「禔子内親王」の版間の差分
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'''禔子内親王'''(ししないしんのう / ただこないしんのう、[[長保]]5年([[1003年]]) - [[永承]]3年[[閏月|閏]][[1月29日 (旧暦)|1月29日]]([[1048年]][[3月16日]]))は、[[平安時代]]中期の[[皇族]]。[[三条天皇]]の第2皇女。母は[[藤原娍子]]([[藤原済時]]の長女)。同母兄姉に、[[敦明親王]](小一条院、[[後一条天皇]]の廃太子)、[[敦儀親王]]、[[敦平親王]]、[[当子内親王]]、同母弟に、[[師明親王]](性信入道親王)がおり、異母妹に、[[後朱雀天皇]]の皇后、[[後三条天皇]]の母である[[禎子内親王]](陽明門院)がいる。 |
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== 生涯 == |
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2020年7月3日 (金) 06:20時点における版
禔子内親王 | |
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続柄 | 三条天皇第二皇女 |
全名 | 禔子(しし/ただこ) |
身位 | 三品・内親王 |
出生 |
長保5年(1003年) |
死去 |
永承3年閏1月29日(1048年3月16日)(享年46) |
配偶者 | 藤原教通 |
父親 | 三条天皇 |
母親 | 皇后藤原娍子 |
禔子内親王(ししないしんのう / ただこないしんのう、長保5年(1003年) - 永承3年閏1月29日(1048年3月16日))は、平安時代中期の皇族。三条天皇の第2皇女。母は藤原娍子(藤原済時の長女)。同母兄姉に、敦明親王(小一条院、後一条天皇の廃太子)、敦儀親王、敦平親王、当子内親王、同母弟に、師明親王(性信入道親王)がおり、異母妹に、後朱雀天皇の皇后、後三条天皇の母である禎子内親王(陽明門院)がいる。
生涯
幼い頃より父、三条天皇の愛情を受けて育ち、寛弘8年(1011年)10月22日に内親王宣下を受け、寛仁3年(1019年)2月29日に著裳し、同年三品に進む。
長和4年(1015年)、(退位目前の)三条天皇は禔子を藤原頼通(藤原道長の長男)へ嫁がせることで道長の勢力を牽制しようとしたが、(愛妻への思いと、怨霊が原因とみられる)頼通の病気により実現せず[1]、禔子は万寿3年(1026年)に藤原教通(頼通の弟)の継室として降嫁した。これは内親王と臣下との結婚において、天皇により内親王の降嫁が裁可された最初の例であったが、禔子は教通との間に子をもうけることなく、46歳で薨去した。
脚注
- ^ 『栄花物語』巻第十二「たまのむらぎく」。
参考資料
- 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』(三省堂、1993年) p.603