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== その他 ==
== その他 ==
児童文学者の[[谷小波]](当時8歳)は、クララの来日直後より、彼女からドイツ語の指導を受けている。
児童文学者の[[谷小波]](当時8歳)は、クララの来日直後より、彼女からドイツ語の指導を受けている。


== 顕彰 ==
== 顕彰 ==

2020年7月3日 (金) 06:19時点における版

松野 クララ(まつの クララ、独語名: Clara Louise Zitelmann[1][2](クララ・チーテルマン)、1853年8月2日 - 1941年)は、明治時代幼児教育者。ベルリン生まれのドイツ人女性。

経歴

フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校に学ぶ。1876年(明治9年)に来日し、ドイツで知り合った松野礀(まつの はざま、林学者、農商務省官吏)と結婚。日本人男性とドイツ人女性の国際結婚の第1号だった。翌年、娘の文(ふみ、Frida Fumi)を出産[3]

以後、日本における近代幼児教育の基盤整備に取り組み、東京女子師範学校附属幼稚園の最初の主席保母として、ドイツの養成所で学んできたフレーベルの理論や保育内容の実際をほぼ舘に直接教え、後には東京女子師範学校の保母練習科の生徒たちにも教授した。[4]また当時珍しかったピアノを弾いて一緒に子どもたちと遊戯を楽しんだ保育者の第一号でもる。1908年(明治41年)5月4日、クララは夫の死去後にドイツに帰国し、1941年、ベルリンにおいて88歳で逝去した。なお、クララが離日した時期や、その事情は定かではない。また墓所も研究者の調査にもかかわらず不明のままである[5]

活動と業績

1876年に設立された東京女子師範学校付属幼稚園にて、初代監事(園長)関信三の下で首席保母となり、豊田芙雄(ふゆ、女性)[6]・近藤濱を保母として、フレーベルの恩物の使い方や遊戯、実際的な保育の技法を通じて、フレーベルの教授法を初めて日本に導入するに当たり功績があった。また、1878年設置の同校保母練習科で保育法をも教授した。宮内省式部職の命により、1879年から雅楽部の小篠秀一芝葛鎮東儀季芳奥好義に、1884年から辻則承に、ネイサン・リチャードソンの教則本「ピアノフォルテのためのニュー・メソッド」を用いてピアノを教えている[7]。のち1881年以後は、華族女学校でピアノを指導している。

なお、夫が死去した翌年の1909年(明治42年)、千葉県清澄山周辺にある東京大学千葉演習林の外国樹種植栽一帯を「松野記念林」[8]とし、クララの主導により外国樹種の記念植林が行われた。

家族

娘の文はリチャード・ニクラス・オーリー(Richard Nikolaus Ohly)に嫁ぎ、2子を儲けるも24歳で死去する。その遺児はクララに引き取られたが、いずれも早世した[9]。クララの妹・エンマの夫であったフリードリッヒ・プッチール[10]お雇い外国人として来日し、旧制一高東京外国語学校などでドイツ語を教えている。フリードリッヒも1901年に死亡したので、クララは夫の死後から離日まで、妹・エンマと夫の姉・章子と女世帯で暮らしていた。

その他

児童文学者の巖谷小波(当時8歳)は、クララの来日直後より、彼女からドイツ語の指導を受けている。

顕彰

1976年11月16日に発行された「幼稚園100年記念」の記念切手には武村耕藹の絵には、子どもたちと一緒に遊戯(フレーベルの『母の歌と愛撫の歌』の「家鳩」)をしているクララの姿が描かれている。当時、幼稚園の遊戯室にはピアノが1台しかなく、弾けるのは彼女だけだった。

2011年11月、青山霊園にあるクララの夫と娘の墓所のそばに、クララの顕彰碑が建立された。これは日独交流150周年の記念事業の一環として行われたものである。

参考文献

  • 小林富士雄『松野礀と松野クララ 明治のロマン 林学・幼稚園教育事始め』大空社 2010年
  • 原田朋香「松野クララの経歴ー先行研究の整理に基づいて」武庫川女子大学大学院 教育学研究論集 第5号 2010年 p.119 - 128

脚注

  1. ^ Tietermannと表記された文献もある。日本ペスタロッチー・フレーベル学会編『ペスタロッチー・フレーベル事典』玉川大学出版部 2006年の「松野クララ」の項では旧姓をツィーデビルマンだとしている。また、名も以前はKlara表記が多かったが、近年の研究ではClara表記が主流である。
  2. ^ 旧姓の最初のアルファベットがZかTかということについては、2011年5月、津守眞本田和子宮里暁美、小林恵子、立浪澄子を発起人とし、26人名の教育学者、保育学者、教育史研究者と3つの施設、機関を賛同者として松野クララ顕彰碑建設基金事務局が、顕彰碑建設のための寄付を募った文書で、使用されている欧文名を国内では定説となっているものとして尊重した。
  3. ^ 南雲元女「松野クララの人間的側面 : 研究ノート(その一) (人でつづる保育史)」幼児の教育75 ( 11 ) , pp.32 - 37 , 1976-11-01 , 日本幼稚園協会
  4. ^ 土山忠子、山本和美『新版現代保育原理』建帛社 1997年 p.161
  5. ^ 南雲元女「松野クララの人間的側面 : 研究ノート(その二) (人でつづる保育史)」幼児の教育75 ( 12 ) , pp.12 - 17 , 1976-12-01 , 日本幼稚園協会
  6. ^ 藤田東湖の姪で、生涯を女子教育、幼児教育に捧げた実践家。
  7. ^ 秋山龍英 編「(大正9年11月「月刊楽譜」第9巻第11号)最初のピアノの教師クララ女史 奥好義氏談」『日本の洋楽百年史』第一法規出版、1966年、335頁。 
  8. ^ 大日本山林会 - 松野はざまと東京大学演習林
  9. ^ 2010年8月、長野県短期大学教授の立浪澄子が、ドイツのルードルシュタットを訪問。クララの子孫の調査を行った。現地のニュース
  10. ^ Friedich Putzier、外国語学校、東京大学予備門、第一高等学校でドイツ語を教えた。

関連項目