 海保竹渓(伝経廬創立者の海保漁村の息子)に学ぶ[5]。
1868年(明治元年) 父の本国である弘前藩に移り、若年のうちから漢学者として身を立てた[2][6]。
1871年(明治4年)5月10日 再び上京して尺振八の創設した共立学舎で英語を学んだ[5]。
1871年(明治4年)6月 大学南高に籍を置く。伝経廬・共立学舎・大学南高の3校を往来するようになる。[5]
1872年(明治5年) 英語からの編訳書『米国史』を出版した[6]。また師範学校(後の東京高等師範学校)の1期生となった。
1873年(明治6年)6月7日 名を保(たもつ)と改めた。
1875年(明治8年)2月 小学校教員の養成を目的として浜松県に新設された[8]瞬養校(後の県立浜松中学校)に教師として赴任した[7]。
1875年(明治8年)7月 浜松師範学校(後の静岡師範学校浜松支部)の教頭になる[7]。
1876年(明治9年)8月 浜松県と静岡県の併合に伴って、浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称[7]。
1877年(明治10年)7月 静岡師範学校浜松支部が浜松変則中学校と改称[7]。
1878年(明治11年)2月 浜松変則中学校が浜松中学校と改称[7]。
1879年(明治12年)10月 浜松中学校を退職[7]。帰京して慶應義塾に学んだ[6]。
1881年(明治14年)8月 愛知県で愛知中学校の校長となる[7]。
1882年(明治15年)12月 愛知中学校を辞職。東京に戻る。[7]
1883年(明治16年)1月 慶應義塾・攻玉社の教師を兼務[9]。『東京横浜毎日新聞』記者となったりした[6]。
1885年(明治18年) 健康を害して、静岡県周智郡犬居村に隠棲[6]。英語研究所を開く。[9]
1886年(明治19年) 静岡市安西一丁目南裏町十五番地 に移る。教職に戻って静岡英学校で教頭を務める。[5]
1886年(明治19年)10月15日 佐野 松(旧幕臣 佐野常三郎の娘)と結婚[9]。
1887年(明治20年)1月8日 兄の渋江修(渋江抽斎の五男)とともに静岡市一番町9番地に渋江塾を開校。
1887年(明治20年)1月27日 前島豊太郎の『東海暁鐘新報』(後の『暁鐘新聞』)の主筆となる。
1887年(明治20年)7月1日 静岡高等英華学校の教授となる[9]。
1887年(明治20年)9月15日 静岡文武館の教授となる[9]。静岡英学校の設立者藤波甚助はこの文武館の生徒であった。
1890年(明治23年)3月3日 静岡を離れ有楽町2丁目2番地に移る。これに伴い渋江塾を閉じ、静岡英語専門学校・静岡高等英華学校・静岡文武館を辞した。『暁鐘新報』の社説は継続。博文館に入り、1905年まで勤務した[4]。博文館時代の1890年ころから1901年にかけて[2]、様々な分野の書籍の翻訳や執筆にあたった[1][4]。
博文館退社後は、大学館などから羽化仙史、渋江不鳴など複数の筆名を使い分けて、怪奇小説、冒険小説の類を多数書き、さらに、宇宙霊気、動物磁気、心霊学、催眠術など、疑似科学的な主題の著作も著した[1][4]。
晩年については、資料が少ないが、1917年に『スコブル』に掲載された記事によると、株式取引で大きな損失を出して落ちぶれ、牛込にあった自宅で英語を教えて暮らしており、山路愛山が多少の支援をしていたという[4]。さらに最晩年には易学の研究に打ち込み、神誠館や上村売剣と交流が深かったという[6]。
渋江保の著作は膨大な量にのぼるが、その全体像については、藤元直樹による詳細な書誌学的検討が行われている[6]。
1903年(明治36年)9月 兄の渋江修が来静し、静岡市安西一丁目南裏に渋江塾を再興[10]。
1905年(明治38年)12月 兄・渋江修、渋江塾を閉じて東京に戻る[10]。
親族
- 妻 松(旧幕臣 佐野常三郎の娘)
- 長男 三吉(さんきち)
- 次男 繁次(しげじ)
- 三男 純吉
- 長女 福
- 次女 冬子(ふゆこ)
- 三女 乙女(おとめ)
- 四女 紅葉(もみじ)
著作
- 『波蘭衰亡戦史』博文館
- 『普墺戦史』博文館
- 『社会学』竜渓書舎, 2007
- 『普壊戦史』
- 『印度歪食戦史』
- 『抽斎没後』
- 『英国文学史』博文館
逸話
- 森鷗外が『渋江抽斎』を執筆する際に情報提供したのは渋江抽斎の七男の渋江保である。また『渋江抽斎』の中では森鴎外が彼と会うまでに非常に苦労した様子も描かれている。
参考図書
- 『渋江抽斎』:新字新仮名 - 青空文庫(森鷗外著)
- 森鷗外『渋江抽斎』岩波文庫
- 飯田, 宏 『静岡県英学史』 講談社、1967年。
脚注
- ^ a b c d e f デジタル版 日本人名大辞典+Plus『渋江保』 - コトバンク
- ^ a b c d 山本勉「明治時代の著述者 渋江保の著述活動 : 出版物「万国戦史」を中心に」『佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇= The Bukkyo University Graduate School review. 佛教大学学術委員会, 文学部編集委員会 編』第43号、佛教大学大学院、2015年3月、91-108頁、ISSN 1883-3985、NAID 110009890237。
- ^ a b 森鴎外. 『渋江抽斎』. 岩波文庫
- ^ a b c d e f 横田順彌「渋江保」『20世紀ニッポン異能・偉才100人』朝日新聞社、1993年11月5日、152-153頁。
- ^ a b c d 飯田 宏 (1967). 『静岡県英学史』. 講談社. p. 35
- ^ a b c d e f g 藤元直樹「渋江抽斎没後の渋江家と帝国図書館」(PDF)『参考書誌研究』第60号、国立国会図書館、2004年3月30日、63-119頁、2016年5月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 飯田 宏 (1967). 『静岡県英学史』. 講談社. p. 36
- ^ 和久田雅之. “浜松文学紀行 井上靖と浜松 2 浜松中学校入学、ダブダブの帽子と靴” (PDF). 浜松文芸館だより いざない (公益財団法人 浜松市文化振興財団/浜松文芸館) (25): p. 2 2016年5月25日閲覧。
- ^ a b c d e 飯田 宏 (1967). 『静岡県英学史』. 講談社. p. 37
- ^ a b c 飯田宏 (1967). 『静岡県英学史』. 講談社. p. 38