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「延子内親王」の版間の差分

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'''延子内親王'''(えんし/のぶこないしんのう、正応4年(1291年) - 没年不詳)は、[[鎌倉時代]]後期の[[皇族]]・[[女院]]。女院号は'''延明門院'''(えんめいもんいん)。[[伏見天皇]]の第4皇女。母は[[左大臣]]・[[洞院実雄]]の娘・[[洞院季子|季子]](顕親門院)。[[後伏見天皇]]の異母妹。[[花園天皇]]の同母姉。同母の兄弟姉妹には他に[[じゅ子内親王|璹子内親王]](朔平門院)、[[寛性法親王]]([[仁和寺]]御室)がいる。
'''延子内親王'''(えんし/のぶこないしんのう、正応4年(1291年) - 没年不詳)は、[[鎌倉時代]]後期の[[皇族]]・[[女院]]。女院号は'''延明門院'''(えんめいもんいん)。[[伏見天皇]]の第4皇女。母は[[左大臣]]・[[洞院実雄]]の娘・[[洞院季子|季子]](顕親門院)。[[後伏見天皇]]の異母妹。[[花園天皇]]の同母姉。同母の兄弟姉妹には他に[[璹子内親王]](朔平門院)、[[寛性法親王]]([[仁和寺]]御室)がいる。


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[[応長]]元年([[1311年]])、21歳で[[親王宣下|内親王宣下]]を受ける。同日、[[准三宮]]となる。[[正和]]4年([[1315年]])、院号宣下を受け延明門院と称する。正和6年(1317年)、27歳のとき父・伏見院の崩御により[[出家]]し、法名を'''信正恵'''と称する。その後の消息は不明で、没年も明らかでない。

2020年6月26日 (金) 23:23時点における版

延子内親王
続柄 伏見天皇第四皇女

全名 延子(えんし/のぶこ)
称号 延明門院
身位 内親王准三宮
出生 正応4年(1291年)
死去 不明
父親 伏見天皇
母親 洞院季子
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延子内親王(えんし/のぶこないしんのう、正応4年(1291年) - 没年不詳)は、鎌倉時代後期の皇族女院。女院号は延明門院(えんめいもんいん)。伏見天皇の第4皇女。母は左大臣洞院実雄の娘・季子(顕親門院)。後伏見天皇の異母妹。花園天皇の同母姉。同母の兄弟姉妹には他に璹子内親王(朔平門院)、寛性法親王仁和寺御室)がいる。

応長元年(1311年)、21歳で内親王宣下を受ける。同日、准三宮となる。正和4年(1315年)、院号宣下を受け延明門院と称する。正和6年(1317年)、27歳のとき父・伏見院の崩御により出家し、法名を信正恵と称する。その後の消息は不明で、没年も明らかでない。

参考文献

  • 安田元久編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1990年。
  • 芳賀登他監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年。
  • 志村有弘編『天皇皇族歴史伝説大事典』勉誠出版、2008年。