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[[19世紀]]以来、島からは長年の侵食や盗掘にもかかわらず、度々[[古代ギリシャ]]時代の[[ネクロポリス]]が発掘されており、アルカイック期の壺や彫刻など貴重な宝物が数多く出土している。
[[19世紀]]以来、島からは長年の侵食や盗掘にもかかわらず、度々[[古代ギリシャ]]時代の[[ネクロポリス]]が発掘されており、アルカイック期の壺や彫刻など貴重な宝物が数多く出土している。


中世になると、ベレザーニ島は[[ドニエプル川]]河口域の戦略的要地となった。[[ヴァリャーグ人]]とギリシャ人はこの地で最初に接触し、以来[[キエフ大公国]]時代には[[ヴァリャーグからギリシへの道]]の重要中継地として栄える。
中世になると、ベレザーニ島は[[ドニエプル川]]河口域の戦略的要地となった。[[ヴァリャーグ人]]とギリシャ人はこの地で最初に接触し、以来[[キエフ大公国]]時代には[[ヴァリャーグからギリシへの道]]の重要中継地として栄える。
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[[ベレザーニ・ルーンストーン]]として知られる南[[ウクライナ]]地域唯一の[[ルーン文字]]石碑が[[1905年]]に発見され、現在は[[オデッサ歴史博物館]]に展示されている。この石碑は[[ゴットランド島]]のヴァリャーグ人商人の墓石とされており、「グラニが盟友カールのため製作した」と記されている。<ref>Entry X UaFv1914;47 in Rundata 2.0</ref>



2020年6月26日 (金) 23:14時点における版

ベレザーニ島
現地名:
Березань
ベレザーニ島の遠景
地理
場所 黒海
島数 1
面積 0.29 km2 (0.11 sq mi)
長さ 0.9 km (0.56 mi)
0.32 km (0.199 mi)
行政
ムィコラーイウ州
人口統計
人口 無人(2001年時点)
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ベレザーニ (キリル文字: Березáнь、古代ギリシア語: Borysthenes、トルコ語: Pirezin) は、黒海の北岸に沿って浮かぶウクライナ。南北900m、東西320mの細長い小島で、2㎞ほどの浅瀬大陸と隔てられている。

歴史

ベレザーニ島には紀元前7世紀半ば、黒海北岸で最初のギリシア人植民市ボリュステネス)が建設された。スキュティアとの小麦貿易で栄え、紀元前5世紀にはヘロドトスが黒海北方の情報収集のため訪れたが、オルビアの発展と共に紀元前5世紀の終わりにはほとんど放棄された。[1][2] 19世紀以来、島からは長年の侵食や盗掘にもかかわらず、度々古代ギリシャ時代のネクロポリスが発掘されており、アルカイック期の壺や彫刻など貴重な宝物が数多く出土している。

中世になると、ベレザーニ島はドニエプル川河口域の戦略的要地となった。ヴァリャーグ人とギリシャ人はこの地で最初に接触し、以来キエフ大公国時代にはヴァリャーグからギリシアへの道の重要中継地として栄える。 ベレザーニ・ルーンストーンとして知られる南ウクライナ地域唯一のルーン文字石碑が1905年に発見され、現在はオデッサ歴史博物館に展示されている。この石碑はゴットランド島のヴァリャーグ人商人の墓石とされており、「グラニが盟友カールのため製作した」と記されている。[3]

ルーシ・ビザンツ戦争ではキエフ大公国と東ローマ帝国の間で争奪されたが、944年ルージ・ビザンツ条約によって夏季はキエフ側が、冬季はケルソンなどビザンツの植民市が使用することに決着した。後の971年にキエフのスヴャトスラフ1世は再びビザンツを攻撃しベレザーニ島にも出兵したが、ドロストロンの包囲戦で惨敗を喫し撤退した。

その後、16世紀から17世紀にかけて、ザポロージャ・コサッククリミア・タタール人オスマン帝国との戦いの中でベレザーニ島を港として復興させ、オチャーコフ攻囲戦ロシア帝国がオスマン帝国を破ると、ベレザーニ島はノヴォロシアに編入されロシア帝国の一部となった。

1906年3月、ロシア第一革命オチャーコフで蜂起したピョートル・シュミット中尉の処刑がこの島で行われている。

脚注

  1. ^ エウセビオスの『年代記』によれば、ボリュステネス市は紀元前646年にミレトスによって建設された。
  2. ^ Treister, Michail J.; Vinogradov, Yuri G. "Archaeology on the Northern Coast of the Black Sea", American Journal of Archaeology, Vol. 97, No. 3. (1993), p. 538.
  3. ^ Entry X UaFv1914;47 in Rundata 2.0

参考文献

  • Krÿzhitskii, Sergei D. "On the Types of Houses on the Island of Berezan", Ancient Civilizations from Scythia to Siberia, Vol. 11, Issue 3/4. (2005), pp. 181–197.
  • Noonan, Thomas S. "The Grain Trade of the Northern Black Sea in Antiquity", American Journal of Philology, Vol. 94, No. 3. (1973), pp. 231–242.
  • Solovyov, Sergei L. Ancient Berezan: The Architecture, History and Culture of the First Greek Colony in the Northern Black Sea (Colloquia Pontica; 4). Leiden: Brill Academic Publishers, 1999 (hardcover, ISBN 90-04-11569-2).
  • Solovyov, Sergey L. "Berezan Island: The Main Features for Archaeology", Bilkent University. The Department of Archaeology & History of Art Newsletter, No. 3. (2004), pp. 17–19.
  • Solovyov, Sergei L. "Monetary Circulation and the Political History of Archaic Borysthenes", Ancient Civilizations from Scythia to Siberia, Vol. 12, Issue 1/2. (2006), pp. 63–75.