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「隆の里俊英」の版間の差分

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== 現役時代 ==
== 現役時代 ==

2020年6月23日 (火) 01:19時点における版

隆の里 俊英
国技館辺に展示されている隆の里の手形
国技館辺に展示されている隆の里の手形
基礎情報
四股名 隆の里 俊英
本名 高谷 俊英
愛称 おしん横綱[1][2]、ポパイ[1][2]、漢方薬博士、
生年月日 (1952-09-29) 1952年9月29日[1]
没年月日 (2011-11-07) 2011年11月7日(59歳没)
出身 青森県南津軽郡浪岡町
(現在の青森市
身長 181cm
体重 158kg
BMI 48.23
所属部屋 二子山部屋
得意技 右四つ、寄り、吊り、上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 第59代横綱
生涯戦歴 693勝493敗80休(106場所)
幕内戦歴 464勝313敗80休(58場所)
優勝 幕内最高優勝4回
十両優勝1回
殊勲賞2回
敢闘賞5回
データ
初土俵 1968年7月場所
入幕 1975年5月場所
引退 1986年1月場所
引退後 鳴戸部屋師匠
備考
金星2個(輪島1個、北の湖1個)
2019年7月3日現在

隆の里 俊英(たかのさと としひで、1952年(昭和27年)9月29日 - 2011年(平成23年)11月7日)は、青森県南津軽郡浪岡町(現在の青森市)出身で二子山部屋所属の元大相撲力士、第59代横綱。本名は高谷 俊英(たかや としひで)。現役時代は身長181cm、体重158kg。得意手は、右四つ[3]、寄り、吊り、上手投げ。引退後は年寄鳴戸を襲名。鳴戸部屋師匠として稀勢の里髙安若の里隆乃若ら7人の関取を育成した。

現役時代

入門

青森県浪岡町の農家の次男に生まれる。春は雪囲いの片づけをして、苗代作り、リンゴの授粉、秋は「身体が大きいから人より持たないとバカにされる。」と思いながら稲刈りを手伝い、ヤギの乳をビール瓶に詰めて学校に持って行って育った[4]

弘前市出身の二子山親方(第45代横綱初代若乃花)が、大鰐で下山勝則(後の若三杉、2代若乃花)をスカウトしてタクシーに乗ると、運転手が「親方、浪岡にも大きいのがいます」と言うので紹介を頼んだ。これが高谷俊英、後の隆の里だった。

農協に貼ってあった山積みの米とリンゴを背景に立つ初代若乃花のポスターを「成功の象徴」として見て育った高谷少年は、東京には興味があったが、当初は高校入学直後で足を怪我していたため固辞した。しかし、二子山が「夜行の切符を取ってあるんだ。これが無駄になる。A寝台なんだ。」とつぶやくと、迷惑をかけてはいけない、高校を卒業してからでもいいというので、いったん東京見物をしようと思い連れ出されると、その間に身辺に根回しをされてしまい観念した。後に横綱に昇進する下山少年と高谷少年が、二子山親方に連れられ、夜行列車に乗って一緒に上京したことになる。二子山親方は二人が途中駅で下車し引き返さないように終点上野駅の一つ前の駅まで一晩中寝ずに見張り、その駅を出発してようやく安心して眠ったという。

上野駅のホームに「月面にしるす第一歩のような気分で」降り立ち、杉並区の二子山部屋に到着すると、生まれて初めて牛肉すき焼きを食べた。そろそろ帰りたいと思ったタイミングで、担任と同級生から手紙や寄せ書きが届き、既に入門したと伝える地元紙の切り抜きが入っていた[5]。偶然のことから二子山親方に勧誘された高谷は、浪岡高校柔道に励んでいた)を中退して二子山部屋に入門することを決め、1968年(昭和43年)7月場所で初土俵を踏む[6]

糖尿病との闘い

未成年の取的時代から酒好きであり、しばしば稽古を抜け出してを一気飲みする、稽古の後にビールを3本飲み、ちゃんこと一緒にウイスキーを飲むという半ば酒に溺れた食生活を行っていた[7]。隆の里がこのように大酒を飲むようになった背景には入門2年目の場所中にリンゴ園を営んでいた父を、3年目に5歳年下の妹を喪ったという事情がある[8]。父の死を知ったのは、勝ち越しを決め父に朗報を伝えようと病院に電話をした時であった。病院からの連絡を胸の内にとどめていた二子山は翌日「この社会は本場所中は帰れない。力士は土俵が本業だ。それを全うするためには親の死に目に会えないこともある。お前は偉くなって恩返しするしかない。」と、自分が看板である部屋単位の巡業中で父親の死に目に会えず、悲しみをぐっとこらえてそのまま巡業を続けた自分の経験をしみじみと伝えた[9][10]

暴飲暴食が祟り、幕下だった1972年(昭和47年)に、糖尿病を患った[1][11]。入院直後の空腹時血糖値は408[8]。最初は病状を内緒にしていたが、若三杉(下山)が新十両、隆の里が幕下東5枚目だった1973年(昭和48年)7月場所、3勝3敗で最後の一番に勝てば十両入りはほぼ確定的の相撲で、体が脱力感に襲われてまるで動かず敗北した[12]

隆の里は師匠に病状を全て打ち明け場所後に入院した[13]。大量の飲酒もさることながら、遺伝的要素も糖尿病の原因として大きかった[8]。食事に厳しい制限が課せられ「いっぱい食っていっぱい稽古して」という力士が強くなるための条件を半分失った。入院して気が滅入ったが、主治医に「君は将来三役になる力士だから、しっかり治しなさい。」と言われる。師匠の二子山が「先生、高谷は病気さえ治れば大関も夢でないんです。三役になる力士なんです。見捨てないで、何としても治して下さい。」とお願いしていたことを知り奮起した[14]

幸いにも稽古するなとは言われておらず、むしろ稽古を増やすことで病状が快方に向かうので人一倍稽古をした。入院中は病院の屋上で四股を踏み、病院中が揺れて驚かれた。入院中は週二回しか風呂に入れないので、屋上での稽古後は洗面所で身体の汗を拭いた。最初は怒られたが、夜中床に新聞紙を敷いて腕立て伏せに励む姿を見た病院関係者も黙認して応援するようになった[15]。当初は瓶に紅茶を入れてウイスキーと偽って飲んでいたが、糖尿病を隠す力士も多い中、病気を周囲にきちんと公表し、後援者などとの酒の席でも「病気のためにあまり飲めません」と説明した[7][6]ちゃんこ鍋野菜豆腐を中心にして、もちろん酒は断った。は脂身を避け、は白身を選び、は黄身を残して白身だけを食べた。7、8杯食べていた丼飯は1杯で我慢。満腹感を得るために、ワカメを丼で食べ、無塩のトマトジュースを飲んだ[8]

本人はインタビューで「相撲でつとまらなくて中途半端な状態で田舎に帰ったら、周囲から何を言われるか分からない。だから頑張った」と当時を説明している。また二子山親方夫妻も幕下力士としては異例の糖尿病治療用メニューを認めるなど治療に全面的に協力していた事も大きかった[16]。持病を公表し、さらに親方が治療に協力していることが周知されたために、後援者にも協力的な者が多かったとも伝わる。

糖尿病に効くと言われれば民間療法も試すなど治療のためなら正に何でもしたが、失敗も少なくはなかった。安直な薬物療法を嫌う治療態度で知られており、当時より食事療法で糖尿病を治療する方針であった[1][17]。ちゃんこ鍋に豆腐と野菜しか残っておらず、これでは良質なたんぱく質を摂取できないとスーパーマーケットサバ缶や乳児用の粉ミルクなどを購入して口にした。前者は40円(1975年の大卒初任給は約9万円)で購入することができた上にプロテインスコアが高いことや青魚の油分、EPADHAなどが豊富に含まれていること、後者は「乳児の体を健やかに成長させるものだから力士にも良いに決まっている」という考えから選んだが、当時はそのような理屈が相撲界には浸透しておらず、変わり者扱いされることもままあった[18][19]。部屋から近い阿佐ヶ谷ピーコックでサバ缶を30個購入した時には、「隆の里関が飼っているはどんな種類なのですか。」と店員に質問されたという[20]

ある時野菜ジュースを作っていた際、同部屋の兄弟子である貴ノ花に「みんなで酒飲んでる時に君だけ野菜ジュースか」と言われた事があり、「漢方薬博士」というあだ名も贈られていた。もちろんこれは弟弟子に対する愛情表現である。ある力士仲間からは「付き合いが悪い」とも言われたが、それには耳を貸さなかった[8]。隆の里が好きなだけ食べる日は数週間に一度だけであったという[8]

