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2020年6月29日 (月) 13:48時点における版
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名前 | ||||||
カタカナ | シントウ カツヨシ | |||||
ラテン文字 | SHINTO Katsuyoshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1960年9月15日(64歳) | |||||
出身地 | 広島市 | |||||
身長 | 180cm[1] | |||||
体重 | 73kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1983-1990 1990-1992 1992 1993 1994-1995 |
マツダSC 三菱自動車 浦和レッドダイヤモンズ フジタSC ベルマーレ平塚 |
? (?) - (-) ? (?) 16 (0) ? (?) | ||||
代表歴 | ||||||
1987-1990[2] | 日本 | 16 (1) | ||||
監督歴 | ||||||
1996 1997-1998 1999 2001-2002 2006-2007 2008-2009 |
平塚普及コーチ 平塚ヘッドコーチ 東邦チタニウムコーチ 横浜FC監督 中央大学ヘッドコーチ 浦和チームダイレクター | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
信藤 健仁(しんとう かつよし、1960年9月15日 - )は、日本の元サッカー選手(DF)、指導者(JFA 公認S級コーチ)。広島県広島市出身。元サッカー日本代表。中央大学文学部国文科卒業。JSL時代の登録名は信藤 克義(しんとう かつよし)で、Jリーグ後は信藤 健仁と登録されている。
来歴・人物
広島のサッカー無名校である広島県立安古市高等学校(2期生)、中央大学を卒業後の1983年、今西和男総監督と二村昭雄監督に誘われ日本サッカーリーグ1部所属のマツダSC(現 サンフレッチェ広島)に入団[3]。その年、チームは最下位となりチームは2部転落してしまう。
翌年ハンス・オフトおよびディド・ハーフナーがコーチに招聘され、双方からプロとして大きな影響を受けた[4]。1985-86年シーズン、チームは再び1部復帰。
そこでの活躍を受けて1987年、石井義信監督下で日本代表に初選出される。翌1988年、横山兼三監督就任と同時にレギュラーに定着。若い井原正巳や堀池巧らと共にディフェンスラインを形成し、1989年のワールドカップイタリア大会アジア予選を戦った。また同年6月のインドネシア戦ではゴールも記録、翌1990年のアジア競技大会北京大会では主将も務めた。
また、所属チームでは松田浩と共にセンターバックとして活躍。1986年、サッカー界全体の流れから今西にプロ契約を直談判し、マツダのプロ契約第1号となる[5]。1988年にはチームの天皇杯決勝進出に貢献した。
しかし1987-1988年シーズン、マツダは再び2部転落。1部への移籍を希望[6] し、1990年三菱自動車(現 浦和レッドダイヤモンズ)に移籍。斉藤和夫監督下で守備の要として活躍したが、2年連続下位に沈み、1992年のナビスコ杯直前、チームがトリビソンノを獲得しレギュラーを剥奪された。
1993年、フジタSC(現 湘南ベルマーレ)球団部長だった石井義信と古前田充監督に誘われ、Jリーグ入りを目指すフジタへ移籍。ベルマーレ平塚誕生後の若いチームを引っ張り、1994年昇格後のNICOSシリーズ(セカンドステージ)2位、天皇杯優勝、アジアカップウィナーズカップ優勝に貢献した。1995年、35歳で引退。
翌1996年からベルマーレ平塚サッカー普及コーチ、1997年からベルマーレ平塚ヘッドコーチ。1996年立ち上げられた「Jリーグ選手協会」にも顧問として尽力した。
2001年、代表時代から師弟関係にあった奥寺康彦に誘われ横浜FC監督就任。サッカーファンを仰天させた2-4-4の超々攻撃的システムを掲げ戦う[7]。明確な戦術を提示し積極的に若手を起用、神野卓哉をくさびとする波状攻撃を仕掛け2年間を戦うも、相手チームの徹底したカウンター攻撃に沈み、2002年はJ2最下位という結果に終わり解任された。
また現役引退後からテレビ(WOWOW他)の解説、新聞、サッカー雑誌評論などでも活躍。2006年から中央大学サッカー部のヘッドコーチも務めた。
2008年12月より、浦和レッドダイヤモンズのチームダイレクターに就任。統括責任者としてトップチームの編成等を行うも、2009年途中に、補強失敗による、チームの成績不振によって、一部サポーターから自宅襲撃に合い、体調不良を訴え、精密検査を受診したところ甲状腺の機能に障害が認められ、治療が必要と診断、11月29日に体調不良で休養に入ることを発表した。その後、12月25日にチームダイレクター退任が発表された。 「Talk on Together 2010」内で、「信藤健仁さんの健康状態はどうなのか」という一般からの質問に対し橋本光夫社長からは「健康状態は回復しつつあるが時間がかかる」とのコメント。また信藤と会談があったことが伝えられ、信藤からのコメントが発表され「謝罪も無くシーズン中にチームを離れることになって申し訳ない、出来れば回復したらここに来て謝罪したい」と言っているが2012年現在も叶ってはいない。
所属クラブ
- 広島県立安古市高等学校
- 中央大学
- 1983年 - 1990年 : マツダSC
- 1990年 - 1992年 : 三菱自動車/浦和レッドダイヤモンズ
- 1993年 - 1995年 : フジタ/ベルマーレ平塚
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1983 | マツダ | JSL1部 | |||||||||
1984 | JSL2部 | ||||||||||
1985 | |||||||||||
1986-87 | JSL1部 | ||||||||||
1987-88 | |||||||||||
1988-89 | JSL2部 | ||||||||||
1989-90 | 30 | 1 | 2 | 0 | |||||||
1990-91 | 三菱 | 25 | JSL1部 | 21 | 1 | 1 | 0 | ||||
1991-92 | 5 | 22 | 1 | 1 | 1 | ||||||
1992 | 浦和 | - | J | - | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | |
