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「九条家」の版間の差分

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2020年7月3日 (金) 22:37時点における版

九条家
家紋
九条藤くじょうふじ
本姓 藤原北家九条流嫡流
家祖 九条兼実[1]
種別 公家摂家[1]
華族公爵
出身地 山城国京都九条[1]
主な根拠地 山城国京都
著名な人物 慈円
九条良経
九条道家
藤原頼経
藤原頼嗣
九条幸家
九条道孝
貞明皇后
九条道弘
支流、分家 二条家(摂家)
一条家(摂家)
月輪家(公家)
栗田家(公家)
靏殿家(奈良華族)
凡例 / Category:日本の氏族

九条家くじょうけは、五摂家のひとつで公家である[2][1]

概要

藤原北家嫡流藤原忠通の六男である九条兼実を祖とする家[1]で、現在日本全国に散らばる藤原鎌足より続く藤原一族の男系血統上の宗家にあたる(家格としての嫡流に関しては近衛家を参照)。藤原基経創建といわれる京都九条にあった九条殿に住んだことが家名の由来。別称は陶化殿。また、兼実の同母弟兼房の子孫も「九条家」に含めることもあるが、こちらは早い段階で断絶している。

兼実の孫にあたる道家の子、教実良実実経摂関となり、それぞれ、九条家、二条家一条家を立てて、五摂家が成立した。

兼実は異母姉である藤原聖子の皇嘉門院領を伝領し、九条家領の基礎となった。平氏政権後白河法皇には批判的で、源頼朝の推挙で摂政、次いで関白となり、以後摂関職は近衛流と九条流から出る。兼実の孫・道家は、子の頼経とその息子頼嗣が相次いで鎌倉幕府摂家将軍となったことにより、朝廷内で権勢を振るった。

中世に九条家領は広がり、江戸時代には家禄2044石を領し、のち3052石(松殿家の所領含む)に加増され、明治に至った。

明治維新後、九条道孝公爵に叙せられ、その四女・節子は大正天皇皇后となった(貞明皇后)。

嫡流を巡る対立

九条道家は嫡男・九条教実に先立たれ、次男・良実は事実上の勘当状態にあった。そこで道家は嫡孫にあたる教実の子・九条忠家に対して処分状遺言状のようなもの)を渡し、当時の公家にとってもっとも重要な遺産であった日記などの文書類は一条家の相伝とするが、東福寺などの一族寺院の管理権を司る家長者は、まず最初は三男である実経が継ぎ、その次には長男の子、九条忠家が継承して、以後は2人の子孫のうちでもっとも官職の高い人物(一門上首)が継ぐこと、2人の子孫の断絶あるいは摂関の地位に就けずに子孫が摂家の資格を失った場合には家長者はその所領を没収できるものとした。また、道家自身、忠家を自身の後継者として考えていたことは、嘉禎4年(1238年)の忠家の元服が藤原忠通・兼実の先例に従って実施されたこと、寛元4年(1246年)5月に忠家が病に倒れた時には春日大社に対して「就中小僧子孫雖多、可継家之者是也、為嫡孫故也」と記した願文を納めていることから推定可能であり、少なくとも実経をもって忠家を替える考えはなかったものと考えられている[3]

だが、建長4年(1252年)に発生した了行による謀反事件に九条家が関わりありとされ、従兄弟にあたる鎌倉幕府将軍九条頼嗣は解任され、忠家も7月20日に後嵯峨上皇勅勘を受けて右大臣を解任、さらに騒動の最中の2月には祖父・道家も急死したために忠家およびその子孫が摂関を継承することは不可能になったと考えられるようになった。文永2年(1265年)になって、先の処分状によれば九条彦子こと宣仁門院から忠家の嫡男(忠教)に継承されるはずであった所領を実際に忠教が相続することに対して一条家が異議を挟んだことから両家の対立が激化した(忠教はその後関白になっているものの、問題発生時には正二位非参議に過ぎず、当時の公家社会の認識では将来摂関の地位に就く可能性はなかった)。九条忠家は最終的に文永10年(1273年)に失脚以来21年目にして関白に就任して復権、その後息子の忠教も正応4年(1291年)に関白に就任したことで、九条家も道家の処分状の要件を満たしたものの、確執のあった一条家は家長者の地位を手放さなかったため、一条家が九条流における嫡流の地位が定着したかにみなされた。ところが、嘉元2年(1304年)になって今度は一条内実が摂関に就任しないまま急逝(死去当日に内覧宣下)、今度は一条家が道家の処分状を満たしていないという疑義が生じた。文保2年(1318年)の後醍醐天皇即位式の際に花山院家定一条内経(内実の嫡男)との間で行列の順番を巡る争いが生じた(『増鏡』)。これは少なくても清華家の家定は摂関の子ではない内経を摂家(九条流の嫡流)とはみなしていなかったことを示している。この状態は翌年の内実の関白就任で解消されたものの、九条家が一条家の家長者独占を不当とみなして後醍醐天皇に対して事態の是正を働きかけ、元亨4年(1324年)に天皇は九条家に対して綸旨を下し、一門上首が家長者の地位に就くべきであるとした(『九条家文書』九-4)。