糖尿病を患ってからは成績が振るわず、同期生の若三杉(下山)に水をあけられたが、若三杉は大関昇進記者会見でも「同部屋のライバルは誰ですか?」と聞かれれば、たとえ失笑されても常に「ライバルは隆ノ里です(「の」の字は当時は片仮名)」と答えていたことも励みになった[7][21]。若三杉が横綱・若乃花になって以降も、インタビューなどでは「隆の里は俺より強いですよ」とたびたび答えている。当時の隆の里は「稽古場大関(横綱)」と呼ばれ、関係者の間では実力者であることが認識されていた[6]

1970年には名城大学ウエイトリフティング部監督と出会い、7月場所のたびに指導を受けていたが、糖尿病にかかって以降は本格的にウエイトトレーニングの指導を仰いだ[8]

十両東3枚目だった1975年(昭和50年)1月場所には珍しいヌケヌケを記録している。初日に勝ってのヌケヌケであったため8勝7敗の勝ち越しだった(後述)。

1975年5月場所新入幕。当時から怪力による吊り寄りの強さがあったが、突き押し相撲には弱く、相手を捕まえられないまま土俵を割ってしまう場面も多かった。糖尿病の影響で血糖値が不安定なのも影響していたようだ。また身体が柔軟性に欠け、柔道時代の癖もあって、どちらかというと取り口は不器用な方だった。この点、身体の柔らかさからくる懐の深さを武器にしていた若三杉とは対照的である。実力は十分ながら精神面で弱いと評されたこともあり、大舞台でなかなか実力を発揮できない部分もあったと言われている。

おしん横綱

入幕してすぐには幕内に定着できず、十両との往復を繰り返した。その間に、同部屋の若三杉や怪童と呼ばれた北の湖など、いわゆる花のニッパチ組(昭和28年・1953年生まれ)[22]に先を越されてしまう(隆の里は昭和27年生まれ)[6]

1979年(昭和54年)5月場所に4度目の入幕。翌7月場所で四股名を「隆ノ里」から「隆の里」に改名し、以後は幕内に定着する。1980年(昭和55年)頃から糖尿病が快方に向かい成績が向上[6]。師匠・二子山親方がよき理解者となり治療に協力したのが大きかったという。隆の里は、1970年代の相撲界では異端視されていた筋力トレーニングなどの科学的トレーニングを、早くから積極的に行っていた[1]。一部で「頑迷」と語られる二子山も、隆の里が科学的トレーニングばかり行うのではなく相撲本来の稽古も熱心だったことから、独自のトレーニング方法を認めていたと言われる。1980年(昭和55年)9月場所2日目の麒麟児戦では右手首の亀裂骨折の重傷を負ったが、二子山から「医者の言うことばかり聞いていても強くならないぞ」と休場を認めず「稽古で固めろ」と言われてその後実際にこの重傷を稽古で治した[23]

千代の富士琴風朝汐、同部屋の太寿山などと並んで大関候補と呼ばれるようになった。とはいえ精神面の弱さからか成績が安定せず、優勝争いにも顔を出す程の大勝ちもあるが大事な場所で2桁勝利に届かず大関昇進に幾度か失敗し、千代の富士や琴風に先を越される結果になった。

1981年(昭和56年)3月場所では、稽古で擦りむいた膝の傷からばい菌が入って蜂窩織炎にかかる。厳しさで有名な師匠・二子山でさえ休場をすすめたが、隆の里は入院して十字切開手術をして、四十度の高熱を押さえて病院から支度部屋に顔を出さずに場所へ通う。体育館横の事務所で穴があいた傷の手当てをし、控えに入る直前に痛み止めの注射をして土俵にあがったが、何とか二桁の白星をあげ、大関への足固めをした[24]。これ以来、 相撲の後は爪に入った砂を消毒液を付けた脱脂綿で取り除いたり傷の手当をしており、常に救急箱を持参していた[25]。苦労のかいあって三役で三場所合計33勝を挙げ、1982年(昭和57年)1月場所後に当時最スローの82場所、29歳3か月の年齢で大関に昇進した[1][6]。大関昇進伝達式では口上に「健康管理に努め…」との文言を用いた[26]

糖尿病を克服して大関に昇進した隆の里に関し、東京大学病院長の上田英雄教授(5代目横綱審議委員会委員長)は、「どうやって糖尿病を克服したのか。会って話をしたい。」と驚き、駿河台日大病院循環器科の梶原長雄教授は、「これは医学では説明できない。精神力で病気を治した。本人の努力以外ない。」と称賛し、隆の里の著書『糖尿病に勝った』の序文を執筆した[27]

同年9月場所には15戦全勝で初優勝を果たした。この時、 NHKの実況は「同僚が、後輩が、脚光を浴びる華やかな土俵の陰で、黙々と励み続けた十四年。相手に勝つこと以上に苦しかった病との闘いを乗り越えて、今、津軽の里に錦を飾る初優勝です。」と伝えた[28]。優勝パレードの旗手は同郷・同時入門の盟友・2代若乃花が務めた。

最初の綱とりは10勝5敗で失敗するが、翌場所から成績が上昇し1983年(昭和58年)7月場所で14勝1敗で2度目の優勝を果たし、場所後に当時30歳11か月の高齢ながら第59代横綱にようやく昇進を果たす[1]。横綱昇進伝達式では「節制に努め努力精進致します」と、糖尿病を抱える身であり治療のために様々な工夫を重ねていることを公言する隆の里ならではの口上を述べた。なお横綱土俵入りの型は、当時から後継者が少ない「不知火型」を選んだ[29]

既に引退していた同郷・同時入門の2代若乃花は、病に苦しんだ隆の里の横綱昇進が決定すると、「自分は早く咲いて早く散ったけど、高谷には遅く咲いた分だけ一場所でも長く咲いてほしい。あいつは根性があるので、いつかは横綱になると思っていた。これで自分の夢もかなった。」と語り、「自分が横綱になった時より嬉しい。」と号泣した[30]

糖尿病の苦しみに耐えながら時間をかけて30歳を過ぎ遅咲きで横綱に上り詰めた姿から、新聞は同年放送で人気を博した『おしん』(NHK連続テレビ小説)になぞらえ「おしん横綱誕生」とその昇進を伝えた[7][6][11]。同年放送の大河ドラマ徳川家康』も含め、辛抱三人組「おしん、家康、隆の里」という流行語が生まれた[31]

千代の富士の天敵

隆の里は身体が硬いせいか立合いがやや腰高なため、突き押し相撲や差したらいっぺんに出てくる速攻相撲(琴風など:後述)はやや苦手にしていた[32]。しかし持ち前の怪力を生かし、右四つがっぷりに組み止めてしまえば、どんな強敵もほぼ確実に仕留めるだけの力を持っていた。右四つ両廻しを引き付けて吊り寄りで攻めるというのが得意な取り口だった。

千代の富士(隆の里とは同時に十両に昇進している)は隆の里を大の苦手にしていた[1]。千代の富士いわく「右の相四つだけどがっぷりになると力負けする、何をやっても全部読まれて裏目に出る」という程のものだったといい、場所中に支度部屋や廊下で隆の里とすれ違う際、顔も見たくない気分だったという。

隆の里は「千代の富士に1回勝てば白星3個分の価値がある」として攻略のため、千代の富士の相撲をビデオテープに録画、何度も繰り返し再生し、日常生活や趣味、巡業中の行動や考え方、クセに至るまで観察し、千代の富士の弱点を徹底研究していた[33]。その結果ビデオテープが擦り切れたり、ビデオデッキが二場所で壊れ、修理に出すと擦り減ったヘッドを見た店員に「どうやったらこんな壊れ方するの?」と言われたり、隆の里がビデオばかり見ているので遊びに来た友人が呆れ果てて帰ってしまう、というほどだった。ビデオデッキは最終的に2台が壊れたという。隆の里は現役当時より、「他の力士は頭を使わなさすぎる。工夫が無いんだ」と他の力士が自分の型を磨くことばかりに執着して相手を研究することが足りないことを嘆いており、こうした自身の考えも研究熱心さを支えていた[34]

千代の富士には対戦成績で16勝12敗(十両でも3度の対戦がありこれを含むなら18勝13敗)。さらに、千代の富士の横綱昇進後に限れば11勝6敗と圧倒した。千代の富士が平幕の頃から横綱だった北の湖を除けば、隆の里がただ1人歴然とした差で勝ち越しており、1981年7月場所から1982年9月場所まで8連勝した。

