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「満洲唱歌」の版間の差分

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[[1922年]](大正11年)、それまで[[南満州鉄道附属地]]と[[関東州]]で別個に教育事業を担い、教科書や副読本を発行していた[[南満州鉄道]]と[[関東庁]]が共同出資し、教科書発行事業を一本化するべく南満州教育会教科書編集部が設立された<ref>[[#喜多2003|喜多2003]]、8-9・20頁。</ref>。
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当時の満州では本土と同じ国定の教科書を用いた教育が行われていた(内地延長主義)<ref name="喜多2003-21">[[#喜多2003|喜多2003]]、21頁。</ref>が、編集部は将来の満州を支える人材を育成するべく、子供たちが満州に親しみを覚えることのできる教材を用いて教育を行おうとした(現地適応主義)<ref name="喜多2003-21"/>。唱歌集についても、[[満州]]の風土は[[文部省唱歌]]に歌われている日本の風土とかけ離れており{{#tag:ref|南満州教育会教科書編集部員であった[[石森延男]]によると、本土とは文化の異なる満州に暮らす子供たちは、文部省唱歌に登場する「井戸」・「イネ」・「田んぼ」・「田植え」・「縁側」・「わらじ」・「みの」・「梅雨」・「村の鎮守」といった言葉に実感が持てずにいた<ref name="喜多2003-12"/>。|group="†"}}<ref name="喜多2003-12">[[#喜多2003|喜多2003]]、12頁。</ref>ため、満州の風土を反映させた歌を掲載したものを制作することにした。こうして作られたのが『満州唱歌集』である<ref name="喜多2003-13">[[#喜多2003|喜多2003]]、13頁。</ref>。[[1924年]](大正13年)に初の唱歌集『満州唱歌集 尋常科第一・二学年用』が発行され<ref name="喜多2003-8">[[#喜多2003|喜多2003]]、8頁。</ref>、続いて1926年に『満州唱歌集 尋常科第三・四学年用』が、[[1928年]](昭和3年)に『満州唱歌集 尋常科第五・六学年用』が発行された。この、初めて作られた唱歌集には編集部が作った歌や一般[[公募]]の歌のほか、[[北原白秋]]・[[野口雨情]]・[[島木赤彦]]・[[谷小波]]・[[山田耕筰]]・[[信時潔]]など、当時著名だった[[歌人]]・[[詩人]]・[[作曲家]]の作品が多く収録された<ref>[[#喜多2003|喜多2003]]、9頁。</ref>。北原らは制作にあたり、編集部の招待により実際に満州を訪れている<ref>[[#喜多2003|喜多2003]]、9-10頁。</ref>。
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[[成城大学]]名誉教授の磯田一雄は、最初期の満州唱歌について、「文部省唱歌よりもずっと西洋音楽に近い感覚をもっていた」と評価し、本土よりも水準の高い満州の音楽教育の象徴の一つであったとしている<ref>[[#喜多2003|喜多2003]]、29頁。</ref>。
[[成城大学]]名誉教授の磯田一雄は、最初期の満州唱歌について、「文部省唱歌よりもずっと西洋音楽に近い感覚をもっていた」と評価し、本土よりも水準の高い満州の音楽教育の象徴の一つであったとしている<ref>[[#喜多2003|喜多2003]]、29頁。</ref>。

2020年7月3日 (金) 06:17時点における版

満州は一般に地図中の濃い赤の地域(中国東北部)を指す

満州唱歌(まんしゅうしょうか)とは、1924年(大正13年)から太平洋戦争終戦にかけて満州で発行されていた教科書(唱歌集)『満州唱歌集』・『満州小学唱歌集』・『ウタノホン』に収録された歌の総称。

満州唱歌集の誕生

北原白秋が作詞した歌は1924年から1928年にかけて発行された『満州唱歌集』に3曲収録された。

1922年(大正11年)、それまで南満州鉄道附属地関東州で別個に教育事業を担い、教科書や副読本を発行していた南満州鉄道関東庁が共同出資し、教科書発行事業を一本化するべく南満州教育会教科書編集部が設立された[1]

当時の満州では本土と同じ国定の教科書を用いた教育が行われていた(内地延長主義)[2]が、編集部は将来の満州を支える人材を育成するべく、子供たちが満州に親しみを覚えることのできる教材を用いて教育を行おうとした(現地適応主義)[2]。唱歌集についても、満州の風土は文部省唱歌に歌われている日本の風土とかけ離れており[† 1][3]ため、満州の風土を反映させた歌を掲載したものを制作することにした。こうして作られたのが『満州唱歌集』である[4]1924年(大正13年)に初の唱歌集『満州唱歌集 尋常科第一・二学年用』が発行され[5]、続いて1926年に『満州唱歌集 尋常科第三・四学年用』が、1928年(昭和3年)に『満州唱歌集 尋常科第五・六学年用』が発行された。この、初めて作られた唱歌集には編集部が作った歌や一般公募の歌のほか、北原白秋野口雨情島木赤彦巖谷小波山田耕筰信時潔など、当時著名だった歌人詩人作曲家の作品が多く収録された[6]。北原らは制作にあたり、編集部の招待により実際に満州を訪れている[7]