1993 | フジタ | 旧J1 | 12 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 15 | 0 | |
1994 | 平塚 | - | J | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 0 |
1995 | 2 | 0 | - | 0 | 0 | 2 | 0 | ||||
通算 | 日本 | J | 16 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 17 | 0 | |
日本 | JSL1部 | 100 | 2 | ||||||||
日本 | JSL2部 | ||||||||||
日本 | 旧JFL | 12 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 15 | 0 | ||
総通算 |
- Jリーグ初出場:1994年4月2日 対名古屋グランパスエイト戦(国立)
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 4試合0得点
- 1991年
- コニカカップ 5試合0得点
代表歴
- 日本代表初出場(国際Aマッチ):1987年5月27日 対セネガル戦(広島県営競技場)
- 日本代表初得点(国際Aマッチ):1989年6月11日 対インドネシア戦(西が丘サッカー場)
- 日本代表初出場:1987年9月15日 対上海市(中国)戦(上海)
試合数
- 国際Aマッチ 16試合 1得点(1987-1990)[2]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1987 | 2 | 0 | 5 | 0 | 7 | 0 |
1988 | 3 | 0 | 12 | 0 | 15 | 0 |
1989 | 8 | 1 | 7 | 0 | 15 | 1 |
1990 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 16 | 1 | 24 | 0 | 40 | 1 |
指導歴
- 1996年 : ベルマーレ平塚 普及コーチ(巡回コーチ)
- 1997年 - 1998年 : ベルマーレ平塚 コーチ(サテライト兼任)
- 1999年 : 東邦チタニウムサッカー部 コーチ
- 2000年 : JFA 公認S級コーチライセンス習得
- 2001年 - 2002年 : 横浜FC 監督
- 2006年 - 2007年 : 中央大学 ヘッドコーチ
- 2008年12月 - 2009年 : 浦和レッドダイヤモンズ チームダイレクター
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
2001 | J2 | 横浜FC | 9位 | 44 | 43 | 15 | 1 | 28 | 2回戦敗退 | 4回戦敗退 |
2002 | J2 | 横浜FC | 12位 | 44 | 35 | 8 | 11 | 25 | - | 3回戦敗退 |
J2通算 | - | 88 | - | 23 | 12 | 53 |
参考文献
- 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
- 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
- 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
- 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
- 『Jリーグオフィシャルガイド1994・ニコスシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102314-2
- 『Jリーグオフィシャルガイド1995・サントリーシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102318-5
- 『Jリーグオフィシャルガイド1995・NICOSシリーズ』、小学館、1995 ISBN 4-09-102321-5
- 『Jリーグオフィシャルガイド1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102324-X
- 『Jリーグオフィシャルガイド1997』、小学館、1997 ISBN 4-09-102329-0
- 『Jリーグオフィシャルガイド1998』、小学館、1998 ISBN 4-09-102335-5
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-104-9
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8116-7
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1994』、小学館、1994 ISBN 4-09-102309-6
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1995』、小学館、1995 ISBN 4-09-102317-7
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102323-1
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-099-9
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8117-5
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8135-3
脚注
- ^ a b 『Jリーグオフィシャルガイド1995・NICOSシリーズ』p96
- ^ a b “信藤 健仁”. サッカー日本代表データベース
- ^ 入団同期に小林伸二、木村孝洋、今川正浩、上原洋史、山田隆(山田直輝の実父)ら。
- ^ フィジカルトレーニングは、かつて経験したことのないほどの量と厳しさだったと言う。また、ハーフナーは24時間頭の中はサッカーだけだったと言う。
- ^ ちなみに同期の今川も同年にプロ契約している。
- ^ 英語が堪能な夫人は当時マツダ本社に勤めるキャリアウーマンで、その仕事も犠牲にしなければならなかった。
- ^ “History of YOKOHAMA FC 2002”. 横浜FC. 2013年9月21日閲覧。