この頃の両者の相撲は立合いは千代の富士が前ミツを取り攻勢に出るのだが、隆の里が持ち前の怪力と後にウルフスペシャルと言われた投げに対しては外掛けで我慢し、長い相撲に持ち込んで徐々に千代の富士の体を起こしてがっぷり右四つに持ち込んで寄る、吊る、投げるという言わば必勝パターンを確立していた。さらに、1983年7月場所から1984年(昭和59年)1月場所まで、4場所続けて千代の富士と優勝をかけて千秋楽相星決戦を行ない、3勝1敗という成績を残し、この間に隆の里は横綱昇進を果たしている。隆の里は優勝決定戦を1度も経験していないが、もし千代の富士対隆の里という決定戦があれば、千代の富士の決定戦無敗はなかったかもしれない。

対千代の富士戦では多くの熱戦があったが、1981年9月場所では、新横綱の千代の富士と2日目に対戦が組まれた。たまたま隆の里は体調不良で、病院から直接国技館に場所入りして対戦。互いにがっぷり四つになり、しばらく土俵中央で胸が合っていたところ、突然隆の里が強烈な上手投げで一瞬で千代の富士を横転させるという展開になった。千代の富士は場所前から痛めていた足首を負傷し、翌日から休場を余儀なくされる。病院から場所入りした隆の里が、千代の富士を病院送りにするという皮肉な結果となった。千代の富士は翌場所やっと復活したものの、隆の里は対千代の富士戦で更に6連勝を重ね、横綱を全く寄せ付けぬ強さを発揮した。横綱昇進前には「史上最強の大関」という呼び方をされることもあった。

なお1982年前後、隆の里、千代の富士、琴風の横綱・大関陣は三すくみの関係にあった。隆の里は千代の富士に強く、千代の富士は琴風に強く、琴風は隆の里に強いのである。千代の富士戦に8連勝したのと同時期の1981年9月場所から1982年7月場所にかけて琴風戦では6連敗を喫するなど、隆の里は長く琴風を苦手にしていた。しかし、横綱昇進の時期には琴風を圧倒するようになっていた(1983年1月場所までの琴風戦は4勝17敗、1983年3月場所以後の同対戦は9勝1敗)。

千代の富士 - 隆の里 全対戦一覧

場所 対戦日 隆の里勝敗
(通算成績)
千代の富士勝敗
(通算成績)
優勝力士 備考
1978年1月場所 13日目 ○(1) ●(0) 北の湖 初対戦
1978年3月場所 3日目 ●(1) ○(1) 北の湖
1978年5月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1978年7月場所 4日目 ●(1) ○(2) 北の湖
1978年9月場所 中日 ○(2) ●(2) 北の湖
1978年11月場所 - - - 若乃花 取り組みが組まれず対戦なし
1979年1月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1979年3月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1979年5月場所 - - - 若乃花 取り組みが組まれず対戦なし
1979年7月場所 - - - 輪島 取り組みが組まれず対戦なし
1979年9月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1979年11月場所 - - - 三重ノ海 取り組みが組まれず対戦なし
1980年1月場所 - - - 三重ノ海 取り組みが組まれず対戦なし
1980年3月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1980年5月場所 - - - 北の湖 取り組みが組まれず対戦なし
1980年7月場所 11日目 ○(3) ●(2) 北の湖
1980年9月場所 6日目 ●(3) ○(3) 若乃花
1980年11月場所 14日目 ○(4) ●(3) 輪島
1981年1月場所 10日目 ●(4) ○(4) 千代の富士(1)
1981年3月場所 13日目 ●(4) ○(5) 北の湖 千代の富士、大関昇進
1981年5月場所 13日目 ●(4) ○(6) 北の湖
1981年7月場所 初日 ○(5) ●(6) 千代の富士(2)
1981年9月場所 2日目 ○(6) ●(6) 琴風 千代の富士、横綱昇進
1981年11月場所 14日目 ○(7) ●(6) 千代の富士(3)
1982年1月場所 12日目 ○(8) ●(6) 北の湖
1982年3月場所 14日目 ○(9) ●(6) 千代の富士(4) 隆の里、大関昇進
1982年5月場所 13日目 ○(10) ●(6) 千代の富士(5)
1982年7月場所 14日目 ○(11) ●(6) 千代の富士(6)
1982年9月場所 12日目 ○(12) ●(6) 隆の里(1)
1982年11月場所 千秋楽 ●(12) ○(7) 千代の富士(7)
1983年1月場所 千秋楽 ●(12) ○(8) 琴風
1983年3月場所 14日目 ●(12) ○(9) 千代の富士(8)
1983年5月場所 - - - 北天佑 千代の富士の休場により対戦なし
1983年7月場所 千秋楽 ○(13) ●(9) 隆の里(2) 千秋楽結びの一番1敗同士の相星決戦
1983年9月場所 千秋楽 ○(14) ●(9) 隆の里(3) 隆の里、横綱昇進。千秋楽結びの一番全勝同士の相星決戦
1983年11月場所 千秋楽 ●(14) ○(10) 千代の富士(9) 千秋楽結びの一番1敗同士の相星決戦
1984年1月場所 千秋楽 ○(15) ●(10) 隆の里(4) 千秋楽結びの一番2敗同士の相星決戦
1984年3月場所 - - - 若嶋津 千代の富士の休場により対戦なし
1984年5月場所 14日目 ○(16) ●(10) 北の湖
1984年7月場所 - - - 若嶋津 千代の富士の休場により対戦なし
1984年9月場所 千秋楽 ●(16) ○(11) 多賀竜
1984年11月場所 - - - 千代の富士(10) 隆の里の休場により対戦なし
1985年1月場所 - - - 千代の富士(11) 隆の里の休場により対戦なし
1985年3月場所 - - - 朝潮 隆の里の休場により対戦なし
1985年5月場所 - - - 千代の富士(12) 隆の里の休場により対戦なし
1985年7月場所 千秋楽 ●(16) ○(12) 北天佑 最後の対戦
  • 1983年7月場所以前までの対戦成績は、隆の里の13勝9敗隆の里優勢だった。
  • 1983年9月場所以降の両者横綱同士での対戦成績は、3勝3敗で全くの互角であった。

横綱時代

1983年9月場所は、千秋楽結びの一番において14戦全勝の横綱同士の相星決戦で千代の富士を倒して、新横綱で15戦全勝優勝を果たした。新横綱の全勝優勝は1938年(昭和13年)1月場所の双葉山以来実に45年ぶり、15日制定着後は史上初の快挙である。横綱同士の楽日全勝対決は1960年(昭和35年)3月場所の初代若乃花-栃錦1963年(昭和38年)9月場所の柏戸-大鵬1964年(昭和39年)3月場所の大鵬-柏戸、そしてこの一番まで4度を数えるがこれを最後に25年以上も出ていない(大関が参加した楽日全勝対決は2012年7月場所の白鵬-日馬富士で実現)。この場所の相撲は大関時代のように不利な体勢になると慌てる癖がなく、識者からは「大関時代とは別人」と評された。

1983年11月場所は千代の富士との13勝1敗同士の相星決戦となり、惜しくも敗れて3連覇(結果から言えば4連覇)は逃したが、同1983年において自身唯一の年間最多勝を受賞した。翌1984年1月場所でも4場所連続で千代の富士との相星決戦となり、13勝2敗で4度目の優勝を果たしたが、これが隆の里の最後の幕内優勝となった。昇進時の「おしん横綱」のほか、僧帽筋が大きく盛り上がった筋骨隆々の体型から「ポパイ」というあだ名もあった。腕力には絶対の自信を持ち、「江戸の雷電と戦ってみたかった」とも話している。

一時期は「千代隆(ちよたか)時代」の到来を期待する声もあったが、1984年3月場所以降は体力の衰えや故障が重なり、成績が徐々に下降する。1984年9月場所11日目、入幕2場所目ながら最後まで優勝を争い「黒船来襲」と恐れられた、前頭6枚目の小錦との初対戦では、強烈な小錦の押し出しに土俵外まで吹っ飛んでしまった。その後1984年11月場所から1985年(昭和60年)5月場所まで、肘の怪我悪化により手術を受けるなどで、4場所連続休場に(途中休場2場所・全休2場所)。再起を挑んだ1985年7月場所で10勝を挙げて一度は復活するが、これが隆の里の千秋楽まで皆勤出場した最後の本場所となった。

翌9月場所は初日から2連敗を喫し3日目から途中休場。11月場所は4日目、関脇北尾(のち双羽黒)を攻めきることが出来ず逆転負け、1勝3敗となったこの時点で新聞各社は引退を疑わなかったが、現役続投で5日目から又も途中休場に。進退を掛けて臨んだ1986年(昭和61年)1月場所でも本来の力は回復せず、同場所初日に保志(のち北勝海)との取組では肩透かしで敗れたのを最後に、同場所限りで現役引退(当時の年齢33歳3か月)を表明。横綱在位は15場所(約2年半)だった。このように引退時期が遅れたのは本人の引退する意思にもかかわらず、師匠・二子山の許しが出なかったからと言われる[35]

