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[[1896年]](明治29年)に帰国した後は父の開いた告成堂病院で診療にあたり{{sfn|立身致富信用公録 第15編 pp.31-32|1903|ref=ri}}、[[1912年]](明治45年)に父が死去すると男爵を襲爵し、告成堂病院院長を引き継いだ{{sfn|人事興信録 第4版|1915|ref=ji}}。 |
2020年6月18日 (木) 12:01時点における版
岩佐 新(いわさ あらた、1865年2月10日(慶応元年1月15日[1] )– 1938年(昭和13年)10月24日[2])は、日本の華族、医師。貴族院男爵議員。
経歴
明治天皇の侍医を務めた男爵岩佐純の長男として福井に生まれる。大学予備門で学んだ後、1884年(明治17年)よりウィーン、ミュンヘンに留学し、1892年(明治25年)にフライブルク大学より医学博士の称号を得た[3]。翌年からはミュンヘン大学で内科助手を務めた[3]。ミュンヘン時代に画家の原田直次郎、陸軍軍医の森林太郎(森鷗外)と3人で映った写真が『新潮日本文学アルバム 森鴎外』(1985年刊)に収録されている。
1896年(明治29年)に帰国した後は父の開いた告成堂病院で診療にあたり[3]、1912年(明治45年)に父が死去すると男爵を襲爵し、告成堂病院院長を引き継いだ[4]。
親族
脚注
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、214頁。
- ^ a b 議会制度七十年史 1960.
- ^ a b c 立身致富信用公録 第15編 pp.31-32 1903.
- ^ a b 人事興信録 第4版 1915.
参考文献
- 『立身致富信用公録 第15編』国鏡社、1903年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1960年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 岩佐純 |
男爵 岩佐(純)家第2代 1912年 - 1938年 |
次代 岩佐公直 |