成城大学名誉教授の磯田一雄は、最初期の満州唱歌について、「文部省唱歌よりもずっと西洋音楽に近い感覚をもっていた」と評価し、本土よりも水準の高い満州の音楽教育の象徴の一つであったとしている[8]

1932年の大改訂

前述のように初めて発行された『満州唱歌集』には著名作家による歌が多く収録されたが、その多くは必ずしも満州の風土・風物が反映されたものではなく、編集部内部からも「満州の景物に接しない内地の名家が、果たして真に満州の子どもに適した郷土材料を作成することができるか」という批判が上がった[9]。さらに子供が歌うには曲が難解であるという批判もなされた[10]

1932年(昭和7年)に大幅な改訂がなされ、批判の強かった著名作家による作品の多くが削除され、かわりに園山民平・村岡昊・島田英雄・石森延男ら編集部員の手による、満州の風土が強く反映された歌が多く掲載された[11]。それらの歌にはロバ、やなぎのわた、高粱高足踊り[† 2]馬車(マーチョ)、粉雪、の花[† 3]山ざし[† 4]売り、満州に逃れてきた白系ロシア人のパン売りといった満州になじみの深い風物[15]や、当時の満州の子供たちが盛んに行ったスケート遊び(『わたしたち』)[16]、毎年旧暦の4月中旬に行われた娘々祭[† 5](『娘々祭』)[18]などが読み込まれた。

なお、この改定で削除された北原白秋作詞の『ペチカ』は本土の教科書に掲載され、その後の日本において広く親しまれるようになる[19]。同様の作品に、1940年の大改訂で削除された[20]待ちぼうけ』がある[19]

1940年の大改訂

1937年(昭和12年)、南満州鉄道は南満州鉄道附属地における行政権を1932年に成立した満州国へ移譲した。これにより南満州鉄道附属地であった地域の日本人子弟の教育は日本大使館教務部が担うこととなり、それまで行われていた裁量の大きい教育は終わりを告げた[21]

南満州教育会教科書編集部は日本大使館教務部と関東局が合同で経営することになり、名称は「在満日本教育会教科書編集部」に変更された[22]。この新体制の下、1940年(昭和15年)に2回目の大改訂が行われ、教材名は『満州小学唱歌集』と改められた[20]。『満州小学唱歌集』は2年用のものしか見つかっておらず[23]、その他の学年で使用されていた唱歌集に収録されていた曲の詳細は不明であるが、これを見る限り、この改訂で従来の『満州唱歌集』に掲載されていた満州の自然や風土を歌った歌がいくつか削除され、かわりに『ふじの山』、『もみじ』など9曲の文部省歌が掲載されている。さらにそれまで高学年用の唱歌集にいくつか掲載されていたにすぎなかった戦争色の強い歌が掲載された。なお、この時の改訂で唱歌集の題名は『満州小学唱歌集』に変更されている[24]。この改訂で満州の唱歌集はその独自色を失い、本土のものと大きく変わらなくなった[25]

1942年の大改訂

1942年(昭和17年)に行われた大幅改訂では題名が『ウタノホン』に変更された[26]。題名から「満州」という言葉が消えるとともに、1940年の大改訂で失われた満州の独自性はさらに後退し、6割以上が文部省唱歌で占められた[26]

『ウタノホン』は上下2巻からなり、上巻は国民学校1年用の、下巻は2年用の教材であったといわれる。産経新聞記者の喜多由浩はこの改訂について、「満州らしい歌は、ほんの申し訳程度しか入っていない」、「『ウタノホン』が発行された時点で、満州の唱歌集は事実上、終焉を迎えたといってもいい」と評している[27]。この時点で、『満州唱歌』の制作に携わった者の多くは満州を離れ本土へ戻っていた[28]

1945年(昭和20年)8月、第二次世界大戦終結直前にソ連の進行を受け、満州国は崩壊した。戦後、『ペチカ』や『待ちぼうけ』など一部の作品を除き、満州唱歌が日本の教科書に掲載されることはなかった[29]