本人が語ったところによると、隆の里の横綱時代に調子が良かった横綱は千代の富士1人しかおらず、そのため師匠に引退を申し出ても2度目までは「横綱は自分の事情だけで辞めるものではない」と諭されたという。その師匠も隆の里から「もう相撲が取れません」と3度目の引退申し出を受けた時に「わかった。春日野理事長に了解をもらってくるから」と言い、涙を流して愛弟子の引退申し出を了承したという[35]

優勝4回は横綱としてはあまり多くはないが、うち2回が全勝であった。最盛期の1983年3月場所〜1984年1月場所の6場所では優勝3回+次点3回で80勝10敗、短期間ながらライバルを圧し最強と見られた点、決まったら必勝の得意な型(右四つがっぷり)をもっていた点、時間をかけて出世した点などは、横綱・三重ノ海と共通する。ただし、大関時代前半には角番を繰り返し大関陥落も経験、2桁勝利がなかなか挙げられず「大関失格」と言われた時期もあった三重ノ海に対し、大関時代の隆の里は1場所を除いて全て10勝以上と終始安定していた点が異なる。

期間の長短はともかく、ライバルが不在がちの千代の富士に対抗した唯一の横綱、という評価も多く、また当時の九重親方(元横綱・北の富士)も隆の里の引退時、「千代の富士が今日あるのは、ライバルとしてここまでした、という隆の里の功績も大きい」という賛辞を贈った。

親方時代

鳴戸部屋創設

明治神宮に於いて奉納土俵入りを行った稀勢の里

引退後は年寄・鳴戸を襲名して、二子山部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1989年(平成元年)2月1日付で力櫻ら6人の内弟子を連れて二子山部屋から分家独立して鳴戸部屋を創設した。当初は二子山部屋と同じく杉並での部屋創設を希望したが、地価高騰により千葉県松戸に土地を見つけ、相撲部屋が身近になかったため、騒音があるのではと言ってきた近所の人に、「相撲部屋はうるさくない。」と実証データを示して説得して部屋開きにこぎつけた。若くして糖尿病にかかった影響で出世が遅れ、衰えが早かったが、親方としての手腕は闘病経験が存分に活かされていた。

特に大相撲解説では、分析力は角界随一と呼ばれるほど相撲知識が豊富であり、弟子を指導する時も他の親方のように、頭ごなしに叱り飛ばすような指導方法は取らず、全員に分かるまで諭すというやり方をとった。本場所中のここぞという勝負どころでは長時間にわたって作戦を細かく授ける周到さも見られた。[36]実際、2010年11月場所2日目に稀勢の里が白鵬の連勝を63でストップさせた一番に関しても、鳴戸はその前夜に「こっちは左を絞って白鵬の右差しを許さず、引いたところを一気に攻めろ。そのとき目の前に上手があれば、ありがたくいただけ」と稀勢の里に策を与えた[37]

弟子を勧誘する際も一部の親方のように、好条件やはったりで釣らず誠実に勧誘するのが方針であったという。但し、その一方では弟子に対する管理が厳しかった一面もあり、「独身者の預金通帳を女将に預けさせ、通帳の使用は許可制」、「弟子が5年間に20人以上引退した時期もある」などという一面も報道されたこともある[38]

自身が現役時代に糖尿病で苦しんだ経験を持つため、弟子から糖尿病患者は絶対に出さないと誓い、弟子の指導に食育を積極的に取り入れており、食品料理への造詣も深かった。部屋のちゃんこでも既成の食品はほとんど使わなかった[39]

引退後は審判委員を長く続けていたが、当時の現役年寄で千代の富士以前の横綱経験者が全て理事もしくは役員待遇委員なのに対し、隆の里は北の湖や千代の富士より年上にもかかわらず、役員待遇ではなかった。二所ノ関一門に横綱・大関経験者が多過ぎることや、横綱時代の実績の差も原因と見られる。

学生相撲出身者を一切採用せず、いわゆる"中卒叩き上げ"力士を数多く入門させ、若の里隆乃若稀勢の里の3力士を関脇へ昇進させる等、合計7人の関取を育てた手腕が評価されている。その一方で、近年では珍しく出稽古を禁じていることに関しては他の親方から疑問を呈されていた。2009年(平成21年)3月23日の理事長懇談会の席で、武蔵川理事長(横綱・三重ノ海)は「稀勢の里は出稽古に行かないと成長しない」という旨の発言をし、九重広報部長(横綱・千代の富士)もこれに同調した。これに対し鳴戸は

  • 巡業やVTRで相手の研究はできる[40]
  • 自分の考えは師匠の教えを継承している。
  • 自分が現役のときも出稽古にはほとんど行かなかった。
  • 関取は部屋の者を鍛える役目がある。
  • 数日出稽古に参加することで効果があるかは疑問[41]
  • 他の力士との馴れ合いを生む。[36]

という主張で反論している。 双方の意見に対し、元横綱・大鵬の納谷幸喜(当時既に協会を停年退職)は自身の連載[42]で、大鵬が関脇の頃若羽黒のもとへ出稽古したことや初代若乃花に巡業で稽古してもらったこと、横綱になってからは清國玉の海北の富士が稽古にきたことを引き合いに出し、武蔵川理事長らを支持した。

一方で弟子の若の里は、「出稽古は毎日、行きました。佐渡ケ嶽部屋に同じ松戸市だったから、幕下の頃から場所前に通っていましたね。親方の車で一緒に行ったかな、自転車で行ったこともある。出稽古禁止=鳴戸部屋とかね、稀勢の里が出稽古したから“出稽古解禁”だって記事を見たけど、出稽古禁止なんて一切ないんです。次第に部屋に関取が増えてきて、自分の部屋で稽古ができたから行かなくなっただけ。そうしたらいつの間にか『出稽古しない部屋だ』となって、そのあと『出稽古禁止』になってしまった。よく朝青龍関や白鵬関も来ていましたしね。松戸の部屋にも、地方場所もよく来ていましたよ。どちらかと言うと、みんなが来てくれる感じになっていったんです。全然だれも受け付けないわけじゃないんです」と発言している[43]

2009年3月場所後、若の里の負傷により稀勢の里は同部屋の関取との稽古が不可能になった。このため鳴戸は特例として同年4月24日に伊勢ヶ濱部屋への出稽古を認めた。稀勢の里によれば「23日に日馬富士が来てくれたから、今度はこちらから行け」と命じられたという。[44]この稽古以降は、2010年5月1日の二所ノ関一門の連合稽古まで出稽古は行われなかった[45]

2010年(平成22年)1月場所後に行われる日本相撲協会理事選に立候補する意思を示していたが、一門の緊急会合で対立候補となる貴乃花親方を支持する多くの親方(その中には同期入門の間垣親方(元2代若乃花)が含まれていた)が事実上破門させられたことを受け、立候補を断念した。大相撲八百長問題を受けて自由競争方式で新弟子を獲得することに対して「派閥や癒着が生まれ、それが八百長を生む温床になりかねない」「環境の良さなどを口説き文句にスカウトするため入門後に厳しく指導できないケースがある」と指摘し、大学や高校で実績を挙げた入門希望者の所属部屋を獲得希望する部屋による抽選で決める「新弟子ドラフト」制度を提言したが、同年11月に急死したこともありこれは実現されなかった[46][34]

2010年理事選辞退

2010年2月1日の日本相撲協会役員選挙に際し、二所ノ関一門からの3人目の理事として、鳴戸と貴乃花が立候補を表明。「4人が立候補して何が悪い」という貴乃花派の意見に対し、ベテラン親方らは「一門の総意に従わないのはおかしい」。同じ論調はかみ合わず、議長の放駒親方は多数決を選択した。挙手では「出ていけ」が大多数。貴乃花を支持した6人の親方が退席するという事態となった。票数を減らした同一門は、残る出馬希望者3人から、鳴戸が辞退し、現職の放駒(元大関魁傑)と二所ノ関(元関脇金剛)の理事選擁立を決定。鳴戸と一緒に上京して以来、無二の親友であり好敵手とされた間垣(元横綱2代目若乃花)が貴乃花を支持するという結果になった。

 