南北朝時代になって、北朝貞治4年(1365年)に一条経通が没すると、一条家に次ぐ勢力であった九条経教後光厳天皇に対して経通の息子である房経が不当に「家長者」を名乗っていると訴えた。当時、長子相続制が一般的になりつつあり、その論理に従えば道家の長男の子孫の九条家こそが家督を継ぐべき嫡流に当たるというのである。これに対して房経は、「九条家の家祖が長子だからといって、その流派の嫡流であるとは限らない、一条実経が九条道家から家督を譲られたからこそ、九条流摂関家の政治的権威を裏付ける文書類である桃華堂文庫後二条師通記玉葉玉蘂)が一条家に伝わっているのだ」と反論し、これに対して九条経教は、「実経への継承は九条忠家が幼少であったがゆえの措置であり、九条教実が長命であればこのようなことは起こりえなかった。処分状の宛先(遺言の執行者)が仮にでも九条忠家になっていること、問題とされた処分状の正本や東福寺の敷地に関しての土地権利書が九条家に伝承されているのは九条家が嫡流であるからゆえではないか?」と抗弁した。これに対して後光厳天皇は九条家から提出された道家処分状の正本を確認した上で、同年貞治4年(1365年)11月29日に九条家に対して綸旨を下し、「道家の遺志はあくまでも一門上首による家長者の継承であり、その資格を有する九条家と一条家は嫡流としての同格である」と裁決した。鎌倉時代は一条家が九条流の嫡流であったが、室町中期以降、九条家の地位が上昇し、一条家、九条家が九条流の嫡流とされた。江戸時代中期以降は松殿家の所領も併せて継承することとなり、最大の石高となった九条家が広大な屋敷を構え、九条流の嫡流であると主張した。

主な当主

系譜

九条邸跡

現在の京都御苑の南西部に旧九条邸はあった。

現在は庭園部分のみが整備されて残っている。九条池と呼ばれる庭園の池の中島には鎮守社だった厳島神社が、また池畔には拾翠亭と呼ばれる瀟洒な茶室が、いずれも現存している。母屋などの主要な建物は、明治時代初期の東京移住命令に伴い東京の九条邸に移築された。近年になってこれが東京国立博物館に寄贈され、「九条館」と命名された。

幕末の領地

国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の九条家領は以下の通り。(7村・3,052石余)

  • 山城国愛宕郡のうち - 3村
    • 一乗寺村のうち - 22石余
    • 松ヶ崎村のうち - 252石余
    • 静原村のうち - 101石余
  • 山城国乙訓郡のうち - 1村
    • 円明寺村のうち - 712石余
  • 山城国紀伊郡のうち - 2村
    • 深草村のうち - 623石余
    • 東九条村のうち - 340石
  • 摂津国豊島郡のうち - 1村

脚注

  1. ^ a b c d e 太田 1934, p. 2081.
  2. ^ 九条(くじょう)の意味”. goo国語辞書. 2019年11月29日閲覧。
  3. ^ 三田武繁「摂関家九条家の確立」(初出:『北大史学』第40号(北海道大学、2000年(平成12年))/所収:三田『鎌倉幕府体制成立史の研究』(吉川弘文館、2007年(平成19年)) ISBN 978-4-642-02870-7 補論1) P2007年、P86-89

参考文献

  • オープンアクセス太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 九條 クデウ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2081-2084頁。 NCID BN05000207OCLC 673726070全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/134 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 太田亮『姓氏家系大辭典』(角川書店1963年
  • 摂家-九条家-公卿類別譜(公家の歴史)”. 公卿類別譜. Kugyoruibetsufu. 2017年5月21日閲覧。
  • 絶家・社家〔高向・多治比・田向・丹波・月輪・伴〕”. 公卿類別譜. Kugyoruibetsufu. 2017年5月21日閲覧。
  • 高橋秀樹『日本中世の家と親族』第一部第三章「貴族層における中世的「家」の成立と展開」(吉川弘文館1996年ISBN 4642027513
  • 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏摂家流【2】”. 日本の苗字7000傑. 2017年5月21日閲覧。
  • 九条(九條)家(摂家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~”. Reichsarchiv ~世界帝王事典~. ネケト. 2017年5月21日閲覧。
  • 三田武繁「摂関家九条家の確立」(初出:『北大史学』第40号(北海道大学2000年)/所収:三田『鎌倉幕府体制成立史の研究』(吉川弘文館、2007年ISBN 978-4-642-02870-7 補論1)

関連項目