主な満州唱歌

  • 待ちぼうけ』 - 北原白秋作詞・山田耕筰作曲。1924年発行の『満州唱歌集』に収録された。満州唱歌用に作られた作品であったが、その後内地でも流行した[30]。1940年の大改訂で削除された[20]
  • ペチカ』 - 北原白秋作詞・山田耕筰作曲。1924年発行の『満州唱歌集』に収録された[5]。1932年の大改訂で削除された[19]
  • 『わたしたち』 - 園山民平作曲(作詞者は不明)。1932年の大改訂で『満州唱歌集』に収録された[11]。最も有名な満州唱歌のひとつ[31]。3番の歌詞には当時満州で盛んにおこなわれていた(一方内地ではほとんど行われていなかった)スケート遊びが登場する[32]
  • 『たかあしをどり』 - 村山昊作詞・園山民平作曲[12]。最も人気の高い満州唱歌のひとつ[12]。1924年発行の『満州唱歌集』に収録されて以降、3度の大改訂で削除されることなく『満州小学唱歌集』・『ウタノホン』にも掲載されたことが確認されている唯一の満州唱歌[12]
  • 『メガデタ』- 野口雨情作詞・大和田愛羅作曲の作品が1924年発行の『満州唱歌集』に収録された[33]が、1932年の大改訂で曲が変更された[† 6]。曲変更後の『メガデタ』は『満州小学唱歌集』・『ウタノホン』にも収録されている[33]
  • 『やなぎのわた』 - 『メガデタ』と同様に1924年発行の『満州唱歌集』に収録された後で詞・曲ともに変えられた[33]。詞・曲が変えられた後の『やなぎのわた』は『満州小学唱歌集』・『ウタノホン』に収録された[33]
  • 『娘々祭』 - 村岡昊作詞・園山民平作曲[34]。1932年の大改訂で『満州唱歌集』に収録された[35]。なお、旧制中学校高等女学校用に出版された『満州新中等唱歌』には歌詞と曲が異なる同じ題名の曲が収録されている[36]

脚注

注釈

  1. ^ 南満州教育会教科書編集部員であった石森延男によると、本土とは文化の異なる満州に暮らす子供たちは、文部省唱歌に登場する「井戸」・「イネ」・「田んぼ」・「田植え」・「縁側」・「わらじ」・「みの」・「梅雨」・「村の鎮守」といった言葉に実感が持てずにいた[3]
  2. ^ 1m超の高足を履いて踊る踊り。旧正月や祭りで見ることができた[12]
  3. ^ 満州において春の訪れを告げる花とされた[13]
  4. ^ 赤い実に水飴を塗り、藁に刺したものが売られていた[14]
  5. ^ 福寿、治眼、授児の3人の女神を祀る祭り[17]
  6. ^ 変更後の曲は園山民平の作品といわれている[33]

出典

  1. ^ 喜多2003、8-9・20頁。
  2. ^ a b 喜多2003、21頁。
  3. ^ a b 喜多2003、12頁。
  4. ^ 喜多2003、13頁。
  5. ^ a b 喜多2003、8頁。
  6. ^ 喜多2003、9頁。
  7. ^ 喜多2003、9-10頁。
  8. ^ 喜多2003、29頁。
  9. ^ 喜多2003、34頁。
  10. ^ 喜多2003、34-35頁。
  11. ^ a b 喜多2003、35-36頁。
  12. ^ a b c d 喜多2003、62頁。
  13. ^ 喜多2003、50頁。
  14. ^ 喜多2003、51・54頁。
  15. ^ 喜多2003、13-14・50-52頁。
  16. ^ 喜多2003、38-41頁。
  17. ^ 喜多2003、46-47頁。
  18. ^ 喜多2003、43-44・46-48頁。
  19. ^ a b c 喜多2003、11頁。
  20. ^ a b c 喜多2003、59頁。
  21. ^ 喜多2003、58頁。
  22. ^ 喜多2003、58-59頁。
  23. ^ 喜多2003、63-64頁。
  24. ^ 喜多2003、59-61頁。
  25. ^ 喜多2003、60-61・66-67頁。
  26. ^ a b 喜多2003、66頁。
  27. ^ 喜多2003、66-67頁。
  28. ^ 喜多2003、67-68頁。
  29. ^ 喜多2003、69頁。
  30. ^ 喜多2003、8-11頁。
  31. ^ 喜多2003、38頁。
  32. ^ 喜多2003、39-41頁。
  33. ^ a b c d e 喜多2003、63頁。
  34. ^ 喜多2003、47頁。
  35. ^ 喜多2003、35頁。
  36. ^ 喜多2003、47-48頁。

参考文献

  • 喜多由浩『満州唱歌よ、もう一度』産経新聞ニュースサービス、2003年。ISBN 4-594-04201-5