急逝

2011年(平成23年)11月6日、朝は稽古場に姿を現していたが[47]、夜になり体調不良を訴え、39度の高熱があったため、夫人と部屋付きの9代西岩(幕内・隆の鶴)、幕内・若の里に付き添われ、杖をつきながら自力で歩き、福岡市の福岡輝栄会病院に車で向かうとそのまま緊急入院。喘息などの治療をしていたが、午後9時ごろに容態が急変し集中治療室に移された[48]。関脇・稀勢の里が病院に駆けつけた際には意識不明の状態であった。翌11月7日午前9時51分、入院先の病院で家族に看取られながら[49]急性呼吸不全のため死去した[50][51]

晩年の鳴戸は現役時代より体重が30kg以上も増え、少々歩くと呼吸が荒くなることもあり、又本場所中に入院し、場所中の監察委員の業務を休んだこともあった。2000年ごろから心臓疾患があり、心臓発作時に服用する薬を常備するほどであった。睡眠時無呼吸症候群も併発したほか喘息に苦しんでおり、放駒理事長(当時)によると、最後は肺炎も起こしていたという[52]。鳴戸の主治医によると両脚に蜂窩織炎もあり、40度の高熱を出すこともあった[53]。若の里は「最後は2人きりで説教されながら、いろんなことを指導されたあとに、『俺ちょっと体調悪いから』と病院に行かれて、それで病院で亡くなってしまったんです。一番最後の会話は『お前は俺の言っていることは分かっていない』。その後で何か言われたかな…。とにかく説教されていなくなってしまわれたんです」と鳴戸との最後のやり取りを2017年のスポーツ紙の記事で語っている[54]

部屋の力士たちは7日の朝稽古中に師匠の訃報を知らされた。16時25分、病院にて部屋の若い弟子が白い布で師匠の姿を隠し、目を涙でにじませた稀勢の里、若の里、高安が190kgほどある師匠の亡骸を2分ほどかけて搬送車に乗せた[49]。当日夕方から福岡市の香椎典礼会館で急遽部屋主催のお別れの会が行われ[51]、鳴戸部屋所属力士や相撲協会関係者が列席した[55]。同時入門の間垣(2代若乃花)は、亡骸に向かいながら「お前何しているんだ、寝てる場合じゃないだろう。早く起きろ」と声を掛け、その後の記者会見では「自分が一歩早く(上位に)上がっても、必ず追い掛けてきた。とにかく根性があった。良い弟子に恵まれ、これからという時だったのに…」と語りながら悔し涙を浮かべた[56][57]。その後遺体は19時間かけ、翌8日夕方に千葉県松戸市の鳴戸部屋に戻った[58]。葬儀及び告別式は11日午前9時30分より松戸市の斎場にて行われ、夫人が喪主を務めた[59]

死後

11月8日には『週刊新潮』2011年11月3日号及び11月10日号の報道による鳴戸部屋での弟子暴行疑惑と十両・隆の山へのインスリン注射疑惑に関する緊急理事会を開催、鳴戸への処分が検討される予定であった[60]。当日の臨時理事会では、西岩の年寄・鳴戸襲名、鳴戸部屋の継承が承認された[61]。隆の山へインスリンを投与問題では、隆の山が鳴戸の糖尿病治療のため処方されたインスリンを自ら注射したことを認めた。

インスリンは世界アンチ・ドーピング機関の禁止薬物に指定されているが、日本相撲協会の規定では禁止されておらず[62]、本人が体重増量目的で師匠の了解を得ていたと説明。稀勢の里による師匠の暴行幇助疑惑は、親方の方を向かせるために力士をつかんだためと報告された。二人は聞き取り調査の際に放駒理事長から注意を受けた。鳴戸の弟子暴行疑惑に関しては、鳴戸が2006年に弟子を角材などで殴打したと認めていたが、鳴戸本人の急死により調査は打ち切りとなった。

相撲協会は鳴戸部屋に再発防止を命じ、各部屋にも通達を出すとした。しかし、監督官庁である文部科学省中川正春文科相は、閣議後に「調査に影響が出ると思うが、相撲界全体で暴力沙汰の話が出てこないように正常化することが大事だ」述べた。相撲協会は後日、文科省に調査報告書を提出するが、中川文科相は「相撲協会には調査と報告を求めていた。引き続き調査をしてもらう」と真相究明を求めている[63]。また、九州場所の際の恒例である、歴代横綱が参集して会食する『横綱会』はこの一連の事態を受けて中止された[64]

九州場所では稀勢の里が大関昇進をかけており、鳴戸は大関昇進を見越して昇進伝達式用に紋付羽織袴を新調したばかりで、まだ1度しか袖を通していなかったそうである。部屋の力士は急遽名跡変更をした西岩改め14代鳴戸の下で場所に臨み、稀勢の里は大関昇進を決める。場所後、鳴戸の遺影の前で伝達式が行なわれた。

戒名は隆昌院忍岳俊道居士。横綱経験者だが理事経験がないため、両国国技館での協会葬は行われず、12月14日、二所ノ関一門による一門葬が千葉県松戸市内の鳴戸部屋で行われた。

2012年9月10日、2011年10月下旬に問題となった鳴戸や他の力士からの暴行や行司からのセクハラを受けた問題に際し、鳴戸部屋に所属していた18歳と22歳の元力士が、行司と鳴戸遺族に対し2200万円の損害賠償要求を千葉地裁松戸支部に提訴した。第1回口頭弁論は10月29日[65]。裁判は2013年12月に部屋の名称が田子ノ浦部屋へと改称されて以降も続いていたが、2014年5月16日に千葉地裁松戸支部は原告の請求を棄却している[66]

2017年3月場所には稀勢の里が横綱に、同年7月場所には高安が大関にそれぞれ昇進している[67]

エピソード

土俵上の記録

  • 十両時代には勝った翌日には負け、その翌日には勝つ(ヌケヌケと呼ばれる)というパターン「○●○●○●○●○●○●○●○」で8勝7敗とした場所(1975年1月場所)があり、これは相撲歴を辿っても珍しい星取りである。隆の里は星の取り方を見ても全体的にバラツキが目立つ方であり、特に1970年代後半(昭和50年代前半)は、幕内でもそれに近く、1つ2つ星が違えばヌケヌケとなるような成績を幾度も出していたほどである。
  • 大関から横綱に昇進したときの成績を見ると、15戦全勝(大関、初優勝)の後、10勝5敗と綱取りを逃しているものの、翌場所は11勝4敗→12勝3敗→13勝2敗→14勝1敗(優勝)→15戦全勝(新横綱、優勝)と1勝ずつ増やしながら全勝に辿り着いていて、これもまた珍しいものである。しかしその後は13勝2敗→13勝2敗(優勝)→11勝4敗→11勝4敗→10勝5敗→10勝5敗とだんだん降下している。その後、1984年11月場所からはほとんど途中休場と全休の繰り返しとなり、最後の皆勤場所となった1985年7月場所も10勝5敗だった。それでも新横綱で15戦全勝という偉業を成したことは、大力士と呼ばれた過去の横綱にもないことで、このときの隆の里が最強とも言われた。なお、新横綱全勝優勝は前場所に続く優勝で連覇達成の他に前年からの9月場所連覇という2つの連覇も同時に達成している。特に9月場所連覇はどちらも全勝優勝である。

土俵の鬼イズム

  • 出世前は、師匠・二子山の付け人を長きにわたって務めていた。師匠である「土俵の鬼」を尊敬し、憧れ、偉大な存在として仰ぎ見続け、弟子たちのなかでも一番師匠を尊敬し、相撲界の親方としての道を、同じように歩みたいと思い、弟子の指導も部屋の運営も、若乃花イズムをそのまま受け継いでいた[68]
  •  二子山へ同郷同時入門した2代若乃花が引退表明した時、一番寂しかったのは、明日からもう一緒に稽古出来ないと思ったことだったという。土俵の上ではよくケンカしたが、土俵を離れたら心の底に流れているものは同じで、一緒に入門して苦しさを共有して乗り越えた仲と述べている[69]
  • 阿佐ヶ谷勢全盛期の力士として、現役時代、両国勢に負けたくないという気持ちが強かったと述べている[70]
  • 同門・阿佐ヶ谷勢の後輩である第62代横綱大乃国は引退会見で、現役時代の思い出の一番として、二子山部屋への出稽古で若い頃から稽古をつけてくれた同門の先輩横綱である隆の里に初めて勝った相撲をあげた[71]
  • 青森から2代若乃花とともに上京し、二子山部屋に入門して最初の食事が「すき焼き」だった。若の里など弟子が入門した時の最初の食事と元旦は「すき焼き」にしていた[72]
  • 鳴戸部屋では、新弟子の仕事である洗濯時に、平成の時代でも洗濯機を使わず、洗濯板で手洗いさせていた[73]
  • 弟子が関取に昇進すると、師匠を見習い、決まって臙脂色の締め込みを自費で贈っていた。
  • テーピングに関しては「敗残兵じゃないんだから」と師匠・二子山同様に好まず、弟子たちにもよほどのことがない限りテーピングは許さなかった[74]
  • 隆乃若によると、本場所や稽古が終わっても、鳴戸部屋の力士はあまり遊び歩かずに、トレーニングジムにこもって、筋トレに精出すことが多かった。外で遊んでたら、親方が求める厳しい稽古についていけなかったからだという[75]
  • 部屋の師匠としては後の出世頭である稀勢の里ですらも信用し切ることはなく、むしろ「私が少しでも目を離すと、あいつの性格では安易な方向へと流れてしまうんだ」と厳しい目を向けていた[76]
  • たとえ相手が後輩であっても先に挨拶をするように心かけていた。大関、横綱と言えば相撲の世界では最高の地位だが、番付最上位者に声をかけられた若手力士はみなキョトンとしていた。それは一つの戒めとして、のぼせない、天狗にならない様にするためだったという[77]
  • 大関候補として期待がかかっていた1981年(昭和56年)7月には『糖尿病に勝った!』(立風書房。のち学習研究社に合併)という本を出している。「鍛錬とは、頭のてっぺんから足の先まで、肉体を覆っている細動脈の先端にまで細心の注意を行き届かせないといけない。」と病と闘い克服した自らの稽古哲学として述べている[78]

