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貧しい農家の家に生まれた。父は張が幼少の時に死没し、母と兄の稼ぎで苦労して<ref name="jiji20121115">「[http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_int_china-pol-kyosan20121115at23 沿海部の経済発展に手腕=張高麗天津市党委書記―中国新指導部]」時事通信(時事ドットコム)、2012年11月15日付配信記事(2012年12月14日閲覧)。</ref>[[1965年]]に[[厦門大学]][[経済学部]]計画統計学科に入学。[[文化大革命]]期の[[1970年]]に卒業し、石油工業部<ref>[[1955年]]、燃料工業部を改組して設置された中央官庁。[[1988年]]の省庁再編でエネルギー部に吸収されて廃止。</ref>[[広東省]]茂名石油工業公司の労働者として就職。その後、同公司の生産指揮部弁公室秘書、政治部共産主義青年団(共青団)総支部書記、同公司共青団委員会副書記を歴任。[[1973年]]12月、[[中国共産党]]に入党。[[1977年]]、石油工業部茂名石油工業公司製油工場第1職場党総支部書記・教導員となる。その後、工場党委員会副書記や書記を歴任。[[1980年]]より石油工業部茂名石油工業公司党委常務委員・計画処処長を務め、副経理(副社長)にまで昇進する。[[1984年]]、広東省[[茂名市]]党委副書記に任命され、中国石化総公司茂名石油工業公司経理(社長)に就任。 |
貧しい農家の家に生まれた。父は張が幼少の時に死没し、母と兄の稼ぎで苦労して<ref name="jiji20121115">「[http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_int_china-pol-kyosan20121115at23 沿海部の経済発展に手腕=張高麗天津市党委書記―中国新指導部]」時事通信(時事ドットコム)、2012年11月15日付配信記事(2012年12月14日閲覧)。</ref>[[1965年]]に[[厦門大学]][[経済学部]]計画統計学科に入学。[[文化大革命]]期の[[1970年]]に卒業し、石油工業部<ref>[[1955年]]、燃料工業部を改組して設置された中央官庁。[[1988年]]の省庁再編でエネルギー部に吸収されて廃止。</ref>[[広東省]]茂名石油工業公司の労働者として就職。その後、同公司の生産指揮部弁公室秘書、政治部共産主義青年団(共青団)総支部書記、同公司共青団委員会副書記を歴任。[[1973年]]12月、[[中国共産党]]に入党。[[1977年]]、石油工業部茂名石油工業公司製油工場第1職場党総支部書記・教導員となる。その後、工場党委員会副書記や書記を歴任。[[1980年]]より石油工業部茂名石油工業公司党委常務委員・計画処処長を務め、副経理(副社長)にまで昇進する。[[1984年]]、広東省[[茂名市]]党委副書記に任命され、中国石化総公司茂名石油工業公司経理(社長)に就任。 |
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[[1985年]]、広東省経済委員会主任に任命され、官僚としての道を歩み始める。[[1988年]]、広東省副省長に就任し、[[1998年]]まで務める<ref>新華社発表の公式履歴より。高橋・21世紀中国総研(2009年)、599ページでは副省長在任期間を1997年までとする。</ref>。この間の[[1990年]]4月から7月にかけて[[中国共産党中央党校|中央党校]]省部幹部進修班で研修を受けた。[[1992年]]からは同省計画委員会主任を兼任する。[[1993年]]、広東省党委常務委員に選出。[[1994年]]、兼任していた広東省計画委員会主任を退く。[[1997年]]9月の第15回党大会で党中央候補委員に選出された張は、同年、[[経済特区]]の一つである広東省[[深圳市]]の市党委書記に任命される。翌年には広東省党委副書記兼深圳市党委書記に昇進。かくして張は[[改革開放]]の最前線で奮闘することになる<ref name="jiji20121115"></ref>。[[2000年]]、深圳市人民代表大会常務委員会主任に選出される。当時、深圳市では[[習仲勲]]元[[中華人民共和国国務院|国務院]]副総理が引退生活を送っており、張は習仲勲とその息子で後に[[中国共産党中央委員会総書記]]となる[[習近平]]と知遇を得た<ref name="jiji20121115"></ref>。 |
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2020年6月20日 (土) 09:29時点における版
張高麗 | |
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生年月日 | 1946年11月 |
出生地 | 中華民国 福建省晋江県 |
出身校 | 厦門大学経済学部 |
所属政党 | 中国共産党 |
内閣 | 李克強内閣 |
在任期間 | 2013年3月16日 - 2018年3月19日 |
国家主席 | 習近平 |
在任期間 | 2012年11月15日 - |
党総書記 | 習近平 |
張高麗 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 張高麗 |
簡体字: | 张高丽 |
拼音: | Zhāng Gāolì |
和名表記: | ちょう こうれい |