マスコミ嫌いの読書家

  • 現役時代からマスコミ嫌いで知られ、地方場所では支度部屋を使わず、隣にあった警備室に閉じこもり、一切取材を受け付けなかったこともあった[79]。英字紙で「スポーツ新聞の記者は勉強していない。」と発言して記者と冷戦状態になったこともある[80]。旧鳴戸部屋晩年期は後援会関係者や報道陣以外は稽古を見学することが難しく[81]、隆の鶴が名跡変更と部屋移転により田子ノ浦部屋として新体制に転換(詳しくは本人の項へ)するまで少なからず報道規制の措置を取ることがあった。部屋の稽古方法を「非合理的である」と指摘した地方紙に激怒して猛抗議し、それが通信社の配信と知ると今度は猛然と通信社に抗議して、結果として相手方に「このような記事は掲載しない」と謝罪させてしまうような頑迷さも伝えられている[38]
  • マスコミ嫌いのきっかけの一つに、1981年(昭和56年)3月場所で、手術したため入院先の病院から支度部屋に顔を出さず場所へ通った時に、誤解したマスコミから「行方不明事件」と厳しい記事を書かれた経験がある。手術直後で長い相撲を取れないので首投げで勝つと「大関の声がかかろうとする人が、あのような相撲で勝つとは。」と批判記事を書かれた。のちに「自分の人生をかけた場所でしたので、マスコミに人格を疑うコメントを書かれ、本当に憤りを感じた。」と語っている[82]
  • 現役引退後は審判委員に就任するまで、NHKサンデースポーツの中で「大相撲・鳴戸親方のこの一番」を担当し、司会の中村克洋アナと実際に取り組みの体制になりながら解説をして好評だった。実況放送でも、力士の体型を「背中を丸めてカタツムリみたいな恰好で」「首をちじめて亀のような恰好」「床の間の置物のようにゴツゴツした筋肉」といった素人にもわかりやすいきめ細かい表現、勝負ばかりでなく心のやり取りを入れながら理路整然とした解説を披露して、無口な横綱と思っていた視聴者を驚かせた[83]。また、サンデースポーツでは引退後の力士の健康管理をテーマに、「元横綱隆の里減量作戦」というコーナーが設けられ、定期的に体重やウエストサイズを公表していた時期もあった。
  • 角界でも屈指の読書家で知られ、子どもの頃、『レ・ミゼラブル』を読んで、ジャン・バルジャンの生涯に涙し、『トムソーヤの冒険』『リンカーン物語』『伊豆の踊子』などの文学本や歴史の写真集、偉人伝を読みあさっていた。大相撲の解説には、読書で培われた知識の裏打ちを感じさせる格調の高さがあったと、NHKの実況アナウンサーだった杉山邦博が証言している[84]
  • 同郷同時入門した2代若乃花は「自分(2代若乃花)が週刊平凡週刊明星を読んでいるとき、隆の里は文藝春秋プレジデントを愛読し、NHKのニュースセンター9時を見終わったら寝て、早朝から稽古に励んでいた。」と語っている[85]。『歴史への招待』も楽しみに観ていたという[86][87]
  • 草野仁は、「角界の親方衆には珍しい読書家で、インテリジェンスに溢れる方でもありました。相撲界の古い体質を嘆くことも多く、ご自身なりの前向きな協会改革案もいくつもお持ちのようでした。」と証言している[88]。実は大学に進学し経済を学びたいという希望があり、取材に来た記者が経済学部出身と聞くと質問攻めし、質問された記者は専門書が並ぶ蔵書を見て驚いたという。
  • 師匠二子山の夫人は、難しい医学書を読破し、様々な治療を試して糖尿病を克服した隆の里の姿を、つい亡き息子の生まれ変わりなのではと思いながら見守り、隆の里は「ドクトル横綱」であると手記で述べた[89]
  • 『相撲しか知らない人間になるな』と弟子に教育していた。「色んな人と食事に出かけても、相撲の話しかできない人間になるなと言われました。師匠は色々な本を読んでいましたね。一番好きだったのは歴史じゃないですか。中国が大好きだった」と弟子の若の里や隆乃若が語っている[90][91]
  • 闘病や料理・食育の他に部屋の旅行にも勉強家である面が反映されており、部屋の旅行には「その場限りの享楽だけ、後に何も残らないのはもったいない。」という理由であちこちの名所旧跡、博物館などを巡り歩くものを催したという[92]。部屋の衆と出かけた西安旅行のエピソードについて「事前に西安について勉強するために中国の映画を見せ、弟子たちが寝ないようにアイスやお菓子を用意したが、映画が始まってから後ろを振り向くとアイスを咥えて寝ている弟子がいてがっかりした」「兵馬俑に行った際にガイドが一生懸命説明しているのに一番後ろの席で花札をしている弟子がいたので、頭にきてマイクで殴ってやった」などと事前に行った勉強会や現地での苦労が語られた[93]
  • 宮本武蔵の言葉である『鍬(くわ)も剣なり』という言葉を好んだ。普段から、これは何の効果、意味があるんだと、掘り下げて考える力が湧くことが重要という[94]
  • 弟子の高安がフィリピン系日本人であることからマニー・パッキャオに興味を持っていたようであり、稽古の合間に話題にすることが多かった[95]
  • 部屋の稽古場に置いてあった腕力強化用の白い石には「自分の頭で考えろ」という隆の里の指導訓が書かれていた[96]

食育

  • 普通の相撲部屋ではチャンコ長がその日の献立を決めるが、鳴戸部屋では親方自ら決めた。まず弟子の前でヘルシーでおいしいちゃんこを自分が作ってみせて、見本を示した[97]
  • 毎日のちゃんこも自身が納得するまで何度も力士達に作り直させていたほどこだわりが強く、うどんラーメンも、麺から力士たちが打つほどであった。[98]おでんの練り物も魚をすり潰して揚げるなど、あくまで手作りにこだわった[92]
  • NHKの料理番組「きょうの料理」の講師([魚料理)を務めたほか、2003年(平成15年)12月には著書『親方はちゃんこ番』(ポプラ社 ISBN 978-4591078167)を上梓している。
  • 白星に繋がり験が良いからと、全国から差し入れられた卵を好んで料理に使ったと言い[92]、ある時期に3000個の卵が届けられた際にはこれを1個たりとも粗末に扱いたくないからと、卵料理のレシピを充実させた。ちゃんこ鍋のメニューは多彩で、手書きのレシピは漫画週刊誌ほどの厚さになった[92]
  • 食事は最高のコミュニケーションであり、きちんとした食事を作っている家庭ならそう曲がった子供は育たないと述べている。入門した弟子には、「お母さんが作った料理で一番好きなものは何か」と必ず聞いていた[99]
  • 弟子をスカウトに行く時は、「親方の地位や部屋の格式ではなく、目の前にいる親方がどのくらい人間として信頼できるかがポイントである。」と述べており、親に対しては、その土地を下調べしてスカウトに行った土地の人しか知らない食事の話題をした。それは、自分たちの土地の愛すべき食事の話題なら心を開き、自分たちのことを調べていてくれたと考えてもらえたからである[100]

主な成績

通算成績

  • 通算成績:693勝493敗80休 勝率.584
  • 幕内成績:464勝313敗80休 勝率.597
  • 横綱成績:95勝42敗75休 勝率.693
  • 大関成績:106勝29敗 勝率.785
  • 現役在位:106場所
  • 幕内在位:58場所
  • 横綱在位:15場所
  • 大関在位:9場所
  • 三役在位:10場所(関脇8場所、小結2場所)
  • 連勝記録:21(1983年7月場所13日目 - 1983年11月場所3日目)
  • 年間最多勝:1983年(78勝12敗)
  • 連続6場所勝利:80勝(1983年3月場所 - 1984年1月場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:20場所(1981年7月場所 - 1984年9月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:13場所(歴代10位タイ、1982年9月場所 - 1984年9月場所)
  • 幕内連続12勝以上勝利:6場所(1983年3月場所 - 1984年1月場所)

各段優勝

  • 幕内最高優勝:4回(全勝2回)(1982年9月場所,1983年7月場所,1983年9月場所,1984年1月場所)
  • 十両優勝:1回(1979年3月場所)

三賞・金星

  • 三賞:7回
    • 殊勲賞:2回 (1980年9月場所,1980年11月場所)
    • 敢闘賞:5回 (1977年11月場所,1980年7月場所,1980年9月場所,1981年11月場所,1982年1月場所)
  • 金星:2個(輪島1個、北の湖1個)

場所別成績

隆の里俊英
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1968年
(昭和43年)
x x x (前相撲) 西序ノ口10枚目
5–2 
東序二段43枚目
1–6 
1969年
(昭和44年)
東序二段66枚目
4–3 
西序二段43枚目
4–3 
西序二段23枚目
3–4 
西序二段28枚目
2–5 
西序二段45枚目
6–1 
西三段目97枚目
4–3 
1970年
(昭和45年)
西三段目81枚目
2–5 
西序二段6枚目
4–3 
東三段目75枚目
3–4 
西序二段2枚目
6–1 
西三段目50枚目
5–2 
西三段目22枚目
4–3 
1971年
(昭和46年)
西三段目11枚目
3–4 
東三段目20枚目
4–3 
東三段目5枚目
6–1 
東幕下34枚目
3–4 
東幕下41枚目
4–3 
西幕下36枚目
5–2 
1972年
(昭和47年)
東幕下23枚目
5–2 
東幕下11枚目
2–5 
東幕下26枚目
3–4 
東幕下30枚目
3–4 
西幕下38枚目
5–2 
東幕下24枚目
4–3 
1973年
(昭和48年)
東幕下19枚目
6–1 
西幕下3枚目
3–4 
西幕下6枚目
4–3 
東幕下5枚目
3–4 
西幕下7枚目
3–4 
西幕下12枚目
3–4 
1974年
(昭和49年)
西幕下19枚目
5–2 
東幕下11枚目
4–3 
西幕下7枚目
5–2 
東幕下3枚目
4–3 
西幕下筆頭
4–3 
東十両13枚目
10–5 
1975年
(昭和50年)
東十両3枚目
8–7 
東十両2枚目
10–5 
西前頭13枚目
7–8 
西前頭14枚目
6–9 
東十両2枚目
3–12 
東十両12枚目
8–7 
1976年
(昭和51年)
西十両8枚目
8–7 
西十両6枚目
9–6 
東十両2枚目
9–6 
西前頭12枚目
4–6–5[101] 
東十両5枚目
9–6 
西前頭12枚目
10–5 
1977年
(昭和52年)
西前頭4枚目
8–7 
西小結
4–11 
西前頭7枚目
7–8 
東前頭8枚目
8–7 
東前頭6枚目
5–10 
西前頭11枚目
11–4
1978年
(昭和53年)
東前頭4枚目
4–11 
東前頭10枚目
9–6 
西前頭4枚目
8–7 
東前頭筆頭
4–11 
東前頭8枚目
9–6 
西前頭3枚目
2–13 
1979年
(昭和54年)
西前頭12枚目
5–10 
東十両2枚目
優勝
11–4
東前頭11枚目
10–5 
西前頭2枚目
8–7 
西関脇
8–7 
東関脇
6–9 
1980年
(昭和55年)
西前頭筆頭
4–11 
西前頭7枚目
7–8 
東前頭9枚目
6–9 
東前頭12枚目
12–3
西前頭筆頭
13–2
西関脇
11–4
1981年
(昭和56年)
西関脇
9–6 
東関脇
10–5 
東関脇
6–9 
西前頭筆頭
9–6 
西張出小結
10–5 
東関脇
11–4
1982年
(昭和57年)
東関脇
12–3
西大関
11–4 
東大関
11–4 
東大関
9–6 
西大関
15–0 
東大関
10–5 
1983年
(昭和58年)
東大関
11–4 
西大関
12–3 
東大関
13–2 
東大関
14–1 
西横綱
15–0 
東横綱
13–2 
1984年
(昭和59年)
西横綱
13–2 
東横綱
11–4 
東横綱
11–4 
西横綱
10–5 
西横綱
10–5 
東横綱
0–3–12[102] 
1985年
(昭和60年)
東張出横綱
1–3–11[103] 
西横綱
休場
0–0–15
西横綱
休場
0–0–15
西横綱
10–5 
西横綱
0–3–12[104] 
西横綱
1–4–10[105] 
1986年
(昭和61年)
西横綱
引退
0–2–0
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴

  • 高谷 俊英(たかや としひで)1968年7月場所 - 1971年1月場所
  • 隆ノ里 俊英(たかのさと -)1971年3月場所 - 1979年5月場所[106]
  • 隆の里 俊英(たかのさと -)1979年7月場所 - 1986年1月場所