張 高麗(ちょう こうらい、漢族、1946年11月 - )は、中華人民共和国の政治家。国務院常務副総理(第一副首相)、第18期中国共産党中央政治局常務委員を歴任。
略歴
貧しい農家の家に生まれた。父は張が幼少の時に死没し、母と兄の稼ぎで苦労して[1]1965年に厦門大学経済学部計画統計学科に入学。文化大革命期の1970年に卒業し、石油工業部[2]広東省茂名石油工業公司の労働者として就職。その後、同公司の生産指揮部弁公室秘書、政治部共産主義青年団(共青団)総支部書記、同公司共青団委員会副書記を歴任。1973年12月、中国共産党に入党。1977年、石油工業部茂名石油工業公司製油工場第1職場党総支部書記・教導員となる。その後、工場党委員会副書記や書記を歴任。1980年より石油工業部茂名石油工業公司党委常務委員・計画処処長を務め、副経理(副社長)にまで昇進する。1984年、広東省茂名市党委副書記に任命され、中国石化総公司茂名石油工業公司経理(社長)に就任。
1985年、広東省経済委員会主任に任命され、官僚としての道を歩み始める。1988年、広東省副省長に就任し、1998年まで務める[3]。この間の1990年4月から7月にかけて中央党校省部幹部進修班で研修を受けた。1992年からは同省計画委員会主任を兼任する。1993年、広東省党委常務委員に選出。1994年、兼任していた広東省計画委員会主任を退く。1997年9月の第15回党大会で党中央候補委員に選出された張は、同年、経済特区の一つである広東省深圳市の市党委書記に任命される。翌年には広東省党委副書記兼深圳市党委書記に昇進。かくして張は改革開放の最前線で奮闘することになる[1]。2000年、深圳市人民代表大会常務委員会主任に選出される。当時、深圳市では習仲勲元国務院副総理が引退生活を送っており、張は習仲勲とその息子で後に中国共産党中央委員会総書記となる習近平と知遇を得た[1]。
2001年、張は山東省党委副書記に転出し、12月6日、山東省省長代理に任命される[4]。2002年3月28日、正式に山東省長に就任[5]。同年11月の第16回党大会で党中央委員に昇格し、11月23日、山東省党委書記に任命される[5]。翌年1月12日、山東省長を辞任[6]。同年、山東省人代常務委主任を兼務。山東省党委書記を2007年まで務めた張は、同省を広東省に次ぎ、江蘇省と並ぶ経済大省に発展させた[1]。
2007年3月、張は天津市党委書記に転任。同年10月の第17回党大会で党中央委員に再選され、10月22日の第17回党中央委員会第1回全体会議(第17期1中全会)において党中央政治局委員に選出される。天津市党委書記在職中は同市の1人あたりの域内総生産(GDP)を国内トップに引き上げた[1]。
張は、最高指導者の地位を胡錦濤に譲った後も「上海閥」の総帥として中国政界に影響力を振るう江沢民(前党総書記・国家主席)から厚い信頼を受け、江沢民の側近である曽慶紅(前国家副主席・第16期党中央政治局常務委員)や周永康(第17期党中央政治局常務委員・党中央政法委員会書記)とは「石油閥」でつながるなど[1]、当時の中国共産党中央委員会総書記である胡錦濤とは政治的に対立する派閥に属していた。張と同時に政治局入りした薄熙来が、市党委書記を務める重慶市で文化大革命を想起させる政治運動を展開し、上海閥の呉邦国(全国人民代表大会常務委員長)や太子党の習近平(政治局常務委員・国家副主席)など党中央の幹部の中から好意的に評価されると[7]、張もその手法に倣って天津市でも革命歌を歌う活動を展開した[1]。しかし、薄熙来が胡錦濤派との政治闘争に敗れて失脚すると、張はすぐさま方針転換し、胡錦濤に忠誠を誓っている[1]。
2012年11月15日、第18期1中全会で習近平・李克強指導部が発足すると、張は党中央政治局常務委員に選出され、最高指導部入りを果たした。11月21日、天津市党委書記を退任[8][9]。2013年3月16日、第12期全国人民代表大会第1回会議において国務院常務副総理に選出される、正式に李克強内閣が発足した。
脚注
- ^ a b c d e f g h 「沿海部の経済発展に手腕=張高麗天津市党委書記―中国新指導部」時事通信(時事ドットコム)、2012年11月15日付配信記事(2012年12月14日閲覧)。
- ^ 1955年、燃料工業部を改組して設置された中央官庁。1988年の省庁再編でエネルギー部に吸収されて廃止。
- ^ 新華社発表の公式履歴より。高橋・21世紀中国総研(2009年)、599ページでは副省長在任期間を1997年までとする。
- ^ 「2001年中国重要日誌」アジア動向データベース(アジア経済研究所)、2001年度版(2012年12月14日閲覧)。
- ^ a b 「2002年中国重要日誌」アジア動向データベース(アジア経済研究所)、2002年度版(2012年12月14日閲覧)。
- ^ 「2003年中国重要日誌」アジア動向データベース(アジア経済研究所)、2003年度版(2012年12月14日閲覧)。
- ^ 富坂聰「中国共産党の『台風の目』薄熙来とは何者か」『WEDGE Infinity』、2011年9月20日付配信記事(2012年12月14日閲覧)。
- ^ 「張高麗同志が天津市党委員会書記を退任、後任は孫春蘭同志」中国共産党ニュース(人民網日本語版)、2012年11月21日付配信記事(2012年12月14日閲覧)。
- ^ 「中国天津市トップに孫春蘭氏」『産経新聞』2011年11月21日付記事(2012年12月16日閲覧)。
参考文献
- 高橋博・21世紀中国総研編『中国重要人物事典』(蒼蒼社、2009年)
外部リンク
中華人民共和国
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中国共産党
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