年寄変遷

  • 鳴戸 俊英(なると としひで)1986年1月-2011年11月

著書

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p22
  2. ^ a b 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
  3. ^ 『相撲』2013年11月号34頁の記述によって、元は左四つだったが怪我を理由に仕方なく右四つに変えたことが明らかにされている。
  4. ^ 『踏ん張りを生んだ、遠い古里「おしん横綱」隆の里物語』(朝日新聞select)P4
  5. ^ 『踏ん張りを生んだ、遠い古里「おしん横綱」隆の里物語』(朝日新聞select)P6
  6. ^ a b c d e f g 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)125ページから126ページ
  7. ^ a b c d 糖尿病を克服した千代の富士キラー 隆の里 AllAbout 2013年1月25日
  8. ^ a b c d e f g Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p88-90
  9. ^ 『踏ん張りを生んだ、遠い古里「おしん横綱」隆の里物語』(朝日新聞select)P8
  10. ^ 杉山邦博『土俵の鬼三代』1992年、講談社文庫 pp.32-33
  11. ^ a b 週刊女性2015年12月22日号
  12. ^ 「【連載 名力士たちの『開眼』】横綱・隆の里俊英 編 ピンチをチャンスに――なりふり構わぬ執念と努力[その2]」ベースボールマガジン 2018年4月6日
  13. ^ 『糖尿病に勝った』P17
  14. ^ 『糖尿病に勝った』P32
  15. ^ 『糖尿病に勝った』P32
  16. ^ 当時関取未経験だったにも拘らず師匠からここまでの協力が得られた理由は、隆ノ里が人一倍稽古熱心だったためであるとされる。また二子山親方は現役時代から持病として糖尿病を抱える力士(例えばよくかわいがっていた弟弟子の若秩父等)を何人も見ていたために病を理解できていたことが影響したとする資料もある。
  17. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年6月号9ページ
  18. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年6月号10ページ
  19. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年6月号9頁
  20. ^ 『親方はちゃんこ番』P158
  21. ^ 相撲45号P154「好敵手列伝 隆の里VS若乃花
  22. ^ 金城麒麟児は早生まれなので、隆の里と同学年。
  23. ^ 『大相撲中継』2017年11月18日号 pp.74-75.
  24. ^ 杉山邦博『土俵の鬼三代』1992年、講談社文庫 pp.146-147
  25. ^ 朝日新聞1983年(昭和58年)7月18日3面
  26. ^ 日刊スポーツ 2017年6月1日 紙面
  27. ^ 『週刊現代』1982年3月 24号 p26~30二子山勝治親方「わが弟子若乃花と隆の里の秘密」
  28. ^ 杉山邦博『土俵の鬼三代』1992年、講談社文庫 p85
  29. ^ 二子山親方が、型の保存に加え、腰高を矯正させるために指示したという(Sports Graphic Number PLUS『疾風!大相撲〜新時代の力士たち〜』p.89-90「隆の里「貫いたジョッパリ魂」」より)
  30. ^ 読売新聞1983年7月18日22面
  31. ^ NHKホームページ 「大河ドラマの人気主人公特集 3 戦国の名将 徳川家康」
  32. ^ 弟子である稀勢の里も琴風の弟弟子の琴奨菊に腰高のところを低い位置からがぶりよられることが多く、苦手にしていた。
  33. ^ 小坂秀二『大相撲ちょっといい話』1995年、文春文庫 pp.214-216
  34. ^ a b 『大相撲ジャーナル』2017年6月号11ページ
  35. ^ a b 【隆の里から稀勢の里へ】ボロボロになるまで辞められなかった師匠・鳴戸親方 散り際を問われる横綱の宿命 (2/2ページ) ZAKZAK 2017.01.28
  36. ^ a b 『相撲』2017年4月号20-21頁
  37. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年6月号12ページ
  38. ^ a b 鳴戸親方の指導はコワモテ暴力の嵐 アサ芸+ 2011年11月10日
  39. ^ 『大相撲ジャーナル』2014年12月号21頁
  40. ^ 「武蔵川理事長 稀勢の里に「出げいこしろ」」 スポーツ報知 2009年3月24日紙面
  41. ^ 「理事長が稀勢に「出げいこしろ」/春場所」 日刊スポーツ 2009年3月24日紙面
  42. ^ 「土評 横綱に勝つため把瑠都も出稽古だ」日刊スポーツ 2009年3月25日紙面
  43. ^ 受け継がれた“隆の里魂” 西岩親方が語る師匠の教え スポーツ報知 2017年11月4日
  44. ^ 「稀勢の里特別に出げいこ「解禁」」日刊スポーツ 2009年4月29日紙面
  45. ^ 稀勢の里“肩すかし”35番/大相撲 サンケイスポーツ 2010年5月2日5時01分配信
  46. ^ 新弟子ドラフト 角界再生へ鳴戸親方提言 nikkansports.com 2011年2月28日8時1分 紙面から
  47. ^ 元横綱隆の里・鳴戸親方が急死 YOMIURI ONLINE 2011年11月7日閲覧
  48. ^ 読売テレビ情報ライブ ミヤネ屋』 2011年11月8日放送
  49. ^ a b 「おしん横綱」鳴戸親方、急性呼吸不全のため急死
  50. ^ 鳴戸親方、前日朝まで稽古で指導 サンケイスポーツ 2011年11月7日閲覧
  51. ^ a b 疑惑の渦中で…鳴戸親方が急死 ぜんそくで入院中 スポーツニッポン 2011年11月7日閲覧
  52. ^ 鳴戸親方 心臓患い、ぜんそくも…健康不安に心労重なる? スポーツニッポン 2011年11月7日閲覧
  53. ^ 鳴戸親方急死 心臓病に肺炎…ストレスも スポーツニッポン 2011年11月8日閲覧
  54. ^ 受け継がれた“隆の里魂” 西岩親方が語る師匠の教え 2017年11月4日16時0分 スポーツ報知(2017年11月5日閲覧)
  55. ^ TBSテレビNスタ』 2011年11月7日放送
  56. ^ 悲しみに暮れる角界関係者 福岡で急きょ「お別れ会」 スポーツニッポン 2011年11月7日閲覧
  57. ^ 「早く起きろ」間垣親方は声震わせた… 日刊スポーツ 2011年11月7日閲覧
  58. ^ 故鳴戸親方が“無言の帰宅” 19時間かけ松戸市の部屋に スポーツニッポン 2011年11月8日閲覧
  59. ^ 【鳴戸親方死去】故鳴戸親方の告別式は11日 MSN産経ニュース 2011年11月8日閲覧
  60. ^ 緊急理事会へ 鳴戸親方の週刊誌報道 日刊スポーツ 2011年11月7日閲覧
  61. ^ 西岩親方が鳴戸部屋継承 インスリン、暴行疑惑は調査打ち切り スポーツニッポン 2011年11月8日閲覧
  62. ^ インスリン注射:鳴戸部屋の隆の山が認める 協会聴取に 毎日jp 2011年11月8日閲覧
  63. ^ 鳴戸親方急死であっさり幕引き…暴行疑惑調査打ち切り スポーツニッポン 2011年11月9日閲覧
  64. ^ 横綱白鵬も故鳴戸親方悼む「話聞きたかった」 スポーツニッポン 2011年11月8日閲覧
  65. ^ 鳴戸部屋でセクハラ・暴行「関取の夢断たれた」 元力士ら2200万円賠償求め提訴 2012年9月29日閲覧
  66. ^ 元力士の訴え認めず=千葉地裁松戸支部 時事通信 2014年5月16日記事
  67. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p41
  68. ^ 相撲春秋「初代若乃花と隆の里の志を継ぐ――稀勢の里30歳、決意の横綱挑戦へ」 NumberWeb 2016年7月9日
  69. ^ 週刊宝石1983年8月26日号「間垣親方(元若乃花)の"舌戦"十五番勝負今週の対戦相手隆の里俊英(第59代新横綱)」
  70. ^ 朝日新聞1988年(昭和63年)5月4日(火)13面「のってる阿佐ヶ谷勢」
  71. ^ 1991年(平成3年)7月15日(月)朝日新聞
  72. ^ 西岩忍 (2016年5月30日). 若の里自伝「たたき上げ」. 大空出版 
  73. ^ 西岩忍 (2016年5月30日). 若の里自伝 たたき上げ. 大空出版 
  74. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号p8-12
  75. ^ 日刊ゲンダイ「元関脇・隆乃若さん 資格取得&講演活動で“相撲道”邁進中」2016年3月28日
  76. ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p.23
  77. ^ 「鳴戸部屋〜鳴戸俊英親方」」
  78. ^ 『糖尿病に勝った』P214
  79. ^ 鳴戸親方を悼む、今村忠編集委員 サンケイスポーツ 2011年11月8日閲覧
  80. ^ 週刊文春1981年23号P146『隆の里が英字紙で問題発言「スポーツ記者はみなバカだ」』
  81. ^ 稀勢の里も期待 大物小学生 nikkansports.com 2013年12月31日9時23分 紙面から
  82. ^ 杉山邦博『土俵の鬼三代』1992年、講談社文庫 pp.146-147
  83. ^ 杉山邦博『土俵の鬼三代』1992年、講談社文庫 pp.196-197
  84. ^ 杉山邦博『土俵の鬼三代』1992年、講談社文庫 pp.196-197
  85. ^ 週刊宝石1983年8月26日号「間垣親方(元若乃花)の"舌戦"十五番勝負今週の対戦相手隆の里俊英(第59代新横綱)」
  86. ^ サンデー毎日1982年12月5日号「綱盗り隆の里の読書と練習きまじめ生活」
  87. ^ 相撲45号P154「好敵手列伝 隆の里VS若乃花
  88. ^ 「草野仁 故鳴戸親方は「読書家でインテリジェンス溢れる方」 週刊ポスト 2011年11月25日号
  89. ^ 文藝春秋1983年(昭和58年)9月号「ドクトル横綱 隆の里」
  90. ^ 受け継がれた“隆の里魂” 西岩親方が語る師匠の教え スポーツ報知 2017年11月4日
  91. ^ 日刊ゲンダイ「元関脇・隆乃若さん 資格取得&講演活動で“相撲道”邁進中」2016年3月28日
  92. ^ a b c d 『大相撲ジャーナル』2017年6月号13ページ
  93. ^ 『相撲』2012年3月号91頁
  94. ^ 「いつも山頂を 亡き師匠が語った稀勢の里との秘話」 日本経済新聞 2017年1月25日
  95. ^ 公益財団法人日本相撲協会監修『ハッキヨイ!せきトリくん わくわく大相撲ガイド 寄り切り編』18pから19p
  96. ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春愁、2017年4月10日)p14-16
  97. ^ 日刊ゲンダイ「元関脇・隆乃若さん 資格取得&講演活動で“相撲道”邁進中」2016年3月28日
  98. ^ 稀勢の里は笑わない。白鵬に応えた言葉の背景とは。 Number Web 2016/06/02 11:10
  99. ^ 『親方はちゃんこ番』P214
  100. ^ 『親方はちゃんこ番』P100
  101. ^ 右肩関節挫傷により10日目から途中休場
  102. ^ 左肘関節炎により3日目から途中休場
  103. ^ 両変形性肘関節症・右頸肩腕症候群により4日目から途中休場
  104. ^ 右膝関節内障に伴う水腫により3日目から途中休場
  105. ^ 右変形性膝関節症に伴う水腫により5日目から途中休場
  106. ^ 兄弟子・貴ノ花の四股名候補であった「隆ノ花」をベースにして命名。

関連項目

